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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
5章 凍てつく冬、導くは聖夜の星
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作戦会議(前編)

 微睡の中で、蛍は陽人と別れた夜の夢を見ていた。

「……蛍。サイドミラー見て」

 陽人は車を走らせながら、蛍にそう促した。

 数台後ろに、黒い車が一台。ついてきている。

 裏道に入り、角を二つ曲がる。ミラーから、黒い車が消えた。

 細い路地の奥で、車が止まる。陽人はバックミラーを覗き、苦笑した。

「……僕って、目立つんだよね?」

 その一言で、蛍は何を言おうとしているのか、何となく察した。

「……だめ」

「蛍」

「いやだよ。せっかく会えたのに!」

 声が震える。

「……だからだよ。何のために、君はここまで来たの?」

 陽人の声は穏やかだった。

「君には、すべきことがあるだろ?」

「……でも」

「蛍」

 陽人はシートベルトを外し、身体ごと蛍の方へ向き直った。

「この先の坂を下りたところに、閉まった酒屋がある。その前で、律さんが待ってる」

「……律さんが?」

「詳しいことは、律さんから聞いて。……僕がこのまま走れば、あっちは必ず追ってくる。その間に、蛍は東京へ行くんだ」

「陽人くんは、どうするの」

「逃げ切ってみせるよ。それから、追いかける」

 目の奥が熱くなった。

「……そんな顔しないで」

 陽人の目が、まっすぐにこちらへ向けられていた。

「……僕たち、これまで偶然出会って、そのたび別れがあった」

 蛍が顔を上げる。

「それでも、また再会できた。……何度別れたとしても、また会えるよ」

 陽人の手が伸びて、紅い眼鏡がそっと外された。縁のなくなった視界に、陽人の顔があった。

 その手が、頬に触れた。蛍は思わず目を固く瞑った。

「……」

 やがて、耳に細い縁が掛けられる感触がした。

「……どう? 目立つ?」

 目を開けると、紅い眼鏡を掛けた陽人が、笑っていた。

「……似合ってる」

 視界が滲む。

「……似合ってる、よ」

 蒼い縁を少し持ち上げて、目元を拭う。もう一度見上げる。

「……必ず、返すから」

 陽人は頷いた。

「うん。僕も、返すよ」

 キャップのつばを、指先で直された。

 蛍は助手席のドアを開けた。冷たい夜気が、足元から入り込んでくる。

 一度だけ、振り返った。

「――必ず、また会おう」


 ◇


 翌朝。蛍はゆっくりと目を開けた。薄暗い天井が、ぼんやりと視界に入る。身体を起こすと、肩に掛かっていた毛布がずり落ちた。

 鼻の上で、眼鏡が傾いている。

 指で押し上げて、そのまま縁に触れた。自分のものではない、蒼い縁。

「……返さなきゃ」

 声に出すと、喉の奥が少しだけ痛んだ。

 あの後、陽人がどうなったのかは分からない。逃げ切れたのか。どこかで、まだ車を走らせているのか。確かめる術は、今の蛍には一つもなかった。

「起きた?」

 カウンターの奥から、艶のある声がした。

 湯気の立つカップを二つ手にして、リリィがこちらへ歩いてくる。化粧は昨夜のままで、目の下にだけ薄く疲れが滲んでいた。あれから眠っていないのかもしれない。

「……おはようございます」

「おはよう。もうお昼前だけどね」

 差し出されたカップを、両手で受け取る。かじかんだ指先に、熱がじわりと染みていく。

 一口すすると、苦みの奥にほのかな甘さがあった。

「……美味しい」

「でしょ。疲れてる子のには、お砂糖をちょっとだけ入れるの」

 リリィは向かいのソファに腰を下ろし、脚を組んだ。

「メリークリスマス、って言うには遅かったかしら」

「……あ」

 今日は、二十五日だった。

 昨日の街の灯りが、ずいぶん遠くの出来事のように思える。


 ◇


「あなたが寝てる間に、リコ姐と話したわ」

 蛍は背筋を伸ばした。

「聞かせてください」

「まずは、朔夜ちゃんのことね」

 カップを包む指に、力がこもる。

「黒崎ビルの秘書室に、閉じ込められたまま。扉の前には黒服。社長のお仕事からは外されてて、会社は会長さんが動かしてるそうよ」

「……秘書室」

 自分の机があった部屋だ。あの狭い窓際に、今は兄がいる。

「あなたが死んだって聞かされてからは、ずっと食べてないそうよ。黒服が無理やり口に運んでいるって」

 息が詰まった。

 膝の上で、カップの中のコーヒーが揺れる。

「朔夜ちゃんの情報はここまでね。で、会社の方なんだけど……」

 少し間を置いてから、リリィが続ける。

「リコ姐の話だと、会社じゃ、あなたは自主退職したことになってるそうよ。疑問に思った下の子たちが上に聞いても、なぜ辞めたのかは知らないって。……それでも、変わらず仕事は回してるみたい」

