第十七話 甘い嘘と苦い願い
ステラはイチイの木の根元に座り込んで、瓶に入れた灰を月の光に翳していた。あの夜より少しだけ太った三日月は、満足な灯りを届けてはくれなかった。
シリウスはいつ来るだろうか。内門から本邸までの見張りの数と、人目につかない道はわかった。今日はそれを報告すればいい。それだけなのに、ステラは心臓のざわめきが抑えられなかった。
「ミラはどうして全てを捨てて吸血鬼になったの?」
独り言を、風が虚しくさらっていった。
「吸血鬼になりたいのか?」
ぎくりとした。頭上から驚くほど冷たく、美しい声が降ってきた。上を見上げると、イチイの木の上に赤い瞳の吸血鬼がいた。シリウスは何も言わず、じっとこちらを見下ろしていた。
「吸血鬼になりたいって言ったら……どうする?」
ステラは立ち上がってシリウスに問いかけてみた。返事はない。予想通りの反応に、ステラは笑った。
「冗談よ。今日はミラの遺灰を持ってきたの……弔い方を聞こうと思って」
シリウスは音もなくステラの前に降り立つ。ステラの手元の遺灰を見つめると、薄く光る三日月に視線を移した。
「遺灰を埋めて、血を捧げるだけだ」
「血を?……わたしの血でもいいのかしら」
シリウスはふっと笑った。彼の笑顔がステラの胸を締め付ける。
「貸してみろ」
差し出されたシリウスの手に、瓶を渡した。彼は木の根元を手で掘って瓶を埋める。ステラは横に座り込んで、それを眺めた。風の音と、水の流れる音、地面を掘る音が混ざり合った。
「手を」
「手?」
ステラはシリウスの手に自分の手を載せた。彼は土の中に埋めたミラの遺灰の上で、長い爪を使いステラの指先を切った。
「……っ」
微かな痛みの後、赤い血の滴が地面を彩った。シリウスは自らの指先も切り、数滴の血を垂らした。
赤い血が地面に染み込んでいった。
ステラは顔を上げてシリウスを見た。シリウスはもう傷の塞がっている自分の手を確認した後、ステラに視線を向ける。
「……泣いたのか?」
「え……?」
シリウスの白い指先が、ステラの目尻を触った。触れられたところから、どんどん熱を持っていくのがわかった。先ほどから心臓がおかしい。
シリウスは無表情のまま、ステラを見ている。目尻から指先が下りてきて、一瞬唇に触れる。シリウスはそのまま、血の滲むステラの手を握り、自分の口元へ引き寄せた。指先の血を、シリウスは舐めた。
指先が火傷しそうなほど熱く感じて、ステラは彼の伏せられた長いまつ毛を見た。くらくらと目眩がする。数秒ほどの時間だったはずなのに、永遠のように長く感じた。
◇
口元に寄せたステラの指先から、抗えないほどの甘い香りがした。指先がシリウスの唇に触れて、その熱さに驚いた。ゆっくりと滲み出る血を舐め取って、そのまま口に含む。
今まで飲んだことのない、ひどく甘い味だった。シリウスの胸に、知らなかった心臓のざわめきと、抑え難い感情の揺れが押し寄せた。目眩がする。
人間の血とは、これほどまでに吸血鬼を狂わせるものだったのか。それとも――ステラの血だからなのか。
強くなる欲望をどうにか鎮めて、シリウスはステラの指先を離す。彼女の指の傷は塞がっていた。
「シ、シリウス」
「ステラ、何故泣いた?」
ステラの目元が赤くなっている。今日はアルデバランの国王と会うと言っていた。泣くほどの何かを言われたのかもしれない。傷ついているのなら、彼女の報復の手伝いくらいはできる。今も青い瞳が潤んでいる。それだけでシリウスの苛立ちは募った。
「泣いてないわ」
「嘘をつくな」
遠慮をしているのだろうか。俯いたステラが震える声で吐く嘘が気に入らなくて、シリウスは彼女の頬に触れた。びくりとステラが反応する。
濡れた青い瞳が、シリウスを捕らえた。瞬間、むせるほどの薔薇の香りがした。
(血を、飲んだからか……? こんな……)
ステラは泣いていた。金色のまつ毛に雫がついている。シリウスは無意識にその涙を拭っていた。
「泣いてない。泣く権利もないもの……」
「泣いているじゃないか」
ステラはシリウスの手に触れた。伝わってくる彼女の体温が、シリウスに理解できないほどの動揺を与えた。
「あなた……わたしを殺してくれる?」
先ほどまでの震えが嘘のような、鈴を鳴らすようなステラの声が、静かな森に響いた。




