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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(前編)
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12/70

宗玄との謁見

 12月中旬、本格的な冬を迎えていた。窓の外の街路樹は、すっかり葉を落としている。

 その日の朝、朝食の席で、朔夜が切り出した。

「……父さん――黒崎宗玄が、お前に会いたいと言っている」

 蛍の手が止まった。

 ――黒崎宗玄。黒崎グループの会長。この家と会社の、一番上にいる人間。しかし蛍はそれ以外、黒崎宗玄について何も知らなかった。

「わたしの、お父さんなの?」

 朔夜は少し難しい顔をして、言葉を選びながら答えた。

「……ややこしい話なんだが。お前と宗玄は血が繋がっていない」

「え?」

「お前は、母さん――黒崎瑞希と、別の男性との間の子だ」

「……」

「だから、異父兄妹に、なる……」

 蛍は唖然としたまま、朔夜の言葉を頭の中で繰り返した。

「わたしは、母親の瑞希さんの子で……宗玄さんとは血が繋がっていない……」

「そうだ。だが、今はそんなに深く考えなくていい」

 朔夜は、コーヒーカップを置いた。

「顔を見せるだけでいい。長くはさせるつもりはない。……俺の横で、少し会釈するくらいでいい」

「……分かりました」

 蛍は小さく頷いた。黒崎宗玄がどんな人物か知らなかったが、隣に座る男の声が、いつになく硬いことが気にかかった。


 ◇


 日曜の午後。黒崎本邸。

 都心から車で小1時間の、高い塀に囲われた屋敷だった。磨き上げられた長い廊下を、藤堂が先導する。蛍は、用意された落ち着いた色のワンピースを着せられ、朔夜の半歩後ろを歩いた。廊下は静かで、自分の足音だけが、やけに大きく聞こえた。

 通されたのは、広い和室だった。

 床の間を背に、老人が一人、座っていた。

 白髪交じりの髪を、きっちりと撫でつけ、和装の襟元には、皺ひとつない。歳を重ねてなお衰えない、というより、歳月そのものを威圧に変えたような佇まい。部屋の空気が、その一点に向かって、静かに張り詰めていた。

 そして、老人の前には――将棋盤が、据えられていた。

「……来たか」

 宗玄は顔を上げた。その目が蛍を捉える。観察されているような、査定されているような、そんな気がした。蛍は思わず唾を飲んだ。

「初めまして。……黒崎蛍、と申します」

 教わった通りに畳に手をついて、頭を下げた。

「……お前が、朔夜の妹か」

 宗玄の顔を見た。色のない、無機質な目をしていた。

「……そこに座ってなさい」

 宗玄は蛍に盤の横を示すと、視線を朔夜に移した。

「朔夜。一局、付き合え」

「……はい」

 朔夜は、静かに盤の前に座った。慣れた所作だった。何度も、こうして向かい合ってきたのだろうと、蛍にも分かる座り方だった。

 駒が並べられていく。ぱち、ぱち、と盤に置かれる音だけが、和室に響く。

「……将棋は、指せるか」

 不意に問われ、少しどきっとした。

「……いえ。ルールも、知りません」

「そうか。なら、ちょうどいい」

 宗玄は、歩の駒を一枚、摘み上げた。

「これは、歩。前に一マスしか進めん。最弱の駒だ。……だが、数だけは一番多い。会社で言えば、平の社員だな」

 盤の一番手前に、ぱちりと置く。

「こちらは飛車。盤を縦横に、どこまでも走る。歩より遠くまで動ける駒は、管理職、というところか。そしてこっちの金と銀は、王の傍を固める。……会社で言うと、秘書だな」