 自分から、辞めた。

 秘書室に閉じ込められ、黒服に挟まれて正面玄関を出たあの朝が、そういうことにされていた。

 蛍はカップを置いた。

「……リリィさん」

「なあに」

「人を、集めたいです」

 リリィの眉が、わずかに上がる。

「協力してくれる人が、欲しくて……」

 協力してくれそうな人。そして顔が広い。蛍はあの関西弁の男を思い浮かべた。

「例えば、広報の神代さんってわかりますか? 前にここで打ち上げをした時にいた関西弁の……」

「ああ、あのよく喋る坊や」

 リリィは心得たようにカウンターへ戻り、引き出しから名刺の束を取り出した。指で一枚ずつ繰っていく。

「あ、貰ってたわ」

 名刺を見ながら、電話を掛ける。「会わせたい子がいる」と伝えて、電話を切った。

「来るって。年末の挨拶回りの途中らしいけど」

「……そんな、お仕事中に」

「いいのよ。ああいう子は、面白そうな匂いがすれば勝手に飛んでくるんだから」


 ◇


 扉が開いたのは、二時間ほど経った頃だった。

 冷たい外気と一緒に、マフラーを巻いた男が駆け込んできた。息が上がっている。階段を二段飛ばしで下りてきたらしい。

「リリィさん、会わせたい子て誰――」

 店の奥のソファに目を留めて、神代の足が止まった。

 短い髪。飾り気のない服。テーブルには、蒼い縁の眼鏡とキャップが置いてある。

 神代はしばらく、瞬きもせずにこちらを見ていた。

「……蛍ちゃん、か?」

「ご無沙汰しています、神代さん」

 蛍は立ち上がり、頭を下げた。

 神代は大股で歩み寄ってくると、蛍の両肩を掴んだ。確かめるように、顔を覗き込む。

「黒崎、辞めたて聞いて……携帯も繋がらんし、社長さんも出えへんし。何がどうなっとるんか、さっぱりで」

「……すみません。色々、ありまして」

「色々て」

 神代の手から、ゆっくりと力が抜けた。そのまま、肩を離す。

 蛍は話せる範囲で神代に説明し始めた。


 ◇


 神代は、途中で一度も口を挟まなかった。

 不正の濡れ衣。懲戒解雇。北へ連れて行かれたこと。そこで、死んだことにされたこと。蛍が話し終えるまで、膝の上で組んだ指を、ほどこうとしなかった。

「……ほんまに、そんなことする会社があるんか」

 ようやく漏れた声は、いつもより低かった。

「黒崎の会長さんがえげつないのは、噂で聞いとったけど。……ここまでとはな」

 冷めかけたコーヒーを、神代は一息に飲み干した。カップを置く音が、静かな店内にやけに大きく響く。

「神代さん」

 蛍はソファの上で、膝に置いた手を握りしめた。

「お願いがあります。……陽人くんと、連絡を取ってもらえませんか」

「あの御影の坊ちゃん?」

「一緒に、ここまで来たんです。途中まで。……私を逃がすために、黒服を引きつけてくれて」

 声が細くなる。

「それから、分からないんです」

 神代の眉が寄った。すぐさま携帯を取り出し、耳に当てる。

 しかし呼び出し音が鳴るばかりで、通話は繋がらなかった。

「メッセージ残しときますわ」

「……ありがとうございます」

 礼を言いながら、蛍は自分の指先が冷えていることに気づいた。

 震える指を押さえた。

「坊ちゃんのことは、連絡来るまで待っとくとして。蛍ちゃん、あんたこれからどうするつもりや?」

 口調は軽い。けれども真剣な目で、神代が蛍を見据える。

「兄さんに、会いに行きます。それから、可能なら、黒崎に戻りたいです」

 神代とリリィが目を見開いた。

「蛍ちゃん、待ってや。あんた陥れた会社に戻りたいんか?」

「……はい」

 視線を落としながら、続ける。

「陥れられたのは、確かに、そうですが。それだけじゃないです。あの会社は、短くとも朔夜兄さんが経営した会社です。それに、社員の皆さんや黒服さんのことは……全員とは言えないけど、好きですし」

