夕食
それからしばらくして、夕食の席に、変化が生まれた。
きっかけは、リコだった。
「ねえ、蛍ちゃん。今日は上のダイニング借りていい? アタシ、広いところで食べたい気分なのよ」
理由になっていない理由を言いながら、リコはすでに大皿を持って、エレベーターに乗り込んでいた。藤堂が、やれやれという顔で盆を持ち直す。
「……藤堂さんも来るんですか?」
「お嬢様のお傍に控えるのが、爺の役目でございますので」
こうして、ダイニングでの夕食が始まった。最初はリコ、藤堂、それに黒服の二人がテーブルを囲んだ。黒服たちは、食事よりも立哨が本職らしく、箸の運びがどこかぎこちなかったが、リコがかまわず話しかけるので、場が妙に賑やかになった。
その日の夜は、たまたま朔夜が早く帰ってきた。
ダイニングの入口で足を止め、大勢がテーブルを囲んでいるのを見て、一瞬、踵を返しかけた。その背中に、リコが声をかける。
「あら、朔ちゃん。ちょうどいいわ、座りなさい。煮魚、一人分余ってるの」
「……俺は」
「余り物は出ないのよ、アタシの店では」
有無を言わせない口調だった。藤堂が、さりげなく椅子を引いた。朔夜は、観念したように、テーブルの端に腰を下ろした。
蛍は、朔夜の斜め向かいだった。目は合わせなかった。ただ、リコが朔夜に向かって「ねえ今日の煮魚どう? 醤油とみりんの割合変えてみたんだけど」と話しかけ、朔夜が「……悪くない」とだけ答え、リコが「もっと褒めなさいよ!」と叫ぶのを聞いていた。
気がつくと、箸が進んでいた。
それから、数日間は、同じ顔ぶれで夕食を取った。リコが料理を持ち込み、藤堂が給仕し、黒服二人がぎこちなく箸を動かし、朔夜が無口なまま座っている。賑やかとは言えないが、静かでもなかった。蛍にとって、その夜の時間は、少しずつ、当たり前の輪郭を持ち始めていた。
変化があったのは、一週間ほど経った夜だった。
リコが、夕方になって、珍しく申し訳なさそうな顔で言った。
「……ごめんなさい、今日は店に入らなきゃいけなくて。いつもより早い時間にお客が来るの」
黒服の一人も、その日に限って外の見回りに回っていた。もう一人も食事を並べて、「警護があるので、私はこれで」と廊下に出ていった。
残ったのは、蛍と藤堂と、朔夜だった。
藤堂は静かに給仕した。それだけで場が保たれた。三人で向かい合って、しばらく黙ったまま箸を動かす。藤堂が「本日は里芋の煮物でございます」とだけ言い、朔夜が頷き、蛍がそっと人参を端に寄せた。
「……人参は、お嫌いで?」
藤堂が、さりげなく聞いた。
「……少し」
「左様でございますか。次回は、抜いておきましょう」
それだけだった。それだけのやり取りが、不思議と場の空気を一段やわらかくした。
数日後。その夜も気づけば、藤堂が「少々失礼いたします」と立ち上がり、戻ってこなかった。朔夜と蛍が、テーブルに二人きりで残される形になった。
蛍は、黙って箸を動かした。朔夜も、黙って箸を動かした。
沈黙は長かった。けれどエレベーターの中のそれとは少し違った。針が立っているような沈黙ではなく、ただ静かな二人分の食事の時間だった。
「……味噌汁、冷める前に飲んだ方がいい」
朔夜が唐突に言った。
蛍は椀を手に取った。
「……はい」
それだけだった。それだけだったが、二人とも、最後まで、席を立たなかった。
翌日も、藤堂は途中で席を外した。今度は少し早く。
蛍と朔夜が、また二人きりで残された。前の夜よりは気まずくなかった。前の夜を経験したから、かもしれない。
しばらく黙って食べていると、朔夜が、蛍の食べているおかずの野菜を見ながら言った。
「……人参、嫌いなのか?」
「……えっ?」
「皿の端に寄せる癖がある」
指摘されて、蛍は自分の椀を見た。無意識に、人参だけが端にきちんと集まっていた。
「……バレてました?」
「最初の日から」
「……うぅ」
蛍は赤くなって俯いた。
「別に、恥ずかしいことではない。嫌いなものを無理に食う必要はない」
それから、少しだけ間があって。
「……俺はピーマンが、今も食えない」
蛍は、思わず朔夜の顔を見た。朔夜は真顔で箸を動かしていた。冗談を言ったつもりなのか、そうでないのか、判別がつかない。
「……本当ですか」
「本当だ」
蛍は少しだけ、口元が緩んだ。笑ったわけではなかった。ただ、この無口な男が「ピーマンが食えない」と言ったことが、なんとなく意外だった。
「……人参も、食べたくなかったら残せ。食べなくても死なない。ほかの野菜で栄養を補えば——」
