ベツレヘムの導き(後編)
陽人と共に移動を始めてから、4日が経った。
その日の夕暮れ。車はそれまでより大きな町に入った。
駅前の通りに差し掛かったところで、渋滞に捕まった。
「……すごい人」
助手席にいた蛍は、窓の外に目を奪われた。
歩道を、人が埋めていた。腕を組んで歩く男女。紙袋を提げて足早に行き交う人々。ケーキ屋の前では、赤い帽子に白い髭をつけた店員が、声を張り上げて呼び込みをしている。道路に並んだ街路樹一帯に電飾が巻かれ、夕闇の中でいっせいに瞬いていた。
通りの先の広場には、大きな樹が立っていた。枝の先まで光をまとい、その頂に、ひときわ明るい星がひとつ灯っている。
「……今日って」
蛍の呟きに、陽人がハンドルを握りながら答えた。
「……クリスマスイブ、か」
装いの変わらない北の村では、日付の感覚が無かった。南へ下る間も、どの道を通るか。そのことしか考えていなかった。いつの間にか、街はこんなに明るくなっていた。
「……今頃、私のメモは兄さんの元に届いたかな?」
「きっと大丈夫だよ」
前の車が、わずかに動いた。陽人はブレーキから足を浮かせた。
◇
渋滞を抜け、駅前を外れた頃だった。
「……蛍」
陽人の声が、低くなっていた。
「サイドミラー、見て」
蛍は言われるまま、サイドミラーに目をやった。
後方を走る黒塗りの車。
自分たちの車から二台ほど間を空け、一定の距離を保っている。
陽人は一度、車線を変更した。
黒い車も、少し遅れて車線を変える。
何度か角を左右に曲がる。背後の車も同じように付いて来ていた。
「……蛍。少し、裏道に入るよ」
陽人はハンドルを切った。車は大通りを外れ、建物の間を縫うような細い道へ入っていった。
◇
道幅は狭く、左右には古い建物の壁が迫っていた。街灯の間隔も広く、車のヘッドライトが照らす先だけが、白く浮かび上がっている。
陽人は速度を落とした。
バックミラーを見る。
細い道は走りにくいのか、黒い車は少し遅れて角を曲がってきた。
そのまま、同じ道へ入ってくる。
陽人は何度も左右へ曲がりながら、なるべく細い道を選んで進んだ。
しばらくすると、後ろの追手が見えなくなった。
「……撒いた?」
そのまま進んでいくと、車は細い道を抜け、脇道から大きな車道へ出た。
視界が一気に開ける。
その瞬間――。
「――っ!」
目の前に、大型の黒い車が止まっていた。
陽人は反射的にブレーキを踏んだ。甲高い音が夜の道路に響く。
黒い車は、車道を塞ぐように斜めに停車していた。
陽人はすぐに後方を見た。
さっき撒いたと思った黒い車が、すでに背後で停止している。
挟み撃ちだった。
やがて、前方の黒い車のドアが開いた。
サングラスを掛け、黒い服に身を包んだ男が、車から出てくる。
その黒服の男は、ゆっくりとこちらに近づき、運転席の窓ガラスをノックした。
陽人は窓を開けた。
「……御影陽人、だな?」
「……」
「顔を見ればわかる。それで変装したつもりかもしれんがな」
男の視線が、陽人を素通りして助手席へ移った。
空の座席を、懐中電灯の光が舐めていく。シートの上にも、足元にも、誰もいなかった。
男の口元が歪んだ。
「あの女……黒崎蛍はどうした?」
陽人は首を傾げた。
「……なんのことです?」
男は助手席に回り中を覗く。それから後部座席も覗いた。
「……いない」
それだけ呟くと、懐中電灯を下ろした。
運転席に目をやると、眼鏡を掛けた陽人と目が合う。黒服の男は窓ガラスを叩いて、舌打ちをした。
それから懐から無線を取り出し、短く何かを告げた。
陽人はハンドルを握ったまま、目を細めてその男を睨んでいた。
◇
一方、その頃。
蛍は、別の車に乗っていた。
運転席の男は、煙草を吸いながら、ハンドルを握っている。
「あの、拾ってくれてありがとうございます。……律さん」
運転する男――律は何も言わず、ただ蛍を一瞥した。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
