離別(前編)
2日後の月曜日。蛍の高校はその日、課題テストがあり午前中で授業が終わっていた。いつものように図書館で勉強するため、テキストなどを準備しようと、一度アパートに帰宅していた。
荷物をカバンにまとめ、蛍がアパートを出ると、道沿いに黒い車が止まっているのが見えた。
瞬間、後ろから、男に声をかけられた。
「黒崎蛍様ですね。お迎えに上がりました」
振り返ると、あの男とは違う、黒スーツの男が二人立っていた。サングラスをかけ、いかにもな風体。片方が丁寧に頭を下げる。もう片方は、周囲を見張るように目を配っていた。
「朔夜様より、本日お迎えするよう仰せつかっております。車を用意してございます」
「な、なに!? 何なの!?」
逃げようとする蛍を、黒服の男がとっさに腕を掴んで、静かに制した。
「落ち着いてください。我々は、『黒崎グループ』の社員でございます。朔夜様の命令で、お嬢様をお迎えに参りました」
『黒崎グループ』――その名前に、蛍は束の間、混乱した。自分の名字と同じ。ただの偶然だろうか。それとも――
「これから向かう先に、白石陽人様も、ご到着されますので」
その名前を出された瞬間、蛍の抵抗が一瞬、緩くなった。刹那、黒服はその隙を逃さず、車の方へ押しやった。
もう一人が、蛍の退路を塞ぐように立つ。手慣れた動きだった。
「ご安心ください。白石様も、いらっしゃいますので……」
車のドアが開けられた。蛍は抵抗しようとしたが、男二人にかなうはずもなく、あっけなく車内へ入れられた。後部座席は革張りで広く、冷房が効いている。見るからに高級な車内だった。運転席にも黒服の男が座っており、エンジンは、すでにかかっている。
「嫌!! 待って!!」
「……申し訳ございません」
一人が、そう呟いた。それが、謝罪なのか、事務的な言葉なのか、蛍にはもう、判断がつかなかった。
車が動き出す。窓の外を流れていく、見慣れた田舎の景色。抵抗する気力も、次第に萎えていった。山々が、次第にビル群へと変わっていく。長い時間、車に揺られているうちに、疲労と混乱で、瞼が重くなっていく。抗おうとしたが、いつの間にか、浅い眠りに引き込まれていた。
◇
気がつくと、柔らかいシーツの感触があった。かすかに香る、木と革の匂い。目を開けると、見覚えのない広い部屋にいた。高い天井、磨かれた床。窓の外には、鮮烈なビルの明かりが差し込む夜景が、広がっている。
起き上がろうとすると、ベッドの脇に、黒服の男が二人、立っていた。
「お目覚めですか。朔夜様は、まもなくいらっしゃいます」
もう一人が、水の入ったグラスを差し出す。
しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。静かで、一定のリズム。ドアが開き、スーツ姿のあの男が入ってきた。
「……起きたか」
黒服に朔夜と呼ばれたスーツの男は、椅子に腰を下ろし、蛍を見据えた。
「手荒な真似をして悪かった。君が素直に来ないのは、分かっていたからな」
「ここ……どこ?」
「東京だ」
「……! 嘘でしょ……!?」
蛍は飛び起き、壁一面のガラス張りの窓まで走り寄った。眼下には、東京の眩しい夜景が一気に広がっている。ビルの灯りが、宝石のように散らばっていた。
数時間前まで住んでいた、山も木々も水辺も河川敷もない。ホタルもいない。夜空の星も見えない。
「……これで、信じたか」
朔夜が蛍に声をかける。低い声だが、敵意はなかった。
「あっ! 陽人くんは……!?」
蛍はハッとして朔夜に聞いた。
「……彼は、ここにいない」
「え……」
「白石陽人君も来る、と言わせたのは俺の指示だ。君が、素直に車に乗るように」
蛍の顔が、みるみる青ざめた。
「……そんな。じゃあ、陽人くんは――」
「蛍のことは、説明した。……もう忘れるよう伝えた」
「――!!」
蛍は朔夜に向かって勢いよく掴みかかろうとしたが、黒服二人が蛍を抑えて制した。
