宗玄との謁見
12月中旬、本格的な冬を迎えていた。窓の外の街路樹は、すっかり葉を落としている。
その日の朝、朝食の席で、朔夜が切り出した。
「……父さん――黒崎宗玄が、お前に会いたいと言っている」
蛍の手が止まった。
――黒崎宗玄。黒崎グループの会長。この家と会社の、一番上にいる人間。しかし蛍はそれ以外、黒崎宗玄について何も知らなかった。
「わたしの、お父さんなの?」
朔夜は少し難しい顔をして、言葉を選びながら答えた。
「……ややこしい話なんだが。お前と宗玄は血が繋がっていない」
「え?」
「お前は、母さん――黒崎瑞希と、別の男性との間の子だ」
「……」
「だから、異父兄妹に、なる……」
蛍は唖然としたまま、朔夜の言葉を頭の中で繰り返した。
「わたしは、母親の瑞希さんの子で……宗玄さんとは血が繋がっていない……」
「そうだ。だが、今はそんなに深く考えなくていい」
朔夜は、コーヒーカップを置いた。
「顔を見せるだけでいい。長くはさせるつもりはない。……俺の横で、少し会釈するくらいでいい」
「……分かりました」
蛍は小さく頷いた。黒崎宗玄がどんな人物か知らなかったが、隣に座る男の声が、いつになく硬いことが気にかかった。
◇
日曜の午後。黒崎本邸。
都心から車で小1時間の、高い塀に囲われた屋敷だった。磨き上げられた長い廊下を、藤堂が先導する。蛍は、用意された落ち着いた色のワンピースを着せられ、朔夜の半歩後ろを歩いた。廊下は静かで、自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。
通されたのは、広い和室だった。
床の間を背に、老人が一人、座っていた。
白髪交じりの髪を、きっちりと撫でつけ、和装の襟元には、皺ひとつない。歳を重ねてなお衰えない、というより、歳月そのものを威圧に変えたような佇まい。部屋の空気が、その一点に向かって、静かに張り詰めていた。
そして、老人の前には――将棋盤が、据えられていた。
「……来たか」
宗玄は顔を上げた。その目が蛍を捉える。観察されているような、査定されているような、そんな気がした。蛍は思わず唾を飲んだ。
「初めまして。……黒崎蛍、と申します」
教わった通りに畳に手をついて、頭を下げた。
「……お前が、朔夜の妹か」
宗玄の顔を見た。色のない、無機質な目をしていた。
「……そこに座ってなさい」
宗玄は蛍に盤の横を示すと、視線を朔夜に移した。
「朔夜。一局、付き合え」
「……はい」
朔夜は、静かに盤の前に座った。慣れた所作だった。何度も、こうして向かい合ってきたのだろうと、蛍にも分かる座り方だった。
駒が並べられていく。ぱち、ぱち、と盤に置かれる音だけが、和室に響く。
「……将棋は、指せるか」
不意に問われ、少しどきっとした。
「……いえ。ルールも、知りません」
「そうか。なら、ちょうどいい」
宗玄は、歩の駒を一枚、摘み上げた。
「これは、歩。前に一マスしか進めん。最弱の駒だ。……だが、数だけは一番多い。会社で言えば、平の社員だな」
盤の一番手前に、ぱちりと置く。
「こちらは飛車。盤を縦横に、どこまでも走る。歩より遠くまで動ける駒は、管理職、というところか。そしてこっちの金と銀は、王の傍を固める。……会社で言うと、秘書だな」
駒を一つずつ示しながら、宗玄は淡々と語った。教えている、という口調ではなかった。独り言に近い。けれどその独り言が、この部屋の空気を支配していた。
「そして、これが王。……この一枚が取られれば、他の駒がどれだけ残っていても、負けだ。会社も同じでな。頭が死ねば、すべて終わる」
宗玄は王将を盤に置いて、初めて薄く笑った。
「面白いのは、王は自分ではほとんど動かんということだ。動くのは、駒だ。駒が働き、駒が守り、駒が死ぬ。……王の仕事はどの駒を、どこで使うかを決めることだけだ」
「……」
宗玄は目線を朔夜に移した。
「――始めるぞ、朔夜」
宗玄は、居住まいを正した。それから、対局の一礼の直前、ふと顔を上げて静かに言い添えた。
「手を抜くなよ」
朔夜の肩が、僅かに揺れた。
「……はい」
一礼して、対局が始まった。
蛍には、盤の上で何が起きているのか、ほとんど分からなかった。ぱち、ぱち、と交互に駒音が響く。時々、長い沈黙が挟まる。宗玄も朔夜も、ずっと同じ姿勢のまま、盤だけを見ていた。
ただ、分からないなりに、感じるものはあった。
二人の間に流れる時間が、普通ではなかった。親子の団欒でも、遊びでもない。もっと張り詰めた、試験のような、査問のような時間。普段冷静で落ち着いている朔夜が、張りつめているように感じた。
――この人は、ずっと、この空気の中にいたのか。
長い対局だった。夕方の光が、障子越しに、橙色に変わり始めた頃。
「……負けました」
朔夜が、頭を下げた。
蛍は、その横顔を、見ていた。
悔しそうではなかった。むしろ何の感情もなかった。静かで、うまく言葉にできない表情だった。ただ、その静かすぎる横顔だけが、妙に、記憶に残った。
「……蛍、といったか」
「は、はい」
名前を急に呼ばれ、声が上擦った。
「……朔夜から聞いているだろうが、お前をこの家に置く以上、遊ばせておくつもりはない。わかっているな?」
「……」
蛍はちらりと朔夜を見た。朔夜の目は、この場に合わせろ、と訴えているようだった。
「わかりました……」
「……今後、社交の場に出る機会も増える。黒崎を名乗る以上、恥をかかん程度には振る舞えるようにしておけ。……朔夜、わかっているな?」
「……はい」
「話は、終わりだ」
宗玄は、手元の茶を取り上げた。それが、退出の合図らしかった。まるで、最初から、そこに誰もいなかったかのように、老人はもう、二人を見ようともしなかった。
◇
帰りの車の中は静かだった。
窓の外を、夕暮れの街並みが流れていく。蛍は、ぼんやりとそれを眺めていた。和室の空気が、まだ体のどこかに貼りついている気がした。
「……言ってなくて、悪かったな」
窓の外を見ていた朔夜が沈黙を破った。
「え?」
「会社のことだ。黒崎に来たからには、働かなければならない」
「初耳、なんだけど……」
なんだか今日一日でいろんなことで頭がいっぱいだった。
「嫌か?」
「……何をするの?」
「俺の、秘書として。最初は書類整理とか、雑用から。……それより――」
朔夜が蛍の方を見て、小さい声で言った。
「……大丈夫だったか」
先ほどの謁見の時の硬い声ではなく、低く落ち着いた声。
「圧の強い人だ。……初対面で、あれは、疲れただろう」
蛍は窓の外を見たまま、小さく答えた。
「……はい」
それから、少しの間があって。
蛍は膝の上で手を握ったまま、ぽつりと聞いた。
「……兄さん……は、ずっとあの人と、二人だったの?」
朔夜が、息を止めたのが分かった。
初めてだった。蛍が、朔夜のことを「兄さん」と、呼んだのは。
「……ああ」
短い返事だった。それ以上の言葉は、続かなかった。蛍もそれ以上は、聞かなかった。
車は夕暮れの街を、静かに走っていく。二人の間の沈黙は、行きの車のそれとは、少しだけ温度が違っていた。




