黒崎邸での生活
東京に来て、二週間が経った。
蛍は、与えられた黒崎邸マンションの部屋から、ほとんど出なかった。
広すぎる部屋だった。ベッドは大きく、クローゼットには袖を通していない服が並び、窓の外には見たくもない夜景が広がっている。何もかもが揃っていて、何もかもが、自分のものではなかった。
食事は、一日三度、ドアの前に置かれる。蛍は、黒服が去った気配を確かめてから、トレーを部屋に入れた。食べるのは、半分。時には、ほとんど手をつけないまま、廊下に戻した。空腹を感じないわけではない。ただ、この家の食事を美味しいと感じてしまうことが、何かへの敗北のような気がした。
朔夜は、日に一度、ドアの向こうから声をかけてくる。
「……蛍。少しでいい、食べてくれ」
返事は、しなかった。
兄だと言われても、記憶にない男。陽人から自分を引き剥がし、金で方をつけようとした男。守るためだと言いながら、結局は檻に入れただけの男。ドアの向こうの声が、どれだけ静かでも、どれだけ疲れていても、許せなかった。
◇
その夜、朔夜は、マンションの地下に降りた。
エレベーターを最下層で降り、短い廊下を進むと、看板のない黒い扉がある。住人ですら、その存在を知る者は少ない。扉を開けると、薄暗い照明と、古いジャズと、磨き込まれたカウンターが、いつも通りにそこにあった。
カウンターの奥で、グラスを磨いていた女が、顔を上げた。年齢の読めない、艶のある美貌。紫のアイシャドウが、照明を受けて仄かに光る。
「あらぁ。朔ちゃんが来るなんて、久しぶりねえ」
女は、大げさに眉を上げてみせた。この店のママであり、朔夜がこのマンションに住み始めた頃からの、数少ない「会社の外の知り合い」だった。素性は、多くを語らない。ただ、口の堅さと目の鋭さだけは、夜の世界で年季が入った本物だった。
朔夜は、カウンターの端に腰を下ろした。注文もせず、しばらく黙っていた。女も、急かさない。グラスを磨く布の音だけが、ジャズの隙間を埋めていく。
やがて、朔夜が、口を開いた。
「……リコ。頼みがある」
「あらぁ、朔ちゃんがお願いなんて珍しいじゃないの」
リコと呼ばれた女は、カウンターに肘をついた。
「妹ちゃんのことでしょ?」
朔夜の眉が、微かに動いた。
「……なぜ知っている」
「アタシを誰だと思ってんのよ。色んな所に情報網があるんだから。それに朔ちゃんが毎晩幽霊みたいな顔でエレベーター乗ってりゃ、妹のことで何かあったって嫌でも分かるわよ」
図星だった。朔夜は、否定もせず、グラスの置かれていないカウンターの木目を、じっと見ていた。
「……部屋から出ない。食事も、ろくに摂らない。俺じゃどうにもならん。……嫌われている」
それから、ぽつりぽつりと経緯を話した。田舎町で妹が虐げられており、放っておけず、迎えに行ったこと。妹に心を許した相手がいたこと。その男の子と無理やり引き離す形で連れてきたこと。別れも、ろくに言わせてやれなかったこと。
経緯を聞き終えると、リコは、グラスに指を這わせながら、長い溜息をついた。
「……あんた、それ嫌われて当然よ」
「……わかっている」
「わかってないわよ」
リコは、グラスを棚に戻し、腰に手を当てた。
「いいかしら。大切な人を引き離された女の子が怒るのはね、あんたが憎いからじゃないの。『大切なものを奪われた』って感じてるの。あんたが何を守ったつもりでも、あの子にとっては、奪われたのよ。まずそこを取り違えてるうちは、何を言っても届かないわ」
朔夜は、何も言い返さなかった。言い返せる言葉を、持っていなかった。
「まあ、事情が事情だから、仕方ない部分もあるんでしょうけどね」
リコは、ふっと声を和らげて、カウンターに身を乗り出した。
「アタシに任せなさいって。可愛い女の子の相手なら朝飯前よぉ。朔ちゃんみたいな仏頂面じゃ逆効果だもの」
「……」
けらけらと笑ってから、リコは、ふと真面目な顔になった。
「……あの子、ずっと部屋に籠もってるんでしょ。ご飯もろくに食べてないって聞いたわ。アタシがちょっかい出しても大丈夫そう?」
