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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(前編)
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夕食

 それからしばらくして、夕食の席に、変化が生まれた。

 きっかけは、リコだった。

「ねえ、蛍ちゃん。今日は上のダイニング借りていい? アタシ、広いところで食べたい気分なのよ」

 理由になっていない理由を言いながら、リコはすでに大皿を持って、エレベーターに乗り込んでいた。藤堂が、やれやれという顔で盆を持ち直す。

「……藤堂さんも来るんですか?」

「お嬢様のお傍に控えるのが、爺の役目でございますので」

 こうして、ダイニングでの夕食が始まった。最初はリコ、藤堂、それに黒服の二人がテーブルを囲んだ。黒服たちは、食事よりも立哨が本職らしく、箸の運びがどこかぎこちなかったが、リコがかまわず話しかけるので、場が妙に賑やかになった。

 その日の夜は、たまたま朔夜が早く帰ってきた。

 ダイニングの入口で足を止め、大勢がテーブルを囲んでいるのを見て、一瞬、踵を返しかけた。その背中に、リコが声をかける。

「あら、朔ちゃん。ちょうどいいわ、座りなさい。煮魚、一人分余ってるの」

「……俺は」

「余り物は出ないのよ、アタシの店では」

 有無を言わせない口調だった。藤堂が、さりげなく椅子を引いた。朔夜は、観念したように、テーブルの端に腰を下ろした。

 蛍は、朔夜の斜め向かいだった。目は合わせなかった。ただ、リコが朔夜に向かって「ねえ今日の煮魚どう? 醤油とみりんの割合変えてみたんだけど」と話しかけ、朔夜が「……悪くない」とだけ答え、リコが「もっと褒めなさいよ!」と叫ぶのを聞いていた。

 気がつくと、箸が進んでいた。

 それから、数日間は、同じ顔ぶれで夕食を取った。リコが料理を持ち込み、藤堂が給仕し、黒服二人がぎこちなく箸を動かし、朔夜が無口なまま座っている。賑やかとは言えないが、静かでもなかった。蛍にとって、その夜の時間は、少しずつ、当たり前の輪郭を持ち始めていた。

 変化があったのは、一週間ほど経った夜だった。

 リコが、夕方になって、珍しく申し訳なさそうな顔で言った。

「……ごめんなさい、今日は店に入らなきゃいけなくて。いつもより早い時間にお客が来るの」

 黒服の一人も、その日に限って外の見回りに回っていた。もう一人も食事を並べて、「警護があるので、私はこれで」と廊下に出ていった。

 残ったのは、蛍と藤堂と、朔夜だった。

 藤堂は静かに給仕した。それだけで場が保たれた。三人で向かい合って、しばらく黙ったまま箸を動かす。藤堂が「本日は里芋の煮物でございます」とだけ言い、朔夜が頷き、蛍がそっと人参を端に寄せた。

