藤堂からのお願い
季節はもう、冬の入り口に差し掛かっていた。窓の外の空気が、日に日に冷たさを増していく。
リコとの夕食は、いつしか当たり前の日課になっていた。だが、蛍と朔夜は、同じ屋根の下にいながら、他人よりも遠かった。
広い廊下ですれ違うことが、たまにある。朔夜は必ず足を止め、「……食事は、摂れているか」とか、「……何か、足りないものはないか」とか、短く声をかけてくる。蛍は、目を合わせず、黙って通り過ぎた。リコに心を開き始めてからも、そこだけは、変わらなかった。
リコには話せた。でも、朔夜は、別だった。この人にだけは、まだ、何かを許したくなかった。
その日も、蛍は朔夜の声を背中で無視して、部屋に戻ろうとしていた。
「……蛍様」
別の声に、呼び止められた。
振り返ると、廊下の隅に、初老の男が立っていた。仕立ての良いスーツを、几帳面に着こなした、白髪の男。この家で何度か見かけたことがあった。黒服たちとは、少し立ち位置が違うらしく、朔夜の傍らに影のように控えていることが多い人だった。
「藤堂と申します。朔夜様の……そうですな、雑用係のようなものでございます」
男は、深々と頭を下げた。所作の一つ一つが、古い映画のように丁寧だった。
「少しだけ、老人の話にお付き合いいただけますかな。……ああ、立ったままで結構。すぐ済みますので」
蛍は、警戒したまま、小さく頷いた。この家の人間の話を、聞きたいとは思わなかった。けれど、この老人の目には、引き留められる何かがあった。
「……朔夜様の無礼の数々、この爺からも、お詫び申し上げます」
藤堂は、もう一度、頭を下げた。
「あの方は、昔から、ああなのです。言葉が足りない。やることは全部やっておいて、肝心の一言が言えない」
藤堂は、少しだけ間を置いた。
「……蛍様の学校のことも、そうでございます。こちらへいらして間もなく、朔夜様は通信制の高校への転入を済ませておられます。これは、その課題でございます。お渡しする機会を窺っておりまして、爺が預かっておりました」
申し訳なさそうに目を伏せながら、封筒を差し出す。
蛍は、それを受け取った。宛名には、自分の名前が印字されていた。
――また、わたしに聞かずに。
「……蛍様が怒っていらっしゃるのは、当然のことでございます」
「別に、怒っては――」
蛍は、口ごもった。まだ、朔夜がやったことを、怒っているのだろうか。言葉が足りないことを、呆れているのだろうか。でも、それだけじゃない。自分でも、うまく名前がつけられない感情だった。
藤堂は、それ以上追い詰めなかった。代わりに、少しだけ声を落とした。
「……一つだけ、爺の独り言を申し上げます。聞き流してくださって、結構です」
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
「朔夜様は、毎晩、遅くにお戻りになった後、必ず蛍様のお部屋の前を通ってから、ご自分の部屋に入られます。ドアの前で、少しだけ立ち止まって。……ノックは、なさいません。ただ、灯りが点いているのを確かめて、行かれるのです」
蛍は、黙っていた。
「償い方を知らないのです、あの方は。謝り方も、甘え方も、誰にも教わらずに育ちましたから。……ですが、蛍様を大事に想う気持ちだけは、この爺が保証いたします。小さい頃から、お傍で見て参りましたので」
「……」
「蛍様が口をきいてくださらないことを、あの方は、当然の報いと受け止めておられます。だから、何も言わずに、ただ待っておられる。……それで良いと、爺も頭では分かっております。ですが」
藤堂は、そこで初めて、老人らしい弱さの滲む声になった。
「……罰を受け続ける主人を、傍でただ見ているのが、爺には少々、堪えるのです」
夕方の光が、廊下に長い影を作っていた。
「無理にとは、申しません。許せとも、申しません。……ただ、この爺の弱さに免じて、一つだけ。すれ違う時に、会釈ひとつ、返して差し上げてはいただけませんか」
深く、頭を下げる。
「……爺からのお願いは、それだけでございます。お時間を取らせました」
そのまま、藤堂は廊下の向こうへ、静かに歩き去っていった。押し付けも、念押しもなかった。蛍は、夕方の廊下に一人残されて、しばらく、窓の外を見ていた。
――ドアの前で、立ち止まって。