「待ってよ!! そんなの!! そんなの、酷いよ!! 離れたく……ないよ……っ」
朔夜は、泣き叫ぶ蛍から視線を逸らした。
「……すまない。もう決めたことだ」
朔夜は、それだけ言って部屋を出た。その横顔には、罪悪感なのか、それとも何か別の感情なのか、判別のつかない翳りが、一瞬だけ差していた。
ひとりの少女が打ちのめされている中、新たな夜が始まろうとしていた。
◇
少し前。蛍が車に乗せられて移動していた、同時刻。朔夜は、陽人と会っていた。
陽人の高校もテスト期間中で、生徒は日中で下校していた。一度家に戻った後、図書館へ向かおうとしていた陽人を、朔夜は見つけ、車を止めてから声をかけた。
「白石君」
「……あなたは」
陽人は足を止め、警戒するように朔夜を睨んだ。
「なんですか?」
「白石君。……悪いが、蛍は回収した」
「……は?」
頭が真っ白になった。鞄の紐を掴む手が、震える。
「回収って……何言って……蛍は、今どこにいるんですか!?」
「東京だ」
陽人は思わず目を見開いた。心臓の鼓動が速い。
朔夜は淡々と続けた。
「もう、君と会うことはない。……これは、今までの謝礼だ」
上着の内ポケットから、厚みのある封筒が差し出される。口の隙間から、札束の端が覗いていた。
「嘘だ……」
「嘘はつかない。が、嘘だと思うならそれでも――」
「……ふざけるな」
陽人は、それを払い落とした。地面に落ちたそれが、鈍い音を立てる。
目に涙が浮かんでいたが、声だけは低く、はっきりしていた。
「蛍は物じゃないって、この前、言っただろ……! 勝手に連れ去って、金で済ませようとするな!!」
朔夜の胸ぐらを掴もうと、手を伸ばす。
「……君の気持ちは分かる。でも、力が無くては、どうにもできないこともある。君は、ただの高校生だ。限界がある。分かってくれなくてもいいが、蛍は返せない」
掴みかかった手は、空を切った。朔夜が退くより先に、陽人の体が先に崩れた。膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込む。
「君なら、彼女がいなくても、人生を謳歌できるだろう。……もう、彼女のことは忘れてくれ」
「……っ、くそ……」
アスファルトに、拳を叩きつけた。皮が裂けて、血が滲む。それでも痛みなど感じていないように、何度も地面を殴った。
「うぅっ……、蛍……」
嗚咽混じりに呟いたその名が、夕暮れの道に響く。朔夜は、しゃがみこむ陽人を一瞥したあと、踵を返し、車に乗り込んだ。崩れこんだその少年を、哀れに思いながら。
エンジン音が遠ざかり、やがて、消えた。
夕焼けが赤から紫に変わり、街灯がぽつりと点く。一人の少年が打ちのめされていようとも、変わらぬ夜を迎えようとしていた。
◇
陽人は、その日、居酒屋『鳥よし』のバイトが入っていた。
暖簾をくぐって入ってきた陽人を見た瞬間、店長の顔色が変わった。
「……おい陽人。なんかあったか。目ぇ真っ赤じゃねえか!」
「あ……」
「彼女となんかあったんか!?」
陽人は、ロッカーの前で立ち尽くしたまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと顔を上げる。目元が、赤く腫れていた。
「……店長。ちょっとだけ、時間もらえますか」
店長は、布巾を置いて、厨房の奥のテーブルを顎で示した。
「今日は客少ねえからいい。座れ」
二人は、テーブルに並んで座った。店内には、有線放送の演歌が、ぼんやり流れている。陽人はしばらく黙ったあと、ぽつりぽつりと話し始めた。突然現れた男のこと。蛍が東京に連れ去られたこと。金で済まされたこと。自分が無力で何もできなかったこと。
黙って聞いていた店長は、話が終わると、深く息を吐いた。太い指で、膝を叩く。
「そりゃ、ひでえ。蛍ちゃんも、今頃……」
「……」
「金で済まされたって、それで納得しろって渡されたのか?」
陽人は悔しそうに頷きながら、渡された封筒を取り出した。封筒の中の札束は分厚く、見ると50万円ほど入っていた。高校生どころか、大人でも大金だと思うほどだったが。
