エントランスでの挨拶
黒崎ビルに出入りし始めて、三ヶ月が経った頃だった。
蛍は、財界の知識と秘書の業務を、少しずつ覚えてきた。この財界には、いくつかの大きな名前がある。医療系の御影。文化財保護の九条。政財界に強い烏丸。貿易・卸が主の南雲。そして、不動産開発の赤城——。朔夜の説明や経済ニュースでしか聞かない名前だったが、ほんの少しずつ、この世界の輪郭を掴み始めていた。
◇
秘書としての業務も、板に付いてきた。朝のメール処理、議事録作成のほか、来客時のお茶出しや応接室の準備、朔夜のスケジュール調整、出張の手配まで、少しずつ任される仕事が増えていった。
けれど、「黒崎蛍」という存在は、社内ではまだ異物に近かった。黒服たちは蛍を「黒崎朔夜の妹」という記号として認識しているが、一般社員たちは遠巻きにちらちらと視線を送る程度で、蛍が何者であるか、正しく知られていなかった。
ある朝、コーヒーを淹れていた蛍に、朔夜が書類から目を上げずに言った。
「ここの従業員に、お前が何者であるか知られていないのは問題だ」
それだけ言って、カップを受け取る。
「ちょうど年度替わりの時期だ。とりあえず一ヶ月ほど、毎日朝夕、ビルのエントランス、セキュリティゲート付近に立って挨拶しろ。社員にも黒服にも、清掃スタッフに至るまで全員にだ」
「……全員に?」
「君の肩書は社長秘書だ。俺の代わりに内線電話や書類の授受などの業務を行う上で、顔や名前が知られていないのは、お互いやりにくいはずだ。まずは顔を覚えてもらえ」
言い方は事務的だった。けれど最後に、声のトーンがほんの少し、変わった。
「……それに、君が元気に挨拶している姿を見れば、少しは空気が柔らかくなる」
本人は気づいていないだろう。その一言だけが、命令ではなく、何か別のものの響きをしていた。
◇
翌朝から、蛍はエントランスに立った。『黒崎グループ 社長秘書 黒崎蛍』と書かれた名札をぶら下げて、緊張しながらも、声を出す。
「おはようございます」
最初の一声は、ほとんど誰にも届かなかった。社員たちは目を逸らし、足を速めた。見たことあるような、といった顔で蛍を横目に通り過ぎる者、鬱陶しそうに無視する者がほとんどで、軽く会釈をする者が数人いただけだった。警備員の老人と清掃のおばちゃんだけが、唯一挨拶を返してくれた。
二日目。
「おはようございます」
経理部の若手が数人、ぎこちなく頷いた。それだけだった。
三日目の朝、経営企画部の男三人組が出勤してきた。
「あっ。あんた。黒崎社長の妹だろ。一人で挨拶してるの? 偉いじゃん」
茶髪の軽そうな男が、大袈裟に拍手した。ぱんぱん、と乾いた音がロビーに響く。
値踏みしているような、見下しているような目つき。にやついた口元。それを見た瞬間、蛍の体は強張った。かつて朝霧町で揶揄ってきた同級生たちと同じ表情や空気感だった。一気に冷や汗が噴き出す。
「……おはようございます」
蛍から笑顔は消えていた。硬い表情のまま、挨拶をする。
蛍の警戒している顔を見て、茶髪男は面白そうに口角を上げた。後ろにいた仲間の二人も笑みを浮かべている。
「ねえねえ、ちょっと聞いていい?」
スーツをだらしなく着崩している男と、ピンクのシャツを着た派手な男が、ニヤニヤしながら進路を塞ぐように蛍を囲んだ。
「社長秘書ってさ、具体的に何してんの? お茶汲み? 肩揉み?」
「まさか夜のお世話とか?」
だらしない男が囁くと、三人が「ぎゃはは」と下品な笑い声を上げた。それに釣られて周りにいた社員もこっそりと笑う。
就業開始の鐘が鳴る。男たちは笑いを引きずりながら、エレベーターに消えていった。
蛍は、拳を握ったまま、次の社員に向き直った。
「……おはようございます」
声が少し震えていた。
四日目も五日目も、男三人組は通りがかるたびに何か言った。蛍は毎回、なるべく笑顔を作って挨拶を返すようにした。言いたいことはあったが、言い返さずに我慢した。泣かなかった。その場を離れなかった。
◇
一週間後に変化はあった。
経理部の若手が、自発的に「おはようございます」と声をかけてきた。夕方、その総務部の社員がお茶の缶を一本、差し出した。
「……お疲れ様。頑張ってるね」
それだけ言って、足早に去っていく。蛍は、缶を両手で持って、少しの間、その背中を見ていた。
その他にも、挨拶や簡単な差し入れをしてくれる社員が何人かいた。
日に日に挨拶を返してくれる社員が増えていく一方で、経営企画部の三人を見て、便乗して揶揄う社員も増えてきた。自分より若いくせに秘書という立場が面白くないのか、蛍にちょっかいを出したり、無視したりする社員もいる。
「あれ?無視されてんのにまだ挨拶してんの?健気だねー」
「というか、鬱陶しいからやめてほしいんだけど」
「今日も社長のお世話するの?それとも君がお世話されてるの?」
ゲートを通過するついで感覚で、吐き捨てる社員を見つめながら、蛍は唇を噛み締めていた。
二週間がたった。その夕方。退勤ラッシュのピーク。エントランスが人でごった返す中、経営企画部の例の三人組が出てきた。
「毎日いるな~あんた」
三人が相変わらず嫌な笑みを浮かべながら蛍に近づく。と、ピンクシャツの派手男が首から下げられた名札を見ながら、くすりと笑った。
「てかさ、『蛍』って名前、古臭くね?」
だらしない男も便乗する。
「虫の名前じゃん!なんかかわいそ~」
茶髪男が続ける。
「蛍ってあの黒い虫だろ。家に居候してる、みんなが嫌いなアレに似てるやつだろ」
『黒い虫』という単語に、蛍の体は硬直した。頭の中で、昔言われた『黒虫』や『害虫』などのあだ名が蘇る。
「うわっ、キモ!」
「害虫さん、綺麗な黒崎ビルに居候してもらったら困りますよ~。害虫駆除掃除発注しとこうぜ、『社長』に」
男たちは声を荒げて笑った。『社長』という単語が聞こえた瞬間、蛍はハッと顔を上げた。蛍は今日まで言い返さずに耐えてきたが、自分以外の、しかも兄である朔夜のことを、この人たちは馬鹿にしようとしている。
「あの……」
無意識に口が開いていた。笑っていた男たちがぴくっと反応して蛍を見た。
「わたしのことは、もういいですけど……兄の——社長のことを弄るのは、やめてください」
「あ?」
蛍は男三人を睨んだ。
「うわ、何その目。生意気なんだけど」
「でもちょっと涙目じゃん。虫でも泣くんだ?」
「なにお兄ちゃんかばってるの?あ、そうか、お兄ちゃんの家にも居候してるもんな?」
「害虫飼ってる社長とかヤバすぎだろ!」
「やめて‼」
蛍は思わず茶髪男のシャツを掴んだ。
「うわ、汚ねえ‼」
男は咄嗟に蛍の手を掴んで振りほどく。
「害虫が‼触んなよ‼」
「——っ」
蛍はその場から逃げ出した。男たちは泣いて逃げた蛍を見て満足したのか、下品に笑いながら黒崎ビルを後にした。
◇
蛍が逃げたのは一階奥にある化粧室だった。鏡の前に映っていたのはひどい顔だった。目の縁は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。
蛍は洗面台の水を出して、まだ止まり切っていない涙を手で擦った。
——知らなかった。
今まで、自分が『害虫』と呼ばれて、虐められて、揶揄われることには、慣れているつもりだった。
でも。
朔夜のことは、やっと兄と呼べる仲になったばかりだ。一緒に暮らして、半年ちょっと。家族と呼ぶのは、まだ難しい。
それでも——夕飯を共にし、忙しい仕事の合間を縫って、経営の勉強を教えてくれた朔夜のことを悪く言われるのは、自分のことを言われるよりも、ずっと胸が痛かった。
自分以外の誰かが、馬鹿にされる。侮辱される。
これが、こんなに苦しいことだなんて、知らなかった。
蛇口から流れ出る水を見つめていると、不意に後ろから声がかかった。
「あら、こんなところでどうしたんだい?」
振り返ると、モップを抱えた小柄な女性が、化粧室入口に立っていた。五十代半ば、白髪混じりの髪をお団子にまとめ、エプロンにはシミがいくつもついている。エプロンの胸ポケットに「おタキ」と手書きで書かれた名札が付けてあった。
「あんた、社長の……。というか、その顔、酷いじゃないの!」
おタキは手に持ったモップをロッカーに仕舞い、蛍に駆け寄った。
「ここじゃなんだ。ロビー行こ。もうみんな帰って誰もいないからね」
◇
蛍とおタキはロビーの隅にあるソファに座った。
「あんた、毎日偉いよねぇ」
おタキは目を細めながら、しみじみと言った。それからポケットをごそごそして飴玉を取り出す。苺味だ。甘いものを食べるとホッとするから舐めてみて、と差し出され、蛍は飴玉を口に含んだ。……ほんのり甘酸っぱい。それを見ておタキも飴玉を口に入れる。
「毎日朝夕、欠かさず挨拶してるでしょ?」
蛍はおタキの顔をまじまじと見て、名札を確認してから名前を呼んだ。
「おタキさん、も。毎日挨拶してくれて、ありがとうございます。わたしが今日まで頑張れたのは、おタキさんたちが、挨拶してくれたお陰です」
「当たり前さね。若い、それも社長秘書が挨拶してるんだから」
蛍は俯いた。
「でも、もうちょっと……やめたくなってきました……」
「……なんでだい?」
おタキは落ち着いた声で聞いてきた。リコと同じような、無理強いをしない、安心感のある女性だった。
蛍はぽつぽつと話し出した。おタキのように挨拶をしてくれる人がいる一方で、揶揄ってくる社員もいて、それで泣いて化粧室に逃げてしまったことを。『蛍』という名前から、虫など言われて昔揶揄われたことを思い出したことを。朔夜が馬鹿にされたことを。
おタキは、うんうん、と静かに聞いていた。
「気にすることないよ。あたしなんかよく『どけババア』って言われてるさ」
「えっ⁉」
「掃除しかできないもんだからさ。ここの社員からは見下されているもんだよ」
おタキは何ともないように笑った。
「あなたはまだ若いから、誰の言うことも素直に受け取ってしまって傷付いているのね。年を取るとね、『ババア』と言われても、それももうどうでもよくなるのよ。あなたのことを知りもしない人の言うことなんか、価値がないから聞かなくていい。今は難しいかもしれないけど、あなたを大事にしてくれる人の言葉だけ受け取っていればいいよ」
蛍は俯いたまま、小さく頷いた。おタキの言葉が、じんわりと胸に染みていった。
おタキは、しばらく黙って蛍を見ていたが、ふと何かを思い出したように目を細めた。
「……社長も昔、挨拶してたね」
「え?」
「あなたの挨拶してる姿見てたらさ、昔の社長がそこで挨拶してたの、思い出しちゃったよ」
蛍が、きょとんとした。
「朔夜社長。あの子がここに来て最初の頃もね、あなたみたいにそこのエントランスに立って挨拶してたの。まだ高校生くらいの時よ。ぺこぺこ頭下げてさ」
おタキの目が、遠くなった。
「そりゃもう酷いもんだったよ。会長の子だから後に社長になるのは仕方がないことなのに、コネだの贔屓だのってね。みんな無視したり、何しに来たって陰口叩いたり。あたしなんか最初、社長だって知らなくて『あらボク、迷子?』って声かけちゃったもん」
けらけらと笑ってから、続けた。
「……あの子もねぇ、挫けそうだったの。ある夜、あたしがロビー掃除してたら、社長がちょうどこのソファに座っててね。今のあなたとおんなじ状況さ。で、声かけてみたらぼそっと言ったの。『意味ないな、こんなこと』って」
蛍は、息を呑んだ。
「そん時あたし言ったの。人の上に立つ人間が、先に頭下げて見せてやるのも大事だって。そうすることで、下の人間も挨拶するようになるかもしれないでしょ、って」
おタキは、しわだらけの手を重ねた。
「そしたらあの子、ちょっと黙って考えて、それから『そうですね。もうちょっと頑張ってみます』って。たった一言だったけど、次の日からも辞めずに続けてたのよ」
蛍はしばらく、その言葉を噛みしめていた。
——あの冷静で弱音を吐かなさそうな兄さんも、挫けそうな時があったんだ。
「だからあなたもさ、もう少しやってみなよ。しんどくなったら、またあたしに愚痴ったらいいからさ」
おタキはウインクした。
「その話を聞いて、しんどいのは自分だけじゃなかったと知って、頑張れそうな気がします。おタキさん、ありがとうございます」
蛍は頭を下げてお礼を言った。それから蛍も思い出したように、「そういえば……」と続けた。
「さっきの揶揄ってきた営業企画の人が、黒崎ビルは綺麗で、害虫はいない、と。おタキさんが、毎日掃除をしてくれているお陰だったんですね。なのに、社員の人たちは馬鹿にするなんて……」
「いいさ。それにあなたの話を聞いて、まだ掃除のし甲斐があるってわかったからね……」
おタキの口元がにやりと笑った。ちょうど、苺の飴玉が融けきった頃だった。
◇
翌朝からも、蛍はエントランスに立った。
挨拶を返してくれる社員がいる中、例の経営企画の三人組が姿を現した。
昨夕、泣いて逃げたからもういないだろうと思っていた蛍が、まだエントランスに立ち挨拶している姿を見て、顔がやや引きつった。
「まだいるのかよ、害虫さん」
「おはようございます!」
蛍はようやく、彼らに笑って挨拶した。
「ほんとあんた、あの害虫みたいにしぶといな」
三人組が立ち止まって蛍を見下ろしていると、男たちの背後からおタキの声がした。
「のいてのいて!掃除するよ!」
男たちは少し蛍から離れながら「うるさいババアだな」と吐き捨てる。
「誰がババアだって?あっ、虫!」
おタキが手に持っていた缶のスプレーを三人組に吹きかけた。
「ゲホッ⁉くそババア‼」
「な、なにしやがる‼」
「——掃除さ!害虫駆除だよ!」
その様子を見た周りの社員がどっと笑った。
「おタキさん、それ人にかけても大丈夫なんですか?」
「あなた、こんな奴ら心配するのかね?まあこれ無害なやつだからちょっとくらい平気さ」
「ふざけるなよババア‼スーツが白くなったじゃねえか‼」
派手な男がスーツをはたきながら声を上げる。
「より派手になって、よかったじゃないですか」
蛍は笑みを浮かべていた。周りの社員は、声を荒げる三人組を面白げに見ながら、セキュリティゲートを通過していく。
男たちは赤面しながら、そそくさとゲートを通って行った。
蛍は三人組に、いってらっしゃいと手を振った。
◇
挨拶を開始してから、一ヶ月が経った。
半分ほどの社員とは、挨拶が返ってくるようになっていた。どうしても良く思わない者は、いつまでも目を逸らした。それでも、確実に空気は変わっていた。
ある夕方、朔夜が書類を片付けながら蛍に声をかけた。
「……そろそろいいだろう」
「え?」
「顔は覚えてもらった。もう毎日立ち続ける必要はない」
蛍は少しの間、黙っていた。
「……もう少し、続けていいですか?」
朔夜は、何も言わなかった。ただ、かすかに目を細めた。
それが、了承の意味だと、もう分かるようになっていた。
蛍はそれを見てにっこりと笑った。
「ありがとうございます。社長、本日もお疲れさまでした」