その姿を、想像してしまった。想像してしまったことが、少しだけ、悔しかった。
◇
数日後の夜だった。その日はマンションの屋上でリコと他愛もない会話をしていた。
32階の自室に戻ろうとすると、廊下の先に、ちょうど会社から帰ってきたばかりの朔夜がいた。眼鏡の奥の疲れた目が、蛍を見つけた瞬間、はっと見開いた。
「……蛍」
朔夜が、足を止めた。いつもの、続く言葉を探して見つからない、あの間があった。
蛍は、目を伏せたまま、通り過ぎようとして――
止まった。
それから、朔夜の方は見ないまま、ほんの小さく、頭を下げた。会釈と呼ぶのも躊躇われるほどの、数センチの角度。すぐに顔を戻して、足早に廊下を歩き去り、自室に入っていった。
朔夜はその場に、固まっていた。
◇
それから数日後の夕方、蛍は初めて地下に降りた。
リコに招待されていた。
「たまにはアタシの城で食べなさいな。仕込みの味見係が欲しいのよ」
――エレベーターを最下層の地下2階まで降り、短い廊下の先の、看板のない黒い扉。開けた瞬間、上の階とは違う空気が、頬に触れた。
――バー『月光』。
薄暗い店内のあちこちに、洒落た明かりが灯っている。思っていたより、奥行きのある店だった。
飴色に磨き込まれたカウンターの頭上に、逆さに吊るされたワイングラスが連なって光っている。壁際には年代物らしい酒樽が積まれ、奥の棚は、天井まで色とりどりの酒瓶で埋まっていた。古いレコードから、ジャズが流れている。
「いらっしゃい。……ふふ、口開いてるわよ、お嬢ちゃん」
カウンターの中のリコが、からかうように笑った。この薄暗い照明の中のリコは、部屋に来る時より輪郭が一段、艶を増して見えた。ここがこの人の城なのだと、蛍にも分かった。
蛍は、カウンターの端の止まり木に座らされ、試作の小鉢を三つ食べ比べさせられた。里芋の煮っころがしが、味付け違いで三種類。
「……二番目が、美味しいです」
「あんた、舌は確かねえ」
リコは満足そうに頷いて、余った一番と三番を、自分の口に放り込んだ。
帰り際、バーを出るときに、リコは「また来なさい」と手を振っていた。今度はノンアルコールのカクテルを作ってあげるから、と蛍に楽しみを与えながら。
自室に戻ろうと地下2階から、蛍はエレベーターに乗った。地下から、32階へ。扉が閉まり、箱が静かに上昇を始める。
1階で、止まった。
扉が開く。
立っていたのは、帰宅したばかりの朔夜だった。
目が合った。
朔夜の足が、一瞬止まった。乗るべきか見送るべきか。数秒にも満たない、けれど確かな躊躇。それから朔夜は、何も言わず乗り込んできた。
蛍は扉の隅に、視線を逃がした。
32階までの、長い上昇。表示階数の数字だけが、静かに増えていく。蛍は扉の隅を見ていた。朔夜は、真っ直ぐ前を見ていた。狭い箱の中に、沈黙が満ちている。
18階を過ぎたあたりで、朔夜が口を開いた。
「……最近、顔色が良くなった」
蛍の肩が、ぴくりと動いた。
「……リコの飯は、美味いか」
質問の形をした、精一杯の何かだった。体調を聞きたいのか、リコとの仲を確かめたいのか、ただ何か話したかったのか。たぶん、全部だった。
蛍は、しばらく黙っていた。無視することは、簡単だった。いつも通り、俯いて、扉が開くのを待てばいい。
けれど脳裏に、あの老人の声がよぎった。
――罰を受け続ける主人を、傍でただ見ているのが、爺には少々、堪えるのです。
「……美味しい、です」
ぽつり、と落とした。
それだけ言って、また扉の隅に目を戻した。
朔夜は、何も返さなかった。ただ微かに息を吐いた。安堵とも、笑いともつかない音だった。
32階に着いて、扉が開いた。蛍が先に降り、廊下を歩き出す。その背中に、朔夜の声が届いた。
「……そうか」
その声は、エレベーターの中のどの言葉よりも、柔らかかった。
蛍は、振り返らなかった。振り返らないまま、少しだけ、歩調が緩んだ。
翌朝、藤堂は、主人の様子がいつもと違うことに気づいた。何がどう違うのかと問われれば、答えに窮する程度の違いだった。ただコーヒーを飲む横顔が、心なしか柔らかい。
「……藤堂」
「はい」
「……いや。なんでもない」
藤堂は、何も聞かなかった。ただ、「さようでございますか」と一礼して、静かにカップを下げた。その口元が、僅かに緩んでいたことを、朔夜は知らない。