「……頼む」
朔夜は頭を下げた。いつも仏頂面で感情の読めない男だったが、リコはその声や空気感からだいぶ参っているな、と読み取った。
◇
三日後の夕方。蛍の部屋のドアが、ノックされた。
いつもの黒服とは違う、軽やかなリズム。とん、とんとん、とん。返事をしないでいると、ドアの向こうから、聞いたことのない声がした。
「こんばんはぁ。開けてくれなくていいから、そこで聞いてちょうだいな」
女の人の声だった。艶があって、よく通る、不思議な声。
「アタシ、リコ。この下でバーやってんの。……今日ね、賄いを作りすぎちゃって。もったいないから、お裾分けに来たのよ」
蛍は、ベッドの上で、膝を抱えたまま動かなかった。どうせ、朔夜の差し金だ。食べさせるために、誰かを寄越した。そんなことは、分かっていた。
「鶏そぼろのお粥。生姜、ちょっと利かせてあるの。冷めても美味しいけど、温かいうちの方が、もっと美味しいわ」
ドアの前に、何かを置く音がした。
「……無理に食べなくていいのよ。捨ててくれてもいい。ただねえ、アタシの店、味だけは自慢なの。捨てるならせめて、一口味見してからにしてちょうだい。作った人間のちっぽけな意地よ」
それだけ言って、ヒールの音が、遠ざかっていった。
説教もなかった。心配の押し売りもなかった。「食べなさい」とすら、言われなかった。
蛍は、しばらくドアを見つめていた。それから、そっとドアを開けた。廊下には、誰もいない。小さな盆に、蓋つきの椀が一つ。持ち上げると、まだ、温かかった。
部屋に戻り、蓋を開ける。生姜の香りが、ふわりと立った。
一口、すすった。
出汁の味わいがじんわりと、体の芯に染みていく。気がつけば、蛍は椀の底まで食べきっていた。この家に来て初めてのことだった。
——敵わない、と思った。
美味しいものは、心の準備を待ってくれない。
翌日も同じ時間にノックが来た。とん、とんとん、とん。
「こんばんはぁ。今日は炊き込みご飯。栗が安かったのよ」
その翌日は、豆腐と海老のあんかけ。その次は、南瓜のポタージュ。リコは、ドアを開けろとは一度も言わなかった。ただ、毎日、他愛のない独り言を置いていく。今日の客が酷い酔い方をしたこと。仕入れの魚屋のおじさんが腰をやったこと。ジャズのレコードに傷がついて、同じ小節ばかり繰り返すこと。
一週間目の夜。いつものノックの後、リコの声が言った。
「今日はねえ、ちょっと重たい荷物なの。プリンも付けたから。……よいしょって、屈むのが辛いのよねえ、最近」
蛍は、気づいたら、ドアを開けていた。
廊下に、女の人が立っていた。思っていたより背が高く、綺麗で優しい目をしていた。
リコは驚いた顔も、大げさに喜ぶ顔もしなかった。ただ、盆を差し出して、にっと笑った。
「はじめまして、お嬢ちゃん。……重たいから、持ってくれると助かるわ」
蛍は、黙って盆を受け取った。それが二人の始まりだった。
それからの蛍の毎日に、少しずつリコとの会話が増えていった。
夕方のノックの音を、聞き分けられるようになった。とん、とんとん、とん。あのリズムが聞こえると、蛍はドアを開ける。盆を受け取り、時々廊下に立ったまま、リコの他愛のない話を聞く。いつからか、蛍は部屋の中にリコを入れるようになっていた。
リコは部屋に入っても、余計なことを聞かなかった。ただ小さなテーブルに料理を並べて、蛍が食べるのを眺めたり、時には一緒にご飯を食べたりしながら、喋る。昨日店に来た客のこと、新作のカクテルの評判が良かったこと、レコードの傷が悪化して、とうとう買い直したこと。
蛍は、ほとんど相槌だけだった。それでも、リコの話を聞きながら食べるご飯は、不思議とちゃんと味がした。
その日の献立は、鶏と根菜の煮物だった。蛍の苦手な人参は、そっと椀の端に寄せた。リコは、それを見ても、何も言わなかった。ただ次の日から、煮物の人参が、心なしか小さく刻まれるようになった。
「……ねえ、お嬢ちゃん。あんた、笑うと可愛いわねえ」
ある晩、リコがふいにそう言った。
「え……」
「今、笑ったわよ。アタシの客の話で。……ふふ、してやったり、だわ」
指摘されて、蛍は自分の頬に手を当てた。本当だった。口元が緩んでいた。いつぶりなのか、思い出せなかった。あの、夏祭りの夜以来かもしれなかった。
そう思った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。笑っていいのだろうか、と思った。陽人を置き去りにして、自分だけが、こんなところで。
表情が翳ったのを、リコは見ていた。けれど、やっぱり何も聞かなかった。代わりに、空になった椀を盆に戻しながら、なんでもないことのように言った。
「……悲しいことがあった後にね、美味しいものを食べて笑っちゃうのは、裏切りじゃないのよ」
蛍の肩が、小さく揺れた。
「生きてる体はね、正直なの。お腹は空くし、美味しいものは美味しいし、面白い話には笑っちゃうの。それはね、あんたが薄情なんじゃなくて、あんたの体が、ちゃんと生きようとしてるってことなのよ」
リコは、盆を持って立ち上がり、ドアの前で振り返った。
「だからアタシは、明日も来るわ。……プリン、二個にしてあげる」
ドアが閉まった後、蛍は、しばらく動けなかった。泣いてはいなかった。ただ、胸の奥のずっと固かった部分が、少しだけ、柔らかくなった気がした。
◇
それから、数日後の夜。
その夜の献立は、土鍋の湯豆腐だった。昆布だしの湯気が、二人の間で、ゆらゆらと揺れている。
「……この間ね、店にひどい客が来たのよ。アタシの煮物を食べて、『おふくろの味だなあ』ですって。失礼しちゃうわ、アタシまだそんな歳じゃないわよって、追い返してやったの」
蛍は豆腐を掬いながら、小さく笑った。それから、ふと湯気の向こうのリコを見た。頬杖をついて、取り皿にポン酢を注いでいる姿。
言葉が、こぼれた。
「……お母さん、って、リコさんみたいな人のこと、なのかな」
リコの手が、止まった。
言ってから、蛍は、自分の言葉に戸惑うように、視線を土鍋に落とした。
「……わたし、あんまり覚えてなくて。小さいころに死んじゃって……。だから、分かんないんですけど……。ご飯作ってくれて、どうでもいい話してくれて、人参、小さくしてくれて。心配してくれて……」
湯気が揺れた。
「なんだか、なんとなく……お母さんみたいだなって。……ごめんなさい、変なこと言いました」
沈黙が、一拍。
リコは、ポン酢の瓶をことりと置いた。その目が、ほんの一瞬だけ、泣きそうに見えた。けれど次の瞬間には、いつもの艶っぽい流し目に戻っていて、リコは、しなを作って言った。
「……やぁだ、この子ってば」
長い睫毛を、ぱちりと瞬かせる。
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。でも残念、大事なお知らせがあるわ」
蛍は、顔を上げてリコを見た。
「——アタシ、男よ」
「……え⁉」
蛍の箸から、豆腐がぽちゃんと落ちた。
「……あら、気づいてなかったの? この喉仏、伊達じゃないのよ」
リコは、顎を上げて、指先で喉元をとんとんと叩いてみせた。言われてみれば確かに。声の低さも、背の高さも、手の大きさも。
ぽかんと口を開けている蛍を眺めながら、リコは、けらけらと笑った。
「お母さんでも、お父さんでも、お化けでも、なんでもいいわよ。あんたがアタシのご飯を美味しく食べてくれるなら、アタシはそれで満足なの」
蛍は、落とした豆腐を拾い上げながら、しばらく、もごもごと口を動かしていた。蛍の中で、リコは最初から「綺麗で優しい人」で、それは揺るぎなかった。
「……リコさんが、その、オカマでも。リコさんのご飯が美味しいのは、変わらないから」
「……オカマじゃなくて、『お姐さん』って呼んでくれる?」
二人して吹き出した。
窓の外には、相変わらず、好きになれない都会の夜景が広がっている。けれど、この部屋の湯気の中だけは、少しずつ、蛍の居場所になりつつあった。