 蛍は拳を握り締めた。

「……私の居場所、だったから」

 ずっと奪われ続けていた。それは、もう飽きた。

「――取り戻したい。自分と、それから兄さんの居場所を」

 蛍は強い目で、神代を見つめ返した。

 神代もそらさずに、じっと見る。

「いい目や。……惚れそうや」

「神代さん?」

「いや、冗談ちゃうで? ……居場所を取り返す。非常に面白い展開やないの」

 リリィも身を乗り出した。

「熱いわねえ! 囚われの王子様を助けに行くんでしょ?」

「王子? ……兄さんがですか?」

「他に誰がいるのよ」

「他に誰が居るねん」

 ほぼ同時に、突っ込みが来た。

「あーあー、君にとっての王子は陽人君やったね?」

「こ、こほん! 神代さん、どうやったら黒崎を取り返せますかね?」

「わかりやすく逸らすなや~」

 茶々を入れつつ、三人は考え出した。

「……そうやな。朝霧復興プロジェクトの時の……さっき連絡した陽人君のほかに、綾姉さんに声かけてみましょか」

 蛍は頷きつつも、考え込むように黙り込む。

「……何か引っかかりでも?」

「……律さんを、赤城律さんを、呼べないでしょうか?」

「赤城て。その人、朝霧の再開発側やったんとちゃうの?」

「はい。ですが、私がここへ来られたのも、律さんが手伝ってくれたからで……」

「そうやったんか……」

 神代はポケットから携帯を半分ほど取り出しかけて、手を止めた。

「ほな、どうやって呼ぶかやな。赤城の会社に電話なんかしたら、会長さんに筒抜けやで」

「……陽人くんなら、律さんの連絡先を知ってると思います」

「なら、坊ちゃん待ちやな」


 ◇


 その日の夜。

「蛍ちゃん。良い情報が入ったわ」

 リリィが蛍を呼び出す。

「囚われの王子のことよ。……ご飯を食べたそうよ」

「えっ……」

「いつもほぼ全部残ってたご飯が、半分になってたそうよ。少しは元気が出たのかしら」

 蛍の書いたメモが、朔夜に届いたんだろうか。

「……よかった」

「それとね」

 リリィが、思い出したように指を立てた。

「お椀の底に、メモが入ってたんですって。『今の黒崎の状況を教えろ』って。リコ姐、ご飯残したことにぷりぷり怒ってたわよ」

 蛍は思わず吹き出した。泣き笑いのような声になった。


 ◇


 二日が経った。その間、蛍は何度も陽人のことを気にしていた。

 今日は、神代の声掛けで綾が来ることになっていた。

 しかし、陽人からの連絡は、いまだに来ていない。

「……陽人くん、大丈夫なんでしょうか」

 ノクターンのカウンターで、蛍がぽつりと呟く。

「……そうやな」

 神代も、珍しく軽口を挟まなかった。

 陽人が蛍を逃がすために、自分から囮になったことは聞いている。

 無事なのか。それとも何かあったんだろうか。

 そんなことを考えていた時、ノクターンの扉が開いた。

「――蛍ちゃん!」

「綾さん……!」

 先に姿を見せたのは、綾だった。

 綾は思わず、蛍に抱きつく。

「黒崎からいなくなったって噂で聞いて、心配したのよ!?」

「綾さん……心配かけました」

 抱きついた綾の背中を、ゆっくりと撫でる蛍。

「髪も切っちゃって、どうしたの!?」

「色々ありまして……」

 蛍は言葉を濁して誤魔化す。

 と、その時、神代の携帯が鳴った。

「……ちょっと電話出ますわ」

 神代が少し席を外して、電話に出る。

 それから二言三言話し、通話は切れた。

「……誰からだったの?」

「陽人君や! 今日の夜、こっち来るみたいや!」

「――!」

 蛍は陽人が無事だったことに安堵した。


 ◇


「……皆さん、遅くなりました!」

 頭を下げながら、陽人はノクターンの店に入ってきた。

 蛍はソファから立ち上がっていた。何か言おうとして、言葉が喉で詰まる。

 陽人の顔に、目立った傷はなかった。紅い縁の眼鏡も、別れた時のままだ。

「……陽人くん」

「心配させて、ごめん」

 陽人は眉を下げて笑った。