律はハンドルを握ったまま、時折ミラーに目をやっている。その横顔を、蛍は盗み見た。最後に会った時より、頬の線が鋭くなっている気がした。
「……髪」
「え?」
「切ったのか」
正面を見たまま、律が言った。
「はい。……バレないように」
短く答える。
「それも……。あいつとお揃いだな。……眼鏡」
「はい……」
蛍は眼鏡の蒼い縁を触った。
「……役員会の日、兄さんを引き留めたのは、律さんですよね」
「ああ」
否定もなかった。言い訳もなかった。
「宗玄に言われて、半日、朔夜の足を止めた。その間に、お前は役員の前に立たされた。……それで、お前は死んだことにされた」
淡々とした声のまま、律はウインカーを出した。
「怒ってんなら、それでもいい。恨むなら、恨めばいい」
蛍はすぐには何も言えなかった。
窓の外を、街灯が一定の間隔で流れていく。
「律さん」
「なんだ?」
「……どうして、来てくれたんですか?」
律は答えなかった。
カーブを一つ曲がり、長い直線に出る。対向車のライトが、律の顔を一瞬だけ白く照らして過ぎた。
「さあ。なんでだろうな」
はぐらかすように、ぽつりと呟いた。
◇
12月の初め、律は宗玄から、蛍が自害したと聞かされた。
一度は、信じた。だが、日が経つほどに、引っかかりが残った。遺体の話がひとつも出てこない。あの妹が、兄を置いて自分から死ぬだろうか。
気づけば携帯を手に取り、御影グループに電話をかけていた。代表番号から、御影陽人へ繋がせる。朝霧のPRで、蛍と仲睦まじく並んでいた男だ。
御影陽人も、蛍のことを耳にしており、それを信じていなかった。出張と嘘をついて、捜索しているらしい。
「手伝ってやるよ、坊ちゃん」
『え?』
「一人じゃ大変だろう。……ただ、俺には監視の目がある。動ける範囲は限られている。何かあったら連絡しろ」
通話の向こう側が、しばらく沈黙した。
「信用できないか?」
『正直に言うとそうです』
「素直だな」
律は深く息を吐いた。
「……首輪を」
『え?』
「首輪を、外してみたくなったんだよ。……これは信用に足る理由になるか?」
通話の向こう側が、少しの間、黙り込んだ。
やがて、声がした。
『律さん。……もし蛍を見つけたら、僕に必ず連絡をください』
律は微かに、口元を緩めた。
「やっぱり。……一途だな。坊ちゃん」
『律さん!』
「冗談だよ。何かあったら連絡寄越せよ」
それだけ伝えて、通話を切った。
◇
「……ここから東京に向かうんですか?」
蛍の問いかけに、律は我に返った。
「兄ちゃんに早く会いたいのか」
「はい」
「危険だぞ。宗玄の黒服がうろついている」
信号が赤になった。車が停まる。
「……あの坊ちゃんが、確かノクターンなら隠れられると言っていたな」
「……ノクターン。隠れ家みたいなバーです。あそこなら、身を潜められるかも」
「じゃあ、まずはそこに行くか」
信号が青に変わった。車が速度を上げる。
夜の道路を、二人を乗せた車が東京へ向かって走り出した。
◇
深夜3時。
街の入り組んだ一角、看板もない地下への階段の前で、律は車を停めた。
「俺は入らねえ。見張られてる身でな。……これ以上は、目を盗めない」
「律さん」
ドアに手をかけたまま、蛍は振り返った。
「……ありがとうございました」
律は前を向いたまま、ハンドルの上で指を一度だけ動かした。
ドアを閉めると、灰色の車はすぐに角の向こうへ消えていった。
階段を下りる。重い扉を押し開けると、薄暗い店内に、かすかな酒の香りが漂っていた。
隠れ家――『ノクターン』。
カウンターの奥でグラスを磨いていたリリィが、顔を上げた。入ってきた客の姿を認めた瞬間、その手が止まる。
「……蛍、ちゃん……?」
磨きかけのグラスが、カウンターに置かれた。リリィは足早に回り込んでくると、何も言わずに蛍を抱きしめた。大きな手が、短くなった髪をゆっくりと撫でる。
「……よく、頑張ったわね」
「リリィさん……黒崎は、今、どうなってますