作戦会議(前編)
微睡の中で、蛍は陽人と別れた夜の夢を見ていた。
「……蛍。サイドミラー見て」
陽人は車を走らせながら、蛍にそう促した。
数台後ろに、黒い車が一台。ついてきている。
裏道に入り、角を二つ曲がる。ミラーから、黒い車が消えた。
細い路地の奥で、車が止まる。陽人はバックミラーを覗き、苦笑した。
「……僕って、目立つんだよね?」
その一言で、蛍は何を言おうとしているのか、何となく察した。
「……だめ」
「蛍」
「いやだよ。せっかく会えたのに!」
声が震える。
「……だからだよ。何のために、君はここまで来たの?」
陽人の声は穏やかだった。
「君には、すべきことがあるだろ?」
「……でも」
「蛍」
陽人はシートベルトを外し、身体ごと蛍の方へ向き直った。
「この先の坂を下りたところに、閉まった酒屋がある。その前で、律さんが待ってる」
「……律さんが?」
「詳しいことは、律さんから聞いて。……僕がこのまま走れば、あっちは必ず追ってくる。その間に、蛍は東京へ行くんだ」
「陽人くんは、どうするの」
「逃げ切ってみせるよ。それから、追いかける」
目の奥が熱くなった。
「……そんな顔しないで」
陽人の目が、まっすぐにこちらへ向けられていた。
「……僕たち、これまで偶然出会って、そのたび別れがあった」
蛍が顔を上げる。
「それでも、また再会できた。……何度別れたとしても、また会えるよ」
陽人の手が伸びて、紅い眼鏡がそっと外された。縁のなくなった視界に、陽人の顔があった。
その手が、頬に触れた。蛍は思わず目を固く瞑った。
「……」
やがて、耳に細い縁が掛けられる感触がした。
「……どう? 目立つ?」
目を開けると、紅い眼鏡を掛けた陽人が、笑っていた。
「……似合ってる」
視界が滲む。
「……似合ってる、よ」
蒼い縁を少し持ち上げて、目元を拭う。もう一度見上げる。
「……必ず、返すから」
陽人は頷いた。
「うん。僕も、返すよ」
キャップのつばを、指先で直された。
蛍は助手席のドアを開けた。冷たい夜気が、足元から入り込んでくる。
一度だけ、振り返った。
「――必ず、また会おう」
◇
翌朝。蛍はゆっくりと目を開けた。薄暗い天井が、ぼんやりと視界に入る。身体を起こすと、肩に掛かっていた毛布がずり落ちた。
鼻の上で、眼鏡が傾いている。
指で押し上げて、そのまま縁に触れた。自分のものではない、蒼い縁。
「……返さなきゃ」
声に出すと、喉の奥が少しだけ痛んだ。
あの後、陽人がどうなったのかは分からない。逃げ切れたのか。どこかで、まだ車を走らせているのか。確かめる術は、今の蛍には一つもなかった。
「起きた?」
カウンターの奥から、艶のある声がした。
湯気の立つカップを二つ手にして、リリィがこちらへ歩いてくる。化粧は昨夜のままで、目の下にだけ薄く疲れが滲んでいた。あれから眠っていないのかもしれない。
「……おはようございます」
「おはよう。もうお昼前だけどね」
差し出されたカップを、両手で受け取る。かじかんだ指先に、熱がじわりと染みていく。
一口すすると、苦みの奥にほのかな甘さがあった。
「……美味しい」
「でしょ。疲れてる子のには、お砂糖をちょっとだけ入れるの」
リリィは向かいのソファに腰を下ろし、脚を組んだ。
「メリークリスマス、って言うには遅かったかしら」
「……あ」
今日は、二十五日だった。
昨日の街の灯りが、ずいぶん遠くの出来事のように思える。
◇
「あなたが寝てる間に、リコ姐と話したわ」
蛍は背筋を伸ばした。
「聞かせてください」
「まずは、朔夜ちゃんのことね」
カップを包む指に、力がこもる。
「黒崎ビルの秘書室に、閉じ込められたまま。扉の前には黒服。社長のお仕事からは外されてて、会社は会長さんが動かしてるそうよ」
「……秘書室」
自分の机があった部屋だ。あの狭い窓際に、今は兄がいる。
「あなたが死んだって聞かされてからは、ずっと食べてないそうよ。黒服が無理やり口に運んでいるって」