「黒服たちを、なるべく東京から遠ざけようと思って。引きつけて回ってたら、思ったより時間がかかっちゃった」

「坊ちゃん、ようやるなぁ……」

「神代さん。連絡取れなくてすいませんでした」

「そんなんええねん。……奥さん心配してたで?」

「誰のことです!?」

「まだ結婚してないから!!」

「お、まだってことは予定あんねんな?」

 こりゃ楽しみやな、とにやける神代。

 陽人は苦笑しながら、入口の方を振り返った。

 階段を下りてくる足音がした。煙草の匂いをまとって、律が扉をくぐる。

「……律さん?」

「僕が声をかけたんだ。蛍をここまで連れてきてくれたの、律さんだから」

「坊ちゃんがしつこいんでな」

 律は店内の顔ぶれを順に眺めた。綾のところで、視線が一度だけ止まる。

「今夜は犬どもが周年の準備に駆り出されてる。……長居はできねえぞ」

「……律」

 最初に口を開いたのは、綾だった。

 立ち上がりもせず、膝の上で両手を組んだまま、律を見上げている。

「あなた、あの日言ったわよね。一匹の虫がいなくなった、って」

「ああ。宗玄からは、蛍は自害したと聞かされてた」

 律は蛍を一瞥した。

「……実際は、死んだことにされてただけだがな」

「な、なんて会社なの……」

 綾が律を見たまま、呻いた。

「……あなたは、どこまで関わってたの」

「役員会の日、朔夜の足を止めた。半日だけな」

 それだけだ、と短く言った声に、温度はなかった。

「律さんは、私をここまで送ってくれました」

 蛍が言うと、律は何も返さずにカウンターの端に腰を下ろした。

 リリィが黙ってコーヒーを置く。律はそれに手をつけなかった。

 蛍は立ち上がり、店の中を見渡した。陽人、律、綾、神代、そしてリリィ。

「私、黒崎に戻って、兄さんに会いに行きたいんです」

 五人をまっすぐ見て、頭を下げた。

「……皆さんに、協力してほしいんです」

「何を今さら」

 真っ先に返したのは、綾だった。

「そのために呼んだんでしょ。断るなら、最初から来てないわよ」

「せやせや。俺なんか、挨拶回りほっぽって来とるんやで」

 それを聞いてリリィも頷く。陽人も同じように、ただ蛍を見て笑って頷いた。

 蛍は顔を上げた。

 皆の視線が、自然とカウンターの端へ集まっていく。

 律だけが、手元のカップを見下ろしたままだった。

「……律さん」

「俺は断る」

 間を置かずに返ってきた。

「俺がお前やあいつを助ける義理は無い」

 律はカップから手を離した。

「届けるまでが俺の仕事だ。その後のことまで、面倒見る気はねえよ」

「律さん。今でも、兄さんの友達ですよね」

「……ふざけんな」

「車の中で、どうして来てくれたのか聞いた時。答えてくれませんでしたよね」

 律の眉が、わずかに動いた。

「足止めしたこと。……確かに怒ってますけど、それでも」

 蛍は右手を差し出した。

「一緒に、兄さんを助けてください」

 律はその手を見た。差し出された指先は、震えていなかった。

 壁の時計が、小さく鳴った。

 律は手つかずのカップを残して、立ち上がった。

「……時間だ」

 扉の前まで歩いて、足を止める。振り返らず、そのまま出て行った。

 冷たい外気が一瞬だけ流れ込んだ。階段を上っていく足音が、やがて聞こえなくなる。

 蛍は差し出したままの手を、ゆっくりと下ろした。

「……馬鹿ね、ほんと」

 綾がぽつりと呟いた。

「でもあの坊や、迷ってたわよ」

 手つかずのカップを下げながら、リリィが言う。

「迷ってなきゃ、そもそも来ないもの」

「せや。ほんまに嫌やったら、坊ちゃんに呼ばれたくらいで、のこのこ顔出さへん」

「全く。本当に素直じゃないわね、律」

 綾が腕を組んで、閉じた扉を眺めていた。

 蛍も、しばらくその扉から目を離せなかった。


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