離別(後編)
翌朝。陽人と店長は始発電車を乗り継ぎながら、3時間ほどかけて、東京に到着した。
都会の、辺り一帯に立ち並ぶ高層ビル群の中、名刺に記された住所を頼りに辿り着いたのは、ひときわ大きな、ガラス張りのビルだった。エントランスに掲げられた社名を見て、陽人は、足を止めた。
『黒崎グループ』――名刺にあった社名。
「……店長。ここで合ってますよね?」
「ああ、間違いねえ。とりあえず入ってみようぜ」
受付カウンターに歩み寄ると、陽人は、震える声で尋ねた。
「すいません。黒崎朔夜さんに、お会いしたいんですが……」
受付の女性に、陽人は名刺を見せた。
「社長ですか?……お客様、学生さんと保護者様、でしょうか?取引先のお客様ではないですよね?アポイントは取られてますでしょうか?」
「アポ……?」
「んなもん、取ってねえよ!いいから会わせろ!!」
「で、ですが――」
「急いでるんだよ!!」
店長の剣幕に押された女性は、急いで内線電話を掛けた。しばらくして、内線を切った受付嬢は、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「社長がお会いになるそうです。……こちらへどうぞ」
受付嬢に案内され、エレベーターで最上階へ。広い社長室の扉が開くと、奥のデスクに、朔夜が座っていた。陽人を見た瞬間、わずかに眉が動く。
「……白石君。よく来たな」
陽人は、部屋の豪華さに圧倒されながらも、まっすぐ朔夜を見据えた。
「蛍を、返してください」
朔夜は、椅子の背にもたれ、指を組んだ。
「……それはできない」
店長が、横から一歩前に出る。
「あんた、黒崎って名前らしいな。あの子も黒崎だ。……あの嬢ちゃんと、兄妹かなにかか?」
「そうだ。あれは、俺の妹だ」
――妹、という言葉に、陽人は息が詰まった。
「……兄、なんですか」
「ああ」
陽人の頭が、ぐるぐると回る。家族。それが本当なら、自分が踏み入る問題ではないのか。でも。
「……本人の口から聞きたい。蛍に会わせてください」
「何を聞く?」
拳を震わせながら、それでも、声を絞り出す。
「蛍が望んでいるかどうか。帰りたいと思っているかどうか。……本人の意思を聞かずに閉じ込めるのは、家族でもやっていいことじゃない」
朔夜は、組んでいた指をほどいた。デスクに肘をつき、少しだけ身を乗り出す。少し考えてから、口を開いた。
「……いいだろう。明日の午前11時。この場所で会わせる」
別のビルの一室を、提示した。陽人は、提示された場所をメモする。手が微かに震えていたが、顔を上げて、朔夜を真っ直ぐ見た。
「……約束ですからね」
「ああ。わかっている」
店長が、陽人の肩に手を置き、出口へ促した。
社長室の重い扉が、閉まる。エレベーターの中で、店長が陽人に、小声で囁いた。
「……とりあえず、会える。あとは、嬢ちゃん次第だ」
◇
朔夜は蛍に、今日、陽人とその保護者らしき男性が、朔夜の会社――黒崎ビルに来たことを簡単に報告した。そして明日、指定の場所に陽人が来て、会わせてやることも付け加えた。
「陽人くん、東京まで来たの!?」
「……俺の名刺の住所を見て、追ってきたんだろう」
「そう、なんだ……」
「高校生のくせに、なかなか行動力がある。……諦めの悪さも」
「……」
陽人が、東京まで追いかけてきてくれた。それだけで胸が張り裂けそうだった。今、この近くのどこかにいるのだろうか。
「……想い合っているようだな」
「え?」
「学生の恋愛は、障害があればすぐに終わるかと思っていたが……」
「……あなたは、わたしたちを馬鹿にしてるの?」
蛍が朔夜を睨んだ。この男の発言は、いちいち蛍の気持ちを逆撫でていた。
「違う。感心したんだ」
朔夜は目を細めて、それから静かに続けた。
「……明日、白石君と話す時間を設ける。別れの挨拶をするといい」
「どうして、そうなるの」
「君にはここに残ってもらう。もう、決めたことだ」
「わたしは――」
「君の意思は、関係ない」
朔夜は蛍の発言を遮った。
「……学校で、虐められなくなっただろう?」
「え……?」
蛍は目を丸くした。
「俺がやった。……酷い扱いを受けていたんだろう? 俺なら、君のあらゆる障害を取り除くことができる」
「でも――」
「その逆もできる」
朔夜の目が鋭くなった。
「もし君が、逃げようとしたら。朝霧町に帰ろうとしたら。……白石君――ただの高校生など、どうにでもできる。君が学校で受けていたようなことを――」
「やめて!!」
蛍が声を上げた。思い出したのか、手は震え、目には涙が溜まっていた。
「……ぐすっ。酷いよ……」
「君にどう思われても構わない。……明日、何を言うべきか、わかるな?」
蛍は手の甲で目を擦っていた。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
◇
翌日、蛍は朔夜に早めに指定の場所に行きたいと言い、黒服たちの車で出立した。指定時間の1時間以上前に、ビルの応接室に到着していた。
待ち合わせの30分前に、陽人と店長はそこへ到着した。蛍がいる応接室の前に黒服が二人立っていた。
「……早いですね」
「奥にいるんですよね?」
「はい」
陽人は黒服たちに目もくれず、ドアをノックした。