真剣な顔で言う朔夜を見て——
「ふふっ……」
蛍は思わず笑ってしまった。
朔夜が、驚いたように箸を止めた。蛍も笑ってしまったことにはっとなった。
「……可笑しかったか?」
「少しだけ……」
それから朔夜は、蛍の椀の隅に集められた人参を見つめながら、続けた。
「……嫌いな食べ物は、残していい。俺も残す。……共犯だ」
蛍は目を丸くしてから、また小さく笑いながら、頷いた。朔夜の声は、いつもより穏やかに聞こえた。
「……料理は、できるのか」
苦手な食べ物の話が落ち着いた頃、朔夜が、ふと聞いた。
「少しだけ。……簡単なものなら、たぶん」
「……食べてみたい」
席を立ちかけていた蛍は、椅子を引き直して、また座った。
「でも、口に合うか……」
「……お前が嫌じゃなければ、作ってほしい」
蛍は顔を上げた。朔夜は真顔だった。その真剣な顔に後押しされて、蛍は頷いた。
「……分かりました。明日、作ります」
◇
翌日の夕方、蛍は、初めて黒崎家のキッチンに立った。広すぎるキッチンだった。業務用に近い大きさのコンロ、並んだ鍋。どこに何があるか分からず、藤堂に聞きながら、一つずつ取り出した。
蛍は大きな冷蔵庫の中の食材を見て、肉じゃがを作ることにした。
じゃがいも、玉ねぎ、牛肉、醤油、みりん、砂糖。材料は、シンプルだった。
包丁を持つと、手が、自然に動いた。アパートの狭くて汚いキッチン。夕暮れの光。「まだか」と急かされる声。……思い出すと手が震えて、手元が狂いそうになる。頭を振って、鍋に向き直った。
朔夜が帰ってきた時、ダイニングには、湯気の立った肉じゃががテーブルの真ん中に置かれていた。
「……作ったのか」
「はい」
二人でテーブルに向かい合った。藤堂が、いつもより早く席を外した。
朔夜は一口食べて、少しの間黙った。
「……美味しい」
それだけだった。感想としては、あまりにも短かった。けれど、蛍の手が止まった。
「……ありがとうございます」
返事をしながら、自分で自分の声が、少しおかしいと思った。
——祖父には、一度も言われたことがなかった。
それでも、蛍は作るしかなかった。夕飯を用意しなければならない、という理由以外に、いつか「美味しい」と言ってほしかったから。
「……っ」
こらえようとしたが、遅かった。涙が、一筋、頬を伝った。慌てて俯いて、袖で拭う。でも、止まらなかった。次から次へと、溢れてくる。
「……蛍」
朔夜の声が、した。
俯いたまま袖で涙を拭う蛍を、朔夜は、少しの間、黙って見ていた。それから、居住まいを正して、頭を下げた。申し訳なさそうな、けれどどこかぎこちない顔で。
「……すまない」
蛍は、顔を上げた。涙の残る目で、朔夜を見る。しばらく黙っていた。それから少しだけ眉を寄せた。
「……なんで、謝るの」
「……」
「泣いてるのは、別に、あなたのせいじゃないから……」
朔夜が、口を閉じた。
蛍は、椀を両手で包んで、俯いた。
「……朝霧の家で、祖父と住んでて……。夕飯を作っても、おばあちゃんの味と違うって、美味しくないって言われて……。でも、あなたが、美味しいって言ってくれて、嬉しかったから……」
「……そうか」
朔夜は目を伏せながら、静かに口を開いた。
「……まだ、俺のこと。怒ってるのかと思って……」
「それは……怒ってますけど……」
「……」
朔夜はちらりと蛍を見た。そうは言うが、蛍の顔や声色に怒りの感情はなかった。
「許したわけじゃ、ないけど……。でも、リコさんや藤堂さんから話を聞いて、あなたにもわたしの知らない事情があったんだと、思ったから……だから——」
蛍は手で目を擦りながら顔を上げた。
「もう、怒らないことにします」
それから蛍は赤い目のまま、少しだけ微笑んだ。
「ごはん、美味しいって言ってくれて、ありがとう」
朔夜は少しの間、黙っていた。それから静かに言った。
「俺の方こそ。……ありがとう」
それを聞いて、蛍はまた笑った。そして思い出したかのように口を開いた。
「でもあの、次からちゃんと何に謝ってるのか説明してくださいね?」
蛍に少し強気に言われて、朔夜は肩をすくめた。
「……善処する」
蛍は少し笑いながら、箸を持ち直して、肉じゃがを一口食べた。
夕飯を食べる蛍を見ながら、朔夜はまた口を開いた。
「蛍。お前さえよければ……これからも夕飯を作って、一緒に食べてくれるか?」
蛍はご飯を飲み込んでから、頷いた。
「はい……!」
朔夜も箸を持ち、肉じゃがを食べ進めた。
蛍の頬に涙の跡が残っていたが、もう止まっていた。




