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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(後編)
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14/71

勤務当日

 翌朝、蛍は初めて黒崎ビルのエントランスに立った。

 朝8時。吹き抜けのロビーには、スーツ姿の社員たちが行き交っている。

 黒崎ビルで働く社員たちは、見慣れない若い少女をちらちらと見ていた。だがそこまで興味もなく、次々と受付嬢の右側のセキュリティゲートにIDカードをかざし、エレベーターを昇っていく。蛍は圧倒されながらも、ゲート前の行列に並んだ。

 蛍は昨日届けられたIDカードを、ゲートの端末にかざした。小さな電子音とともにゲートが開く。そのまま社員たちの流れに押されるがまま、エレベーターへ。最上階に着くまでに、社員は次々と自分たちの職場のフロアへ降りていき、最後は蛍ひとりになった。最上階で扉が開いた瞬間、空気が下の階とは違った。静かで、張り詰めていて、廊下の端まで隙がなかった。

 エレベーターを降りると、黒服が蛍を迎えた。黒服に言われるがまま、後ろをついていく。

 案内された先は、社長室だった。

 重厚な扉が開かれると、広い室内の奥、大きなデスクに朔夜が座っていた。黒縁の眼鏡をかけ、ネクタイの結び目ひとつにすら、隙がない。その手前にはローテーブルとソファがあり、入口近くには小さなデスクとノートパソコンが置かれている。大きな窓からは、足元に並ぶビル群が一望できた。

 蛍が呆気に取られていると、奥から声がかかった。

「……来たか」

 朔夜は蛍を一瞥しただけで、すぐに手元の資料へ目を戻した。

 それだけだった。「おはよう」も「よろしく」もない、たった一言。だがその声は、決して冷たく硬いものではなかった。

 入口近くのデスクには、付箋だらけのファイルが積まれていた。

「9時半から来客がある。それまでにメールを確認しておけ。急ぎの案件には付箋が貼ってある」

 言い終わる前に内線が鳴った。朔夜は、一拍も置かずに受話器を取る。

「……黒崎だ。……ああ。その件は午後に回せ。先に御影とのアポがある」

 そのまま会話は続いた。蛍が立ち尽くしているうちに、二本目の電話が入り、三本目が重なった。取引先からの問い合わせ。経理部からの決裁依頼。支社とのテレビ会議のリマインド。朔夜は、それらを次々と捌いていく。時折、相手の発言を遮るように一言二言で切る場面もあったが、それが許されるだけの何かが、声の端々に滲んでいた。

 ――昨日、藤堂から聞いていた、「見ているだけでよい」という状況ではなさそうだった。

 至る所に積み上げられた書類や、何度も鳴る電話を捌いていく朔夜を見て、蛍は呆気にとられていた。呆然とする蛍の傍らに、黒服が静かに歩み寄ってきた。

「蛍様、ご安心ください。本日は私が横で補佐いたします。まずはメールの分類から参りましょう。重要度の高いものから順にフォルダ分けしていただければ十分です」

 声は穏やかで慣れた調子だった。蛍は促されるままパソコンの前に座り、メールを開いた。

 未読が、127件あった。

「……これ、全部?」

「社長宛の1日分です。朝一番で仕分けるのが、秘書の最初の仕事になります」

 蛍は、黙って画面に向かった。

 9時を過ぎると、電話の頻度が上がった。朔夜が受話器を置いた瞬間に次の電話を取り、それが終わる前にメモを走らせ、席を立って書棚から資料を引き抜き、また座る。その一連の動作に、無駄が一つもなかった。

「……社長って、いつもこんな感じなんですか」

 思わず、黒服に囁いた。

「比較的、穏やかな朝でございます」

 蛍は画面に目を戻した。

 9時半を過ぎた頃、朔夜が初めて電話から手を離した。ジャケットの襟を正し、デスク上の書類を数枚、手に取る。

「来客だ。応接室に通してある」

 蛍には振り返らず、ドアへ向かいながら付け足した。

「……同席しろ」

「え、わたしが?」

「ああ」

 朔夜は足を止めなかった。廊下に出てから、肩越しに言葉を投げた。

「秘書が応接に顔を出すのは当然のことだ。俺の隣に座って議事録を取れ。やり方は黒服に聞け」

「ぎじろく……?」

 黒服が、素早く蛍の横に並び耳打ちした。

「会議の内容を記録したものでございます。会話内容を順番に打ち込んでいただければ結構です。テンプレートはパソコンに入っておりますので、後ほどご案内いたします」

「……わ、分かりました」

 分かっていなかった。けれど、頷くしかなかった。

 応接室の前に着くと、扉の向こうからすでに人の気配がした。

「……蛍」

 朔夜は蛍に一枚の小さな紙を渡した。

「名刺だ。急遽作った。相手が挨拶したら真似して渡すんだ」

 蛍はノートパソコンを抱えたまま、名刺を受け取った。『黒崎グループ 社長秘書 黒崎蛍』と書かれてある。

 その名刺を見た蛍は、ごくりと唾を飲んだ。

「……相手を待たせてある。もう行くぞ」

 蛍は朔夜の半歩後ろに立った。扉が開く直前、朔夜がほんの一瞬だけ蛍の方を見た。確認するような、それだけの一瞥だった。

 ――大丈夫か、と言いたかったのかもしれない。

 言葉にはならなかったが。


 朔夜が応接室のドアを開けた。

 広い室内の中央に置かれた革張りのソファ、その片側に、一人の男が座っていた。50代半ばの痩身の男。テーブルの上には既に茶が出されていたが、手をつけた形跡はなかった。

 男はすぐに立ち上がった。

「やあ、黒崎君。お忙しいところ、時間をいただいて恐縮です」

 穏やかな声だった。商談の前とは思えないほど、柔らかい笑みだった。

「こちらこそ。どうぞ、お掛けください」

 朔夜が対面に座り、蛍に目で隣を示した。座れ、という意味だ。来客の男性の視線が一瞬、蛍へ流れた。

「おや。新しい秘書さんですか?」

「はい。今日から入りました」

「これはこれは……。初めまして。御影グループ代表の、御影聖治と申します」

 御影聖治と名乗った男は名刺を取り出し、蛍に差し出した。

「あ……えっと、黒崎蛍です……」

 蛍は見よう見まねで、名刺を差し出した。お互い、名刺を受け取る。

「ふふっ。随分と若くて初々しい秘書さんだ。まあそれは置いといて――」

 御影社長はすぐに鞄から資料を取り出した。

 空気が、一段、張り詰めた。

「早速ですが、黒崎君。先日ご提案いただいた医療物資の共同調達で――」

 御影社長と朔夜が真剣な顔つきで本題に入った。黒服は蛍の肩を叩き、議事録を取るように促す。蛍は慌ててノートパソコンを開いてテンプレートに二人の会話を入力していく。

「御影さんのところは、現場の人手不足が深刻だと伺っています」

「ええ。派遣で補おうにも、人件費がかさむ一方で、現場の質は上がらない。……悩みの種ですよ」

「人件費そのものは、我々にはどうにもできません。ですが、物資の調達や輸送にかかるコストであれば、黒崎の物流網を使えば、御影さんの負担を減らせるかもしれません。例えば――」

 御影社長が目を細めて、資料に視線を落とした。

 蛍は、よく分からないまま、会話をパソコンに打ち込もうとした。しかし、二人の話す速度が、タイピングの速度を上回っていた。「医療物資、共同調達」まで打ったところで、話はすでに次の論点に移っている。

「……コスト削減はどの程度で?」

「現行比で8パーセント。共同調達で単価も下がりますので、御影側のトータルでは12パーセント減の試算です」

「なるほど、さすが黒崎君。……数字の組み立てが綺麗だ。ただ、その8パーセントの負担をどちらが持つかは、まだ詰めが必要ですね」

「折半を基本に、四半期ごとの実績で調整します。固定費にせず、実態に合わせて動かせる方が、双方にとってリスクが小さいかと」

「……一理ある」

 蛍の画面は、打ちかけの文字で埋まっていた。早すぎる会話についていけず、議事録の文章は途中で途切れていた。数字の羅列が、頭の上を飛び越えていく。

 その時、背後から音もなく黒服が近づき、蛍の膝の横に、小さなメモをそっと滑らせた。要点が、箇条書きで簡潔にまとめられている。隅に小さく、「ご安心ください。入力できない部分は後で補足します」と添えられていた。

 交渉は、40分ほど続いた。両者とも一歩も退かず、時には鋭く、時には笑いを交えながら議論する二人を、蛍は圧倒されながら見ていた。やがて双方が落としどころを見つけたらしく、空気がふっと緩んだ。

 御影社長が、右手を差し出した。

「では、次回もよろしくお願いいたします」

「……ええ、こちらこそ」

 握手を交わし、御影社長が応接室を辞した。扉が閉まった瞬間、室内の空気が一段ほどける。

 朔夜は書類を手に取りながら、蛍に目を向けた。

「……議事録は、書けたか」

「……半分くらい、です」

 朔夜は蛍のパソコンの画面を覗いた。

「……三分の一くらいじゃないのか?」

 見え透いた嘘を見抜かれて、蛍は気恥ずかしさに、顔を赤らめて俯いた。

「会話が早くて……」

「……御影社長は頭の切れる人で、無駄話も少ない。だから余計に会話の展開が早かっただろう。まあ、初日にしては……悪くない」

 朔夜は黒服に目配せして議事録を仕上げるよう指示すると、立ち上がってドアへ向かった。廊下に出た瞬間には、もう携帯を耳に当てている。

 蛍は打ちかけの議事録を眺めながら、小さく息を吐いた。

 ――この人は毎日この仕事量を、それからさっきみたいな会議を毎日しているのか。

 夕食を共にするようになり少し近づけたかと思えば、急に遠い人間のように思えた。

 この男の社長秘書が自分に務まるのか。不安と、議事録を打ちきれなかった悔しさが、胸に残った。


 ◇


 翌日から、夕方の時間が変わった。

 朔夜が、いつもより早く仕事を切り上げる日が、ぽつぽつと現れた。デスクのパソコンを閉じると、代わりに一冊のテキストと、手書きのレジュメを取り出す。

「座れ」

 有無を言わせぬ一言だった。朔夜はテキストとレジュメを手に立ち上がると、部屋の中央のソファに腰を下ろし、向かいの席を顎で示した。

 蛍が座ると、ローテーブルの上にレジュメが一枚、滑らされてきた。

「簿記の基礎だ。損益計算書の構造くらいは頭に入れておけ」

 蛍は露骨に嫌そうな顔をした。しかし朔夜はそんな反応を予想していたかのように、表情ひとつ変えなかった。

「秘書が財務の数字を読めないと、俺が困る」

 あくまで、自分のため。そう言い切る朔夜のレジュメを、蛍はしぶしぶ手に取った。

 ――……あれ。

 思っていたより、読みやすかった。市販のテキストには載っていない平易な言葉で、単語の意味が噛み砕かれている。いつ用意したのか、書き込みは細かく、丁寧だった。

「……損益計算書というのは、健康診断書みたいなものだ。一年間、体がどう動いたか。何を食べて、どれだけ消費したか。それが数字で出る。黒字なら健康、赤字なら要治療だ」

「……うん」

「まず、収益と費用の違いからだ。収益は入ってくるもの、費用は出ていくもの。ここまではいいか」

「……はい」

「だが『資産』と『負債』は違う。前者は持っているもの、後者は払わなければならないものだ」

 資産と負債。持っているものと、払わなければならないもの。数字の羅列ではなく、言葉の対比として示されると、感覚的に掴みやすかった。蛍は、レジュメの余白にメモを走らせ始めた。

「例えば、100万円の現金を持っていたとする。これは『資産』だ。次に、まだ払っていない請求が50万円分あるとする。これは『負債』。いずれ払わなければならない。そして、この資産から負債を引いたものが――」

 その時、朔夜のスマートフォンが震えた。

 画面を一瞥して、出る。会話は短かった。二言三言で用件を把握し、指示を出して、切る。

「――『純資産』になる。持っているものから払うものを引いた50万。本当の意味での手持ちだ」

 中断したことを、一切気にしていない口ぶりだった。ただ、戻る前に、蛍のメモをちらりと確認している。聞いていなかった部分を、即座に補完していた。

「ここまではいいか」

「……はい」

「では次は、キャッシュフローだ。実際に手元で動いている金の流れのことを言う」

 再び電話が鳴った。今度は受話口から怒声が漏れるほどの剣幕だった。朔夜の目が一瞬だけ細くなる。しかし声色は変わらなかった。

「……落ち着いてください。感情論では、判断材料になりません」

 短く切った。

 何事もなかったかのように、蛍の方を向く。

「……どこまで話した」

「キャッシュフローのところです」

「ああ」

 説明が再開された。

 電話は、その後も二度割り込んできた。そのたびに朔夜は短く処理して、戻ってきた。中断しても、どこで止まったかを毎回把握していた。蛍のメモを一瞥するだけで、すぐ続きから始められる。

 仕事をしながら教えて、電話を捌いてまた戻ってくる。しかもそのどれも雑にならない。

 1時間ほど経った頃、朔夜がテキストを閉じた。

「今日はここまでだ。明日、復習の問題を出す」

「ええ!?」

「やって損はない」

 蛍はその晩、夕食を食べながらテキストにかじりついていた。行儀が悪いとリコに注意されていたが、テストがかかっている、と必死でリコを説得した。朔夜は何も言わずその様子を眺め、藤堂が苦笑しながらリコへ見逃してください、と頼んでいた。リコは少し怒りつつも、自分から何か頑張り始めた蛍と、穏やかな目で妹を見つめる朔夜を見て、思わず微笑んでいた。

 ――翌日、復習問題を6割正解した時、朔夜が「悪くない」とだけ言って、次のページを開いた。

 その一言が、少しだけ悔しかった。

「……そういえば、学校の課題は、進んでいるか」

 ページをめくりながら、朔夜が言った。

「……数学が、ちょっと」

「持ってこい。ついでに見る」

 それから、簿記のレジュメの横に、通信制の課題が並ぶようになった。


 ◇


 2週間が経った頃には、状況は様変わりしていた。

 朝のメール処理は独力でこなせるようになり、議事録の完成度も日に日に上がっていった。簿記の問題集も、6割ほどだった正解率が、今では7割を超えている。

 その夜も、ダイニングで、いつものように問題を出していた。キャッシュフローの応用問題。蛍が解き終えると、朔夜は黙って答案用紙を見て、ペンを走らせた。

「……全問、正解だ」

「ほんとに?」

「ああ」

 朔夜は問題集をぱたりと閉じて、採点済みの答案用紙を蛍に渡した。それから、ふっと息を吐いた。蛍は満点の赤丸を見つめながら、無邪気な顔で喜んでいた。

「……よくやった」

 朔夜が短く、褒めた。褒められ慣れていない蛍は、目を丸くして朔夜を見つめる。その視線に気づいた朔夜は、一瞬だけ動きを止めた。それから何でもないように、問題集のページをめくり始めた。

「……何を見ている。次の問題を解くぞ」


 ◇


 翌日の昼下がり。社長室の前の廊下で、書類を抱えた黒服二人が、ひそひそと囁き合っていた。

「……鹿島、見たか? 昨日の夜」

 一人の黒服が、声を潜めた。

「見た見た」

 鹿島と呼ばれた黒服が、深く頷く。

 二人は昨夜、たまたま黒崎邸の見回りで廊下を通りがかったところ、ドアの開いていたダイニングの中の光景を目にしていたのだった。

「……あの社長が。会議では一言も無駄にしない、あの黒崎朔夜が! 蛍様を褒めていらした!」

「馬場、声がでかい。もう少し押さえろ……!」

「はっ……!!」

 馬場と呼ばれた黒服は、とっさに口を両手で押さえた。

「すまん。つい興奮してしまった……」

「気持ちはわかる」

 鹿島は、しみじみと言った。

「社長のあんな顔は、初めて見た。……人間だったんだな、あの方も」

「妹というのは、やはり特別なんだろうな」

 その時、社長室の扉が、静かに開いた。

「……お前たち」

 朔夜が立っていた。いつから聞いていたのか、無表情のまま二人を見ていた。

 二人は、反射的に背筋を伸ばした。

「「しっ、失礼いたしました!!」」

 朔夜は何も言わなかった。ただ一拍の沈黙の後、書類を一枚、馬場に押し付けた。

「……これを経理に届けろ」

「は、はい」

「鹿島。お前は来客の車の手配をしろ」

「かしこまりました」

 それだけ言って、朔夜は社長室に戻った。扉が静かに閉まる。

 廊下に残された二人は、しばらく顔を見合わせた。

「……聞かれてたのか」

「……聞かれてたな」

「怒ってたか?」

「……耳が、赤かった」

 二人はそれきり黙って、それぞれの仕事に向かった。口元だけが、どうしても緩んだままだった。


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