黒崎での勤務
謁見から数日後の朝だった。
——とんとん、とドアがノックされた。リコのリズムではない。
「失礼いたします」
藤堂だった。盆に紅茶を載せて、静かに入ってくる。
「本日は、少々、ご提案がございまして」
テーブルに紅茶を置きながら、藤堂は、いつもの丁寧な口調で続けた。
「お嬢様は今後、この家に関わっていかれるわけでございます。……もしよろしければ、朔夜様のお仕事を、少し見学されるところから始められるのはいかがでしょう」
蛍は、本から顔を上げた。
「仕事、ですか」
蛍は、数日前、朔夜がこの家に来たからには働かなければならない、と言っていたことを思い出した。
「はい。会議の陪席ですとか、書類の整理ですとか、最初は見ているだけで構いません。……もちろん、心の準備が必要でございましょう、無理にとは申しません。ただ、この家のことを何も知らないままでは、お嬢様が不便なこともございますでしょうから」
押し付けでも、命令でもなかった。ただ、選択肢として、静かに差し出している。
「……ついでに申し上げますと、朔夜様はあなたのことを期待しておりました」
「え?」
「例えば、蛍様が朝霧にいたとき、酷な状況だったと聞いております。それでもめげずに独りで生活していたと。仕事も、孤独なことはございます。でもあなたなら何かあったとしても、乗り越えられるだろうと……」
蛍は黙って藤堂の話を聞いていた。
「それに、これは私の気持ちになりますが。……社長というのは会社のすべての責任を負う立場でございます。20代半ばの若い男が、これほど大きなグループの責任を負うのは、かなりのプレッシャーだったかと。お傍で、蛍様が秘書として社長を支えてくだされば、坊ちゃんも、そしてこの爺も少し安心できるというものです」
蛍は、静かに目を落とした。
期待。その二文字が、蛍の心に残った。
今まで、誰かに期待されたことなど、あっただろうか。あの祖父にも。朝霧の高校でも。
——わたしが、何か役に立てるかもしれない。
そう思うと、少しだけ、体の内側が温かくなった気がした。
それと同時に、この家に来て五ヶ月が経ち、それなりに都会の暮らしに慣れてきたが、わたしは朔夜のことをまだ何も知らなかった。
普段彼が、黒崎グループの社長として、どんな風に働いているのか。どんな世界に身を置いているのか。分からないままだった。
「……見てるだけで、いいんですか」
「最初は、それで十分でございます」
蛍は、しばらく、紅茶のカップを見つめていた。
「分かりました。行きます」
「……ありがとうございます」
藤堂は、深く頭を下げた。それから、ドアの前で、さりげなく付け加えた。
「……実は朔夜様も、お嬢様に声をかけようとして、なかなか自分からは踏み出せずにおられました。爺が先に動いてしまいましたが、ご容赦ください」
「そうなの?」
「はい。見ていていじらしくなり、つい手助けしてしまいました。あ、このことは蛍様の胸の内にだけ、しまっておいてください」
藤堂は、かすかに微笑んでから、静かに部屋を出た。




