第十話 宿敵に捧げる血
この国の王女と名乗った女は、青白い顔で泣きながら謝った。人間に泣かれることには、慣れていた。ただ王女の涙は恐怖ではなく、吸血鬼のことを思って流れたものだった。
だから、なんだ。いくら涙を流そうが、あいつらの苦しみは無くならない。女の血を飲んで、その父親を今すぐ殺してしまえばいい。シリウスは手を握りしめて、そのまま開いた。爪を出して、この女の喉を……。
女の青い瞳が、海より深い色になった。涙が溢れて、蝋燭の光を映し出していた。
その一滴が、頬を伝った。濡れた頬に、無意識のうちに手を伸ばしかけて、やめた。その女は、いや、ステラは、シリウスの手に身体を強張らせたからだ。
ステラは、この国の王の娘だという。先ほど見ただろう。カストルとポルックスがされた仕打ちを。頭の中で、二人の顔が浮かんでは、ステラの涙で消えた。
ステラは謝りながら、何かを強く訴えている。唇が震えている。頬が赤くなって、息が乱れている。それでもステラは謝り続けていた。
何故お前は、人間なのだろう。
王女といっても、きっと冷遇されていたはずだ。ステラの日頃の格好や行動から、それくらいは理解できた。人間の王族とは到底思えない言動は、王族として扱われてこなかったからだ。
自分は関係ないと言えばよかったじゃないか。そう言ってくれれば、俺は――。
ステラが泣いている。そして、胸を押さえ、苦しそうによろめいた。
「おい……ステラ!」
ステラがこちらを見て、少し笑った気がした。そのまま崩れ落ちるところを、咄嗟に抱きしめる。ステラは見た目よりずっと細く、力を入れたら壊れてしまいそうだった。
「おい! ステラ! ステラ、お前……」
お前は、どうして人間なんかに生まれたんだ。
微かなブルーベリーの香りに、血の気の引いた顔。
「お前に死なれたら……困るだろう。まだ、何も対価をもらってないぞ」
シリウスは、そっと指先で涙を拭った。
このままここにいるわけにはいかない。夜が明けたら、外にある見張りの死体と中で倒れている王女によって大騒ぎになるだろう。
ステラの頬を軽く叩いても反応がない。顔色がどんどん悪くなる。唇も先ほどより青い。
呼吸が荒く、途切れ途切れの呻き声がした。心臓の音が小さくなっているようだ。
「ステラ……」
このまま死ぬのか? 何故こんなに弱っている。太陽の石を母親に使って、何故自分のことを放っておいたんだ。額に浮かぶ汗を手のひらで拭ったシリウスは、そのまま首の後ろに手を差し入れて頭を支えた。
シリウスは迷うことなく、空いた手の親指の爪で人差し指を切る。その指をステラの口元に寄せた。
血を直接飲ませると効果が高い分、老化が一定時間止まる。飲み続けると不老不死になる。
それでも、ここまで弱っていたら直接あげないと効果が望めないかもしれない。名前のつけられない焦りが、吸血鬼は仲間以外に血を分け与えないという常識をシリウスの頭から消し去った。
そして、嫌悪する人間に、この時初めて自分の血を直接捧げた。
◇
目覚めると、そこは見たこともない場所だった。天蓋のついた大きなベッドから身体を起こすと、目の前には鮮やかな青いカーテンと茶色い革張りのソファ、テーブルがあった。
「ここは、どこ?」
先ほどまで、王宮の研究所にいたはずだ。急に意識が朦朧とし出して、そのまま倒れてしまったのは覚えている。ステラは額に手を当てて考え込んだ。
倒れた割には、身体が軽い。いつも違和感があった心臓も、何も感じない。これはどういうことだろうか。
「誘拐でもされたのかしら……」
(お母様に身代金は払えないのに、困ったわ)
とりあえずベッドから降りる。ステラは身代金の足しになるものはないか、ベッドの隣にある台の引き出しを開けてみた。何もない。手を奥に突っ込む。
(もしかしたら宝石の一つでも、そう思ったけれど……)
やはり、何もない。ステラは大きくため息を吐いた。何も手に入らないならこんな所にいる必要はない。何時間ここにいたのかもわからない。
こうしてはいられない、母親の元に帰らなければ。ステラは皺になっているワンピースの裾を直す。ベッドの足元に畳んで置かれていた黒いマントを引っ掴むと、ステラは部屋の扉の方に歩く。
それにしても、ここはどこなのだろうか。丁寧にマントを脱がして、ベッドの足元に置いてくれていたし、ソファの前のテーブルには水差しまで置いてある。
ドアノブに手をかけたまま、もう一度部屋を見渡す。その時、扉が突然手前に開き、ステラはよろめいた。
「きゃっ」
「何故寝てないんだ」
瞬間、薔薇の香りが胸いっぱいに広がる。大きな手がステラの腰を掴み、後ろに倒れ込む前に引き寄せてくれた。シリウスだ。彼の心地よい声が鼓膜を震わせ、肌触りの良い黒い上着が視界に広がった。
「シ、シリウス? ここはどこ?」
「いきなり倒れ込むのが癖なのか? やめてくれ。少し前にもお前は……」
言葉を切ったシリウスの声には、温度がなかった。表情は見えないけれど、おそらく無表情なのだろう。ステラは手のひらでシリウスを軽く押して、距離を取る。先ほどまで穏やかだった心臓が乱れた。
「迷惑をかけたのね。ごめんなさい、全く役に立てなくて」
「また倒れられたら迷惑だ。ベッドに寝るか、ソファに座ってくれ」
距離を取ろうとしたら、シリウスが腕を掴んだ。部屋にあるソファまでステラを引っ張ると、肩を押さえて座るように言う。シリウスの眉間に皺が少し寄っていた。
「ここは、どこなの?」
「……俺の家だ」
「あなたの……」
シリウスは向かいに座って、脚を組んだ。
「身体が、悪いようだな」
ステラは黙り込む。シリウスはステラの反応を期待していなかったようで、手元で何かを転がしながら話し続けた。
「お前にはやってもらいたいことが、まだあるんだ」
「ええ、そうね。なんでもするわ」
「そうだ。お前の母親の命と引き換えに、お前は、お前の全てを俺に捧げるんだろう? ならば、死ぬことは許さない」
冷たい声だった。ただじっとこちらを見つめる赤い瞳は、不思議なことに怖くなかった。
「これを、お前も持っておけ」
「太陽、の、石?」
シリウスが差し出した手には、赤い親指ほどの大きさの石が一つあった。ステラは引き寄せられるように手を伸ばす。指先で太陽の石を触った。
「お前は王女だと、言ったな。ならば、王宮の中を案内し、見張りの交代の時刻を調べ……お前の父親の寝室も教えてもらう」
「ええ」
ステラは返事と共に太陽の石を握った。シリウスは太陽の石を手に取ったステラを見て、少しだけ笑った。そのまま包み込むように、ステラの手を握る。
「そして、お前は……俺に血も捧げるんだ。できるか、ステラ」
心臓が、どくんと音を立てた。ステラの手がどんどんと熱くなる。その熱が、太陽の石からなのか、シリウスの手から伝わるものなのかわからない。
シリウスはこちらを見ている。強い眼差しだった。何故か声が出なくて、ステラは代わりに小さく頷いた。
シリウスは、目を細めて、一度だけ強くステラの手を握った。