息が詰まった。
膝の上で、カップの中のコーヒーが揺れる。
「朔夜ちゃんの情報はここまでね。で、会社の方なんだけど……」
少し間を置いてから、リリィが続ける。
「リコ姐の話だと、会社じゃ、あなたは自主退職したことになってるそうよ。疑問に思った下の子たちが上に聞いても、なぜ辞めたのかは知らないって。……それでも、変わらず仕事は回してるみたい」
自分から、辞めた。
秘書室に閉じ込められ、黒服に挟まれて正面玄関を出たあの朝が、そういうことにされていた。
蛍はカップを置いた。
「……リリィさん」
「なあに」
「人を、集めたいです」
リリィの眉が、わずかに上がる。
「協力してくれる人が、欲しくて……」
協力してくれそうな人。そして顔が広い。蛍はあの関西弁の男を思い浮かべた。
「例えば、広報の神代さんってわかりますか? 前にここで打ち上げをした時にいた関西弁の……」
「ああ、あのよく喋る坊や」
リリィは心得たようにカウンターへ戻り、引き出しから名刺の束を取り出した。指で一枚ずつ繰っていく。
「あ、貰ってたわ」
名刺を見ながら、電話を掛ける。「会わせたい子がいる」と伝えて、電話を切った。
「来るって。年末の挨拶回りの途中らしいけど」
「……そんな、お仕事中に」
「いいのよ。ああいう子は、面白そうな匂いがすれば勝手に飛んでくるんだから」
◇
扉が開いたのは、二時間ほど経った頃だった。
冷たい外気と一緒に、マフラーを巻いた男が駆け込んできた。息が上がっている。階段を二段飛ばしで下りてきたらしい。
「リリィさん、会わせたい子て誰――」
店の奥のソファに目を留めて、神代の足が止まった。
短い髪。飾り気のない服。テーブルには、蒼い縁の眼鏡とキャップが置いてある。
神代はしばらく、瞬きもせずにこちらを見ていた。
「……蛍ちゃん、か?」
「ご無沙汰しています、神代さん」
蛍は立ち上がり、頭を下げた。
神代は大股で歩み寄ってくると、蛍の両肩を掴んだ。確かめるように、顔を覗き込む。
「黒崎、辞めたて聞いて……携帯も繋がらんし、社長さんも出えへんし。何がどうなっとるんか、さっぱりで」
「……すみません。色々、ありまして」
「色々て」
神代の手から、ゆっくりと力が抜けた。そのまま、肩を離す。
蛍は話せる範囲で神代に説明し始めた。
◇
神代は、途中で一度も口を挟まなかった。
不正の濡れ衣。懲戒解雇。北へ連れて行かれたこと。そこで、死んだことにされたこと。蛍が話し終えるまで、膝の上で組んだ指を、ほどこうとしなかった。
「……ほんまに、そんなことする会社があるんか」
ようやく漏れた声は、いつもより低かった。
「黒崎の会長さんがえげつないのは、噂で聞いとったけど。……ここまでとはな」
冷めかけたコーヒーを、神代は一息に飲み干した。カップを置く音が、静かな店内にやけに大きく響く。
「神代さん」
蛍はソファの上で、膝に置いた手を握りしめた。
「お願いがあります。……陽人くんと、連絡を取ってもらえませんか」
「あの御影の坊ちゃん?」
「一緒に、ここまで来たんです。途中まで。……私を逃がすために、黒服を引きつけてくれて」
声が細くなる。
「それから、分からないんです」
神代の眉が寄った。すぐさま携帯を取り出し、耳に当てる。
しかし呼び出し音が鳴るばかりで、通話は繋がらなかった。
「メッセージ残しときますわ」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、蛍は自分の指先が冷えていることに気づいた。
震える指を押さえた。
「坊ちゃんのことは、連絡来るまで待っとくとして。蛍ちゃん、あんたこれからどうするつもりや?」
口調は軽い。けれども真剣な目で、神代が蛍を見据える。
「兄さんに、会いに行きます。それから、可能なら、黒崎に戻りたいです」
神代とリリィが目を見開いた。
「蛍ちゃん、待ってや。あんた陥れた会社に戻りたいんか?」
「……はい」
視線を落としながら、続ける。
「陥れられたのは、確かに、そうですが。それだけじゃないです。あの会社は、短くとも朔夜兄さんが経営した会社です。それに、社員の皆さんや黒服さんのことは……全員とは言えないけど、好きですし」
蛍は拳を握り締めた。
「……私の居場所、だったから」
ずっと奪われ続けていた。それは、もう飽きた。
「――取り戻したい。自分と、それから兄さんの居場所を」
蛍は強い目で、神代を見つめ返した。
神代もそらさずに、じっと見る。
「いい目や。……惚れそうや」
「神代さん?」
「いや、冗談ちゃうで? ……居場所を取り返す。非常に面白い展開やないの」
リリィも身を乗り出した。
「熱いわねえ! 囚われの王子様を助けに行くんでしょ?」
「王子? ……兄さんがですか?」
「他に誰がいるのよ」
「他に誰が居るねん」
ほぼ同時に、突っ込みが来た。
「あーあー、君にとっての王子は陽人君やったね?」
「こ、こほん! 神代さん、どうやったら黒崎を取り返せますかね?」
「わかりやすく逸らすなや~」
茶々を入れつつ、三人は考え出した。
「……そうやな。朝霧復興プロジェクトの時の……さっき連絡した陽人君のほかに、綾姉さんに声かけてみましょか」
蛍は頷きつつも、考え込むように黙り込む。
「……何か引っかかりでも?」
「……律さんを、赤城律さんを、呼べないでしょうか?」
「赤城て。その人、朝霧の再開発側やったんとちゃうの?」
「はい。ですが、私がここへ来られたのも、律さんが手伝ってくれたからで……」
「そうやったんか……」
神代はポケットから携帯を半分ほど取り出しかけて、手を止めた。
「ほな、どうやって呼ぶかやな。赤城の会社に電話なんかしたら、会長さんに筒抜けやで」
「……陽人くんなら、律さんの連絡先を知ってると思います」
「なら、坊ちゃん待ちやな」
◇
その日の夜。
「蛍ちゃん。良い情報が入ったわ」
リリィが蛍を呼び出す。
「囚われの王子のことよ。……ご飯を食べたそうよ」
「えっ……」
「いつもほぼ全部残ってたご飯が、半分になってたそうよ。少しは元気が出たのかしら」
蛍の書いたメモが、朔夜に届いたんだろうか。
「……よかった」
「それとね」
リリィが、思い出したように指を立てた。
「お椀の底に、メモが入ってたんですって。『今の黒崎の状況を教えろ』って。リコ姐、ご飯残したことにぷりぷり怒ってたわよ」
蛍は思わず吹き出した。泣き笑いのような声になった。
◇
二日が経った。その間、蛍は何度も陽人のことを気にしていた。
今日は、神代の声掛けで綾が来ることになっていた。
しかし、陽人からの連絡は、いまだに来ていない。
「……陽人くん、大丈夫なんでしょうか」
ノクターンのカウンターで、蛍がぽつりと呟く。
「……そうやな」
神代も、珍しく軽口を挟まなかった。
陽人が蛍を逃がすために、自分から囮になったことは聞いている。
無事なのか。それとも何かあったんだろうか。
そんなことを考えていた時、ノクターンの扉が開いた。
「――蛍ちゃん!」
「綾さん……!」
先に姿を見せたのは、綾だった。
綾は思わず、蛍に抱きつく。
「黒崎からいなくなったって噂で聞いて、心配したのよ!?」
「綾さん……心配かけました」
抱きついた綾の背中を、ゆっくりと撫でる蛍。
「髪も切っちゃって、どうしたの!?」
「色々ありまして……」
蛍は言葉を濁して誤魔化す。
と、その時、神代の携帯が鳴った。
「……ちょっと電話出ますわ」
神代が少し席を外して、電話に出る。
それから二言三言話し、通話は切れた。
「……誰からだったの?」
「陽人君や! 今日の夜、こっち来るみたいや!」
「――!」
蛍は陽人が無事だったことに安堵した。
◇
「……皆さん、遅くなりました!」
頭を下げながら、陽人はノクターンの店に入ってきた。
蛍はソファから立ち上がっていた。何か言おうとして、言葉が喉で詰まる。
陽人の顔に、目立った傷はなかった。紅い縁の眼鏡も、別れた時のままだ。
「……陽人くん」
「心配させて、ごめん」
陽人は眉を下げて笑った。
「黒服たちを、なるべく東京から遠ざけようと思って。引きつけて回ってたら、思ったより時間がかかっちゃった」
「坊ちゃん、ようやるなぁ……」
「神代さん。連絡取れなくてすいませんでした」
「そんなんええねん。……奥さん心配してたで?」
「誰のことです!?」
「まだ結婚してないから!!」
「お、まだってことは予定あんねんな?」
こりゃ楽しみやな、とにやける神代。
陽人は苦笑しながら、入口の方を振り返った。
階段を下りてくる足音がした。煙草の匂いをまとって、律が扉をくぐる。
「……律さん?」
「僕が声をかけたんだ。蛍をここまで連れてきてくれたの、律さんだから」
「坊ちゃんがしつこいんでな」
律は店内の顔ぶれを順に眺めた。綾のところで、視線が一度だけ止まる。
「今夜は犬どもが周年の準備に駆り出されてる。……長居はできねえぞ」
「……律」
最初に口を開いたのは、綾だった。
立ち上がりもせず、膝の上で両手を組んだまま、律を見上げている。
「あなた、あの日言ったわよね。一匹の虫がいなくなった、って」
「ああ。宗玄からは、蛍は自害したと聞かされてた」
律は蛍を一瞥した。
「……実際は、死んだことにされてただけだがな」
「な、なんて会社なの……」
綾が律を見たまま、呻いた。
「……あなたは、どこまで関わってたの」
「役員会の日、朔夜の足を止めた。半日だけな」
それだけだ、と短く言った声に、温度はなかった。
「律さんは、私をここまで送ってくれました」
蛍が言うと、律は何も返さずにカウンターの端に腰を下ろした。
リリィが黙ってコーヒーを置く。律はそれに手をつけなかった。
蛍は立ち上がり、店の中を見渡した。陽人、律、綾、神代、そしてリリィ。
「私、黒崎に戻って、兄さんに会いに行きたいんです」
五人をまっすぐ見て、頭を下げた。
「……皆さんに、協力してほしいんです」
「何を今さら」
真っ先に返したのは、綾だった。
「そのために呼んだんでしょ。断るなら、最初から来てないわよ」
「せやせや。俺なんか、挨拶回りほっぽって来とるんやで」
それを聞いてリリィも頷く。陽人も同じように、ただ蛍を見て笑って頷いた。
蛍は顔を上げた。
皆の視線が、自然とカウンターの端へ集まっていく。
律だけが、手元のカップを見下ろしたままだった。
「……律さん」
「俺は断る」
間を置かずに返ってきた。
「俺がお前やあいつを助ける義理は無い」
律はカップから手を離した。
「届けるまでが俺の仕事だ。その後のことまで、面倒見る気はねえよ」
「律さん。今でも、兄さんの友達ですよね」
「……ふざけんな」
「車の中で、どうして来てくれたのか聞いた時。答えてくれませんでしたよね」
律の眉が、わずかに動いた。
「足止めしたこと。……確かに怒ってますけど、それでも」
蛍は右手を差し出した。
「一緒に、兄さんを助けてください」
律はその手を見た。差し出された指先は、震えていなかった。
壁の時計が、小さく鳴った。
律は手つかずのカップを残して、立ち上がった。
「……時間だ」
扉の前まで歩いて、足を止める。振り返らず、そのまま出て行った。
冷たい外気が一瞬だけ流れ込んだ。階段を上っていく足音が、やがて聞こえなくなる。
蛍は差し出したままの手を、ゆっくりと下ろした。
「……馬鹿ね、ほんと」
綾がぽつりと呟いた。
「でもあの坊や、迷ってたわよ」
手つかずのカップを下げながら、リリィが言う。
「迷ってなきゃ、そもそも来ないもの」
「せや。ほんまに嫌やったら、坊ちゃんに呼ばれたくらいで、のこのこ顔出さへん」
「全く。本当に素直じゃないわね、律」
綾が腕を組んで、閉じた扉を眺めていた。
蛍も、しばらくその扉から目を離せなかった。




