第十六話 選べない選択肢
謁見が終わって、ステラは混乱する頭のまま逃げるように帰宅した。用意された馬車もエスコートを申し出たレグルスさえも断った。
明日また迎えに行くという申し出も聞き流しながら、ステラは無礼を承知で足早に謁見の間を退出した。仕方がなかった。頭が真っ白で、何も考えられなかったのだ。
白いドレスのまま、森を駆け抜ける。髪の毛が乱れていたけれど、気にならなかった。以前は走ると痛み出していた心臓も、何ともない。興奮して痛みを感じていないのかもしれない。それでもステラは、足を動かした。
とにかく逃げなければ。早く王宮にシリウスを手引きして、母親と共に逃げる。でないと、何か大きな出来事に巻き込まれてしまう気がした。ステラ自身はどうなってもよかったが、母親に被害が出てしまうのは駄目だ。
「お母様! お母様!」
別館の扉を勢いよく開け放って、ステラは大声を出した。屋敷には相変わらず下働きさえいない。母の部屋の扉をノックすると、すぐに中から返事がした。
「ステラ、どうしたの」
「お母様、話があるの」
「あなた、その格好……何かあったの?」
母はステラの格好を見て驚いていた。当たり前だ。今までろくな服を着ていなかった娘が、正装で帰ってきたのだから。ステラは乱れる息を整えながら母親に言った。
「今日、国王陛下に呼び出されたわ」
「まあ! 今日だったのね、婚約のことを伝えるのは」
「え……っ」
予想外の反応にステラは言葉を切った。母はステラに中へ入るように促すと、ティーセットを載せたワゴンからステラの分の紅茶を淹れ始めた。
こんな高価なティーセットなんて、あっただろうか。今はそれどころではなかったけれど、不思議とそれが気になった。
「あなたのお父様から聞かされていたの。アンタレスの王太子殿下とステラが結婚することになるって。あの人がステラのことを考えてくれてたなんて……」
かちゃりとステラの前に、紅茶の入ったカップが置かれる。
「いつ、いつ……? いつ聞いたの?」
「ふふ、驚いたでしょう。最近ね、侍女が出入りして、陛下からの連絡をくれるのよ。アンタレスの王太子殿下もご挨拶に来てくれたわ。あなたを相当気に入ってくださったって」
血の気が引いた。ステラが気づいていないだけで、レグルスも国王陛下も、こちらを見張っていたのだ。
「レグルス王太子殿下は、ステラの病気も治るって言ってたわ……全て援助するって。陛下も私に謝ってくださったの」
「……謝る?」
母親の茶色い瞳から涙が溢れていた。嬉しそうに泣きながら笑って、ステラの隣に座った。
「そうよ。治らない病気の私を直視するのが辛くて会えなかったって……愛しいステラと、陛下がいてくれるだけで、私はもう、死んでもいい……彼がやっと私たちを見てくれたのね」
母に優しく頭を撫でられる。ステラは張り付いたように開かなくなった唇を無理やり動かしながら、母親に尋ねた。
「国王陛下なんて、必要ないでしょう?」
「なんてこと言うの、ステラ」
頭を撫でていた手が止まる。そのままステラの肩を掴んだ母は、無邪気な笑顔でステラのことを見た。
「陛下がいないなら、私は生きる意味がないわ。陛下のことを悪く言ってはダメよ。あなたのお父様なのだから」
母はいつも、愛おしそうにステラを見てくれていた。母には自分さえいればいいと思っていた。でも、母はステラの瞳と髪から、国王陛下のことを見ていたのかもしれない。
「お母様……わたしと国王陛下と……」
母は首を傾げて、様子のおかしい娘を見ている。娘は大国である隣国の王妃になれる。忘れられていたはずだったけれど、国王陛下は母親を見てくれるようになった。ステラたちを苦しめていた病気も治る。こんなに素晴らしいことはない。母親からしたら喜ばない娘が理解できないのだろう。
「お母様は、わたしとお父様と……どっちが」
「ステラ、どうしたの?」
母親の首には太陽の石がつけられていた。ステラの石と同じものだ。ステラは自分の頬が、濡れていることに気づいて、ゆっくりと拭った。
「お母様の病気を治したのは……お父様でもレグルス王太子殿下でもないのよ」
「何を言っているの? どうしたの?」
急に泣き出したステラを、母は困惑した顔で見ている。小さな子供にするように、抱きしめて背中を叩いてくれた。
「お母様……お母様……わたしは、選べないわ」
「何を選ぶというの。大丈夫よ、レグルス王太子殿下はあなたを一番愛すると約束してくださったの。安心しなさい……陛下も私たちを大切にしてくださると言ってくださったわ」
母は幸せそうだった。こんなに幸せそうな母親を見たことがなかった。どんなに辛くても、病気で起き上がることができなくても、誰からも顧みられなくても、それでもステラを守ってくれていた母だ。母が幸せなら、ステラはなんでもできた。
でも違うではないか。母の病気を治してくれたのは――人間を憎んでいるはずなのに、それでも助けてくれたのは、あいつらではない。シリウスだ。
細く小さな母の身体に両手を回して、強く抱きしめる。
ステラは涙を止める術がわからないまま、泣き続けた。いつも、ステラの唯一だった母親。迷うことなんてなかったのに。
選べない選択肢が、こんなにも辛いなんて、ステラは知らなかった。