「……人参は、お嫌いで?」

 藤堂が、さりげなく聞いた。

「……少し」

「左様でございますか。次回は、抜いておきましょう」

 それだけだった。それだけのやり取りが、不思議と場の空気を一段やわらかくした。

 数日後。その夜も気づけば、藤堂が「少々失礼いたします」と立ち上がり、戻ってこなかった。朔夜と蛍が、テーブルに二人きりで残される形になった。

 蛍は、黙って箸を動かした。朔夜も、黙って箸を動かした。

 沈黙は長かった。けれどエレベーターの中のそれとは少し違った。針が立っているような沈黙ではなく、ただ静かな二人分の食事の時間だった。

「……味噌汁、冷める前に飲んだ方がいい」

 朔夜が唐突に言った。

 蛍は椀を手に取った。

「……はい」

 それだけだった。それだけだったが、二人とも、最後まで、席を立たなかった。


 翌日も、藤堂は途中で席を外した。今度は少し早く。

 蛍と朔夜が、また二人きりで残された。前の夜よりは気まずくなかった。前の夜を経験したから、かもしれない。

 しばらく黙って食べていると、朔夜が、蛍の食べているおかずの野菜を見ながら言った。

「……人参、嫌いなのか?」

「……えっ?」

「皿の端に寄せる癖がある」

 指摘されて、蛍は自分の椀を見た。無意識に、人参だけが端にきちんと集まっていた。

「……バレてました?」

「最初の日から」

「……うぅ」

 蛍は赤くなって俯いた。

「別に、恥ずかしいことではない。嫌いなものを無理に食う必要はない」

 それから、少しだけ間があって。

「……俺はピーマンが、今も食えない」

 蛍は、思わず朔夜の顔を見た。朔夜は真顔で箸を動かしていた。冗談を言ったつもりなのか、そうでないのか、判別がつかない。

「……本当ですか」

「本当だ」

 蛍は少しだけ、口元が緩んだ。笑ったわけではなかった。ただ、この無口な男が「ピーマンが食えない」と言ったことが、なんとなく意外だった。

「……人参も、食べたくなかったら残せ。食べなくても死なない。ほかの野菜で栄養を補えば——」

 真剣な顔で言う朔夜を見て——

「ふふっ……」

 蛍は思わず笑ってしまった。

 朔夜が、驚いたように箸を止めた。蛍も笑ってしまったことにはっとなった。

「……可笑しかったか?」

「少しだけ……」

 それから朔夜は、蛍の椀の隅に集められた人参を見つめながら、続けた。

「……嫌いな食べ物は、残していい。俺も残す。……共犯だ」

 蛍は目を丸くしてから、また小さく笑いながら、頷いた。朔夜の声は、いつもより穏やかに聞こえた。


「……料理は、できるのか」

 苦手な食べ物の話が落ち着いた頃、朔夜が、ふと聞いた。

「少しだけ。……簡単なものなら、たぶん」

「……食べてみたい」

 席を立ちかけていた蛍は、椅子を引き直して、また座った。

「でも、口に合うか……」

「……お前が嫌じゃなければ、作ってほしい」

 蛍は顔を上げた。朔夜は真顔だった。その真剣な顔に後押しされて、蛍は頷いた。

「……分かりました。明日、作ります」


 ◇


 翌日の夕方、蛍は、初めて黒崎家のキッチンに立った。広すぎるキッチンだった。業務用に近い大きさのコンロ、並んだ鍋。どこに何があるか分からず、藤堂に聞きながら、一つずつ取り出した。

 蛍は大きな冷蔵庫の中の食材を見て、肉じゃがを作ることにした。

 じゃがいも、玉ねぎ、牛肉、醤油、みりん、砂糖。材料は、シンプルだった。

 包丁を持つと、手が、自然に動いた。アパートの狭くて汚いキッチン。夕暮れの光。「まだか」と急かされる声。……思い出すと手が震えて、手元が狂いそうになる。頭を振って、鍋に向き直った。

 朔夜が帰ってきた時、ダイニングには、湯気の立った肉じゃががテーブルの真ん中に置かれていた。

「……作ったのか」

「はい」

 二人でテーブルに向かい合った。藤堂が、いつもより早く席を外した。

 朔夜は一口食べて、少しの間黙った。

「……美味しい」

 それだけだった。感想としては、あまりにも短かった。けれど、蛍の手が止まった。

「……ありがとうございます」

 返事をしながら、自分で自分の声が、少しおかしいと思った。

 ——祖父には、一度も言われたことがなかった。

 それでも、蛍は作るしかなかった。夕飯を用意しなければならない、という理由以外に、いつか「美味しい」と言ってほしかったから。

「……っ」

 こらえようとしたが、遅かった。涙が、一筋、頬を伝った。慌てて俯いて、袖で拭う。でも、止まらなかった。次から次へと、溢れてくる。

「……蛍」

 朔夜の声が、した。

 俯いたまま袖で涙を拭う蛍を、朔夜は、少しの間、黙って見ていた。それから、居住まいを正して、頭を下げた。申し訳なさそうな、けれどどこかぎこちない顔で。

「……すまない」

 蛍は、顔を上げた。涙の残る目で、朔夜を見る。しばらく黙っていた。それから少しだけ眉を寄せた。

「……なんで、謝るの」

「……」

「泣いてるのは、別に、あなたのせいじゃないから……」

 朔夜が、口を閉じた。

 蛍は、椀を両手で包んで、俯いた。

「……朝霧の家で、祖父と住んでて……。夕飯を作っても、おばあちゃんの味と違うって、美味しくないって言われて……。でも、あなたが、美味しいって言ってくれて、嬉しかったから……」

「……そうか」

 朔夜は目を伏せながら、静かに口を開いた。

「……まだ、俺のこと。怒ってるのかと思って……」

「それは……怒ってますけど……」

「……」

 朔夜はちらりと蛍を見た。そうは言うが、蛍の顔や声色に怒りの感情はなかった。

「許したわけじゃ、ないけど……。でも、リコさんや藤堂さんから話を聞いて、あなたにもわたしの知らない事情があったんだと、思ったから……だから——」

 蛍は手で目を擦りながら顔を上げた。

「もう、怒らないことにします」

 それから蛍は赤い目のまま、少しだけ微笑んだ。

「ごはん、美味しいって言ってくれて、ありがとう」

 朔夜は少しの間、黙っていた。それから静かに言った。

「俺の方こそ。……ありがとう」

 それを聞いて、蛍はまた笑った。そして思い出したかのように口を開いた。

「でもあの、次からちゃんと何に謝ってるのか説明してくださいね?」

 蛍に少し強気に言われて、朔夜は肩をすくめた。

「……善処する」

 蛍は少し笑いながら、箸を持ち直して、肉じゃがを一口食べた。

 夕飯を食べる蛍を見ながら、朔夜はまた口を開いた。

「蛍。お前さえよければ……これからも夕飯を作って、一緒に食べてくれるか?」

 蛍はご飯を飲み込んでから、頷いた。

「はい……!」

 朔夜も箸を持ち、肉じゃがを食べ進めた。

 蛍の頬に涙の跡が残っていたが、もう止まっていた。


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