「ご、50万も……。しかし大金で納得させようなんて、なめられたもんだぜ」
店長が封筒を逆さにし、札束を取り出したその時、一枚の黒い小さな紙が床に落ちた。
「ん?」
店長がそれを拾い上げた。名刺だった。『黒崎グループ 取締役社長 黒崎朔夜』。手触りの良い黒い名刺に、そう書かれてあった。
店長は何か思い出したかのように陽人に話しかけた。
「こいつ、もしかして結構前にうちの店来てた、スーツの兄ちゃんか?」
「あ……、そうです。あの、酒だけ飲んでた人……」
「あいつか……。この紙、かなりいいもん使ってるぞ。札束といい、金持ちだな、こりゃ」
店長は名刺を指で弄りながら、何気なく名刺を裏返して、「あっ」と声を上げた。
「名刺に、会社の住所が書いてあるぞ!東京って――」
「え?」
「もしかしたら、この東京付近に、蛍ちゃんがいるんじゃ!?」
「……!!」
陽人は思わず身を乗り出して、店長が見つめている名刺を覗き込んだ。裏面に小さく、会社の所在地が印字されている。
「東京……」
名刺にある住所を読み上げてから、顔を上げた。目の色が変わっている。さっきまでの絶望とは違う、何か別のものが灯った顔だった。
店長は、にやりと笑った。
「なあ陽人。お前、明日、学校サボれるか? 俺も、保護者として付いてく」
「店長……」
「金は、こんなにある。……こりゃ、来いってことだろ」
店長は、にやりと口角を上げた。それを見た陽人は大きく頷いた。店長は奥で仕込みをしているバイトに、「明日は俺と陽人いないけど、店番よろしくな」と伝えて、それから二人は、明日の予定を組み立て始めた。
◇
一方、蛍は、別れの挨拶すらできぬまま、朔夜の勝手で離れ離れになってしまった、この状況に対して、怒りを抱いていた。
「……蛍」
ノックの音が聞こえ、ドアが開いた。朔夜が、部屋に入ってくる。手にはトレーを持ち、湯気の立つスープとパンが載っていた。
「食べろ。何も食べていないだろう」
テーブルの上にトレーを置き、椅子には座らず、壁に背を預けた。
蛍は、ベッドの端に座ったまま、朔夜を睨みつけていた。怒りと困惑と、名前のつけられない感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
「……怒っている、か」
淡々とした口調で呟いた。
「……そもそも、あなたは誰なの?」
壁から背を離し、朔夜は、まっすぐ蛍を見た。その目には、これまでの冷たさとは違う何かが、一瞬だけ揺れた。
「……俺は、黒崎朔夜。君の、兄だ」
言葉を切り、一拍置いた。
「君が6歳のとき、母親が亡くなっただろう。あの頃、俺は14歳だった。その時、君と離れ離れになった。……それ以来、ずっと君を迎えに行ける日を待っていた」
「……」
蛍は混乱する頭の中で記憶を遡ろうとしたが、朔夜の顔を見ても、初めて会う他人のように思えた。
「……本当に、兄なの? 記憶が……」
記憶がないと言われても、朔夜の表情は変わらなかった。むしろ、当然だというように頷く。
「6歳では、無理もない。俺と君がいた時間は、短かったわけだし。……それに、母親が亡くなったショックも大きかっただろう」
テーブルに歩み寄り、スープの皿を少し、蛍の方へ押した。
「信じられないのは、分かっている。だが、今は食べてくれ。話は、それからでいい」
「……っ」
蛍は、手を握りしめた。
「出てって、ほしい。……今は、一人にして」
朔夜は、しばらく蛍を見ていた。やがて、小さく息をついた。
「……分かった」
それだけ言い残して朔夜は部屋を出た。静かにドアを閉める音が響き、足音は遠ざかっていった。
「――! 陽人くん……!」
部屋に一人きりになった途端、堪えていたものが溢れた。枕に顔を埋めて、声を殺して泣く。昨日まで当たり前だった日常が、一瞬で奪われた。
テーブルの上のスープには、しばらく手が付けられなかった。