 駒を一つずつ示しながら、宗玄は淡々と語った。教えている、という口調ではなかった。独り言に近い。けれどその独り言が、この部屋の空気を支配していた。

「そして、これが王。……この一枚が取られれば、他の駒がどれだけ残っていても、負けだ。会社も同じでな。頭が死ねば、すべて終わる」

 宗玄は王将を盤に置いて、初めて薄く笑った。

「面白いのは、王は自分ではほとんど動かんということだ。動くのは、駒だ。駒が働き、駒が守り、駒が死ぬ。……王の仕事はどの駒を、どこで使うかを決めることだけだ」

「……」

 宗玄は目線を朔夜に移した。

「――始めるぞ、朔夜」

 宗玄は、居住まいを正した。それから、対局の一礼の直前、ふと顔を上げて静かに言い添えた。

「手を抜くなよ」

 朔夜の肩が、僅かに揺れた。

「……はい」

 一礼して、対局が始まった。

 蛍には、盤の上で何が起きているのか、ほとんど分からなかった。ぱち、ぱち、と交互に駒音が響く。時々、長い沈黙が挟まる。宗玄も朔夜も、ずっと同じ姿勢のまま、盤だけを見ていた。

 ただ、分からないなりに、感じるものはあった。

 二人の間に流れる時間が、普通ではなかった。親子の団欒でも、遊びでもない。もっと張り詰めた、試験のような、査問のような時間。普段冷静で落ち着いている朔夜が、張りつめているように感じた。

 ――この人は、ずっと、この空気の中にいたのか。

 長い対局だった。夕方の光が、障子越しに、橙色に変わり始めた頃。

「……負けました」

 朔夜が、頭を下げた。

 蛍は、その横顔を、見ていた。

 悔しそうではなかった。むしろ何の感情もなかった。静かで、うまく言葉にできない表情だった。ただ、その静かすぎる横顔だけが、妙に、記憶に残った。

「……蛍、といったか」

「は、はい」

 名前を急に呼ばれ、声が上擦った。

「……朔夜から聞いているだろうが、お前をこの家に置く以上、遊ばせておくつもりはない。わかっているな?」

「……」

 蛍はちらりと朔夜を見た。朔夜の目は、この場に合わせろ、と訴えているようだった。

「わかりました……」

「……今後、社交の場に出る機会も増える。黒崎を名乗る以上、恥をかかん程度には振る舞えるようにしておけ。……朔夜、わかっているな?」

「……はい」

「話は、終わりだ」

 宗玄は、手元の茶を取り上げた。それが、退出の合図らしかった。まるで、最初から、そこに誰もいなかったかのように、老人はもう、二人を見ようともしなかった。


 ◇


 帰りの車の中は静かだった。

 窓の外を、夕暮れの街並みが流れていく。蛍は、ぼんやりとそれを眺めていた。和室の空気が、まだ体のどこかに貼りついている気がした。

「……言ってなくて、悪かったな」

 窓の外を見ていた朔夜が沈黙を破った。

「え?」

「会社のことだ。黒崎に来たからには、働かなければならない」

「初耳、なんだけど……」

 なんだか今日一日でいろんなことで頭がいっぱいだった。

「嫌か?」

「……何をするの?」

「俺の、秘書として。最初は書類整理とか、雑用から。……それより――」

 朔夜が蛍の方を見て、小さい声で言った。

「……大丈夫だったか」

 先ほどの謁見の時の硬い声ではなく、低く落ち着いた声。

「圧の強い人だ。……初対面で、あれは、疲れただろう」

 蛍は窓の外を見たまま、小さく答えた。

「……はい」

 それから、少しの間があって。

 蛍は膝の上で手を握ったまま、ぽつりと聞いた。

「……兄さん……は、ずっとあの人と、二人だったの?」

 朔夜が、息を止めたのが分かった。

 初めてだった。蛍が、朔夜のことを「兄さん」と、呼んだのは。

「……ああ」

 短い返事だった。それ以上の言葉は、続かなかった。蛍もそれ以上は、聞かなかった。

 車は夕暮れの街を、静かに走っていく。二人の間の沈黙は、行きの車のそれとは、少しだけ温度が違っていた。

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