第十八話 命を賭けた契約
静まり返った森の奥。沈みかけた三日月の薄明かりが、二人の影を長く地面に引き伸ばしていた。
「何を言っている」
シリウスの低い声が、風に乗って消えた。
『あなた……わたしを殺してくれる?』
それは、ステラがまとまらない考えのまま咄嗟に言った言葉だった。母を救ってもらう代わりに、命も、身体も、すべてをシリウスに捧げると――そう誓った。その誓いが母の幸せを壊すことになるとは思っていなかった。
「ごめんなさい、もうどうしていいか」
シリウスが国王陛下を殺せば、母の生きる意味が消えてしまうのだ。ステラの全てだった、母親の全てがなくなってしまう。それならば自分が消えればいい、できるならシリウスの手で。身勝手だけれど、そうすればシリウスも母も傷つけずに済む。
ステラは勢いのまま、もう一度殺してほしいと言おうとして、シリウスの手を握った。
「ステラ、全てを捧げたなら、その命も俺のものだ」
強い言葉だった。ステラは彼の言葉に責められているようで、触れていたシリウスの手を離そうとした。しかし追いかけるように、シリウスに手を握られる。
「勝手に死のうとするのは、裏切りだろう」
「裏切り……」
母を選ぶことはシリウスとの決別を意味する。何より近づくなと言っていた、アンタレスの婚約者になってしまった。シリウスは眉を寄せて目を細めた。
「何故……お前から他の男の匂いがする?」
ぎくりとした。ステラの手を引き寄せて、彼は匂いを嗅ぐ。吸血鬼の嗅覚は誤魔化せないようだ。
「ごめんなさい……アンタレスの王太子の婚約者になったみたい」
シリウスの手がぴくりと動いたのがわかった。ステラは続ける。
「わたしの立場では、断ることはできない。でも、だから、あなたの役に立つにはどうすればいいのか」
「あいつが何故お前に……」
シリウスは、言いかけて止まった。ステラの手を握っていた彼の手からゆっくり力が抜けた。シリウスが、ステラから離れる。
「シリウス?」
「お前はレグルスと、婚姻するのか? 近づくなと言ったのに……裏切るのか?」
シリウスが呟いた。冷え冷えとした赤い瞳だった。声が一段低くなり、ステラの手を離すと、シリウスはステラの首筋に手を添えた。
「お前が裏切るなら、俺はそれを許せない」
ステラは赤い染みの残った地面を見る。そのまま瞳を閉じて彼の怒りを受け入れた。
「そうね……あなたを裏切ってしまうくらいなら、あなたに殺されるほうが……」
ステラは顔を上げて苦く笑う。シリウスはそんなステラを見て眉を寄せた。
「もし、あなたに危険を及ぼすくらいなら死ぬわ……だから、お母様だけ守ってくれない?」
「やめろ」
シリウスはステラの首から手を離す。殺されると思ったけれど、彼は僅かに指先で首筋をなぞっただけだった。
「殺して、くれないの?」
「お前が決めるな」
彼は怒っていた。やはりこの程度の覚悟では許されないだろうか。シリウスは一度口を開いて、閉じた後、強い瞳でステラを見据えた。
「俺のものを勝手に殺すな。俺がいつか殺すから……それ以外で死ぬことは許さない」
「あなたを裏切るかもしれないわ」
「お前が裏切ったと分かるまでは……それまでは、死んではいけない」
殺すと言われたのに、死ななくていいと言われた気がした。ステラは泣きたくなって、少しだけ空を見上げる。夜が深くなっていて、星の光がよく見えた。沈みかけた三日月は、今にも消えそうな細い光でこちらを見ている。
「あなたが、殺すまで生きてていいの?」
「そうだ。だから死んではいけない」
「なら……あなたに殺されるまでは、わたしは生きて、あなたに協力するわ。どうなろうとも」
シリウスは、ステラのうなじに手を回して、そっと自分の方に引き寄せた。彼の美しい顔が間近に迫る。
次の瞬間、シリウスの冷たい唇がステラの首筋に寄せられた。彼の吐息がステラに伝わる。シリウスの牙が皮膚を捉え、熱い痛みが走った。
「……っ」
ステラの首筋から、血が流れ出る。シリウスはそれを舌で舐めとった。
強い酩酊に、甘い疼き。痛みはあったけれど、それ以上にこの上なく幸せに感じて、ステラは涙を流した。
彼が離れていくのが寂しくて、ステラは首を傾けて彼に差し出した。シリウスがもう一度首筋に唇を寄せる。彼の舌がステラの肌を這う。強い快感に、声が漏れそうになった。再度感じた鋭い痛みは、それでもぼやける思考を鮮明にはしてくれなかった。
ああ、これは契約なのだ。熱い痛みと酷い甘さを伴った、命を賭けた契約の証だった。
◇
ステラから香る薔薇の匂い。舐めとった血は、甘く、シリウスの鼓動を強くした。酒に酔う感覚とは、こういうことだったのか。何も言わないステラを腕の中に引き寄せたまま、シリウスは強い風が奏でる葉の揺れる音を聞いた。この音がなければ、自分の心臓の音が外に漏れていたかもしれない。
血を飲んでから、頭が異様に冴え渡っていた。息を吸って吐く、それだけで以前と自分の力が違うことを感じる。
シリウスはステラの金色の髪を撫でた。びくりと彼女が反応したあと、身体の力が抜けるのが伝わった。
(レグルス・フォン・アンタレス……言ったはずだ。お前に大切なやつができたら、また来る、と)
シリウスはステラの首筋に唇を落とす。彼女の肌は甘く、これは自分のものだという証が欲しかった。自分でも抑えられずに、もう一度ステラの首筋に牙を立てると、傷跡が少しでも長く残るように強く血を吸った。
(これは、俺のものだ)
執拗に何度も彼女の首に口付けを落とした後、シリウスは赤い瞳で暗闇に消えそうな月を睨みつけた。