「……蛍」
ドアを開けて、中に入った。蛍だけがその部屋にいた。目の前の蛍は、綺麗な服を着せられ、傷一つない様子だったが、陽人の目は、その奥にあるものを見ようとしていた。
「1時間とってあります。どうぞ」
黒服が静かにそう言うと、応接室のドアが閉まり、部屋の中は陽人と蛍、二人きりになった。
陽人は部屋のソファに座らず、立ったまま蛍を見ていた。
「……蛍。大丈夫だった? 怪我とかしてない? ちゃんとご飯とか食べてる?」
「わたしは、大丈夫。……陽人くんは?」
「僕も。……って、言いたいところだけど」
陽人は蛍を見て安心したのか、ソファに座り込んだ。
「君が東京に連れ去られたって聞かされた時、頭が真っ白になった。どうしようかと……それから何もできなかった自分に、腹も立ったし……」
「あ……」
「僕って無力だったんだなって思い知らされたよ。……だから、大丈夫じゃなかったかも」
陽人は誤魔化すように笑った。その少し困ったような笑顔を見た蛍は胸が苦しくなった。
「わたしも……。ほんとは全然大丈夫じゃなかった……」
泣きそうになった蛍の顔を見て、陽人はすぐさま駆け寄り、頭を撫でた。
「……帰ろう?」
陽人が口を開いた。どこまでも優しい声だった。一緒に帰りたい、頷きたい。だけど、昨日の朔夜に言われたことが、ずっと頭の中で繰り返されていた。
――もし君が、逃げようとしたら。朝霧町に帰ろうとしたら。……白石君――ただの高校生など、どうにでもできる。
陽人くんが、わたしのせいで、わたしが遭ってきたような、もしかしたらそれ以上の辛い目に遭うなど……!
やがて、蛍は顔を伏せ、唇を噛んだまま、首を、小さく横に振った。
「……なんで?」
陽人は一瞬だけ目を見開いた。
「……これ以上、迷惑かけれない。傷ついてほしくないから」
「迷惑なんかじゃないよ。……君のことで、傷ついたことなんてない」
陽人は、身を少し前に乗り出した。
「僕に迷惑かかるとか、そんなのどうでもいいから。だから、蛍の気持ちを聞かせて」
「……」
陽人は、蛍を見ていた。何を考えているか、全部分かるわけじゃない。でも蛍の目の奥に、何かを諦める色が見えた気がした。
「……帰りたい。……でも。……ごめん、なさい」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
その時、ドアのノックが聞こえ、ドアが開いた。
「時間です」
陽人が、振り返った。目に、怒りが宿る。
「……あと少しだけ」
「できません。時間ですので」
部屋の外に朔夜はいなかった。黒服二人と店長だけだった。
「……白石様。蛍お嬢様のお心はもう決まっております。残念ですが、お引き取りください」
陽人は蛍を見た。蛍は俯きながら肩を震わせている。
「……嘘だ。蛍がここに残りたいわけが……。きっと、あいつに……!」
「朔夜様に、言わされていると、そうおっしゃりたいのですか?」
「そうに決まってる!!」
興奮している陽人とは裏腹に、黒服は冷静で淡々としていた。
「……たとえそうだとしても。蛍様は譲れないと、朔夜様から言伝を聞いております」
黒服はそう言って、封筒を渡してきた。以前、朔夜から手渡された時よりも、分厚かった。
「ふざけるなよ、てめえら!! また金で済まそうってのか!!」
陽人に代わり、店長が前に出て黒服の襟もとを掴んだ。
「申し訳ございません。どうか、お受け取りください」
陽人はやり場のない怒りをぶつけることができず、ただ拳を握り締めていた。黒服は封筒を受け取らない陽人を見て、制服のジャケットの腰ポケットに入れた。その後、黒服二人は蛍を連れ出した。陽人と店長は、しばらくそこに立ち尽くした。
◇
陽人たちが、ビルを出ようとしたその時、一人の年老いた黒服が、入口に立っていた。初老の黒服は、陽人たちを見つけると、すぐさま駆け寄り、声をかけた。
「……あなたが、白石様ですね?」
「……なんですか?」
目を赤くして、疲れ切った陽人の声に、覇気は無かった。
「――この度は、黒崎朔夜が無理やり黒崎蛍を連れ去り、あなた方の意思も聞かず、傷つけたこと。まずは謝罪させてください」
初老は深々と頭を下げた。陽人たちが聞いているかもわからないが、初老の黒服は続けた。
「わかってくれ、とは言いません。今回のこと、弁解の余地もございません。ただ、お伝えさせてください。……あなた方が黒崎蛍を大事に想われているように、黒崎朔夜にとっても、彼女が唯一無二の妹であり、昔から大事に想われております。……彼女のことは、我々が守り抜きます」
黒服は、そこで、一度言葉を切った。
「……時が来れば。また、お会いしましょう」
それだけ言い残して、また深々と頭を下げた。陽人は、初老のその小さな躯体をしばらく見つめて、やがてその場を後にした。
◇
蛍は黒服の車に乗りながら、遠くの景色をただぼんやりと眺めていた。
窓の外には、見慣れない東京の高層ビルが広がっている。田舎町の、あの小さな水辺も、天の川の星空も、図鑑を見た図書館も、もう無い。陽人と過ごした温かい日々も、もう遠い記憶のように感じられた。
「――っ」
車の中に、小さな嗚咽が響いた。
それは9月の、まだ強い日差しが残る日の出来事だった。




