朔夜への怒り
「……ねえ、蛍ちゃん。朔ちゃんのこと、恨んでる?」
黒崎邸に来て、1ヶ月が経とうとしていたある夜。
夕食が終わりかけた頃、リコが湯呑みにほうじ茶を注ぎながら、なんでもないことのように聞いてきた。
残り一個の唐揚げを食べようとしていた蛍の箸が、止まった。
――朔夜。しばらく考えないようにしていた。だが、その名前を聞いた瞬間、この1ヶ月分の何かが、喉元まで、せり上がってきていた。
「……むかつきます」
ぽつり、と落ちた。
リコが、目をぱちくりさせた。
「むかつきます……!! すごく、言いたいことがあります!!」
一度栓が抜けたら、止まらなかった。蛍は、箸を置いて、握った拳を膝の上で震わせた。
「いきなり現れて、無理やり車に乗せられて、気づいたら東京で……! さよならも、ちゃんと、言わせてくれなかった! 全部、全部あの人が勝手に決めて……!守るためとか言って、わたしの気持ちは、一回も聞いてくれなかった……!!」
言い切って、はっとした。声を荒げてしまった。思わず手を口に当てた。
「あっはは! あんた今、むかつくって言ったわね! いいじゃない、それ!」
それを聞いたリコは、手を叩いて盛大に笑った。
「え……」
「ずーっと遠慮しがちのお嬢ちゃんから、やーっと本音が出たわぁ。ほらほら、そういうのは溜めちゃだめなのよ。今日はとことん朔ちゃんの愚痴大会よぉ! お菓子も出しちゃう!」
そう言って本当に、あらかじめ用意していたのか、トレーの上に乗ったクッキーの缶を机の上に広げた。呆気にとられる蛍をよそに、リコは缶を開けて、身を乗り出す。
「はい、続きどうぞ。朔ちゃんの悪いところ、100個言っていいわよ」
「……100個、ですか!?」
「あら、無いの?」
「いえ、あります! ……えっと、その、まず無口すぎます。何考えてるか分かんないです。あと、ノックしても返事する前に喋り出します。ドアも開けていいって言ってないのに開けてくるし……」
「わかるわぁ! あの子、人との距離感掴めないのよねえ~」
「あと、心配しているならそう言えばいいのに、言わないです!」
「ありえな~い!」
リコの合いの手は、大袈裟で、軽薄で、けれど不思議と心地よかった。言葉にするたび、胸の中で固まっていたものが、少しずつ、ほぐれていく。蛍は、いつしか、身を乗り出して喋っていた。
「それに比べて……陽人くんは、あの人と違って! すごく優しくて、かっこよくて、めちゃくちゃいい人なんです!!」
「……あらぁ?」
リコが、身を乗り出して、目を輝かせた。
「その子が例のボーイフレンド? 力入りすぎよ!!めちゃくちゃ好きなんじゃない!!」
「そ、その、恋人、とかじゃなくて……!」
顔が、一気に熱くなった。慌てて否定したが、説得力は、皆無だった。だって、そのあと蛍自身が、聞かれてもいないのに話し続けたのだから。田舎町でホタルの水辺で出会ったこと。名前が綺麗だと言われたこと。星空を見に行ったこと。図書館で一緒に勉強したこと。一緒に夏祭りに行ったこと。夏祭りで、虐めっ子に言い返してくれたこと。
……そして初めて、男の子に「好きだ」と言われたこと。
話せば話すほど、陽人という存在が、蛍の中でどれほど大きいかが、溢れ出ていた。
「……ふぅん。そりゃ、朔ちゃんじゃ勝てないわ」
リコは、クッキーをかじりながら、しみじみと言った。それから、ふと、声を落とした。
「……その子と、引き離されたのね。さよならも言えないまま」
蛍の言葉が、止まった。
さっきまでの熱が、すっと引いていく。膝の上の手が、スカートの布を握った。
「……初めて出会ったときから、独りだったわたしを、ずっと気にかけてくれた……。一緒にいてくれた……。恩人、だったのに……。そのお礼も、まだ、ちゃんと言えてないまま……」
声が掠れた。
リコは、湯呑みにほうじ茶を注ぎ足しながら、静かな声で言った。
「……田舎暮らし、辛かったのね?」
蛍の肩が、小さく揺れた。
リコはそれ以上聞かず、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みを置く音がして、次の瞬間、蛍の視界が、ふわりと暗くなった。抱きしめられている、と気づくまでに、数秒かかった。煙草と香水の混ざった、リコの匂いがした。
「……頑張ったわね」
耳元で、声がした。いつもの、からりとした声ではなかった。低く、静かで、少しだけ、湿っていた。
「あんたは、何も悪くないわ。辛い思いして、それでも生きようとして、その時支えてくれた大事な子と引き離されて。……そりゃ、朔ちゃんのこと、むかつくわよねえ。当たり前よ」
背中を、大きな手のひらが、ゆっくりと撫でた。
蛍の目から、涙がこぼれた。
嗚咽は長く続いた。リコは口を挟まなかった。話が途切れるたびに、うん、うん、と相槌だけを打って、収まるのを待った。ただ抱きしめて、背中を撫で続けた。
どれくらい経っただろうか。ようやく顔を上げた蛍に、リコはハンカチを握らせて、それから、わざとらしく缶を覗き込んだ。
「……あーあ。泣いてる間に、クッキー湿気ちゃうわよ。ほら、食べなさいな」
蛍は、赤くなった目のまま、小さく笑って、クッキーを一枚、かじった。甘くて、しょっぱい味がした。
窓の外の夜景が、涙の膜越しに、にじんで光っていた。それはこの部屋に来て初めて、少しだけ、綺麗に見えた。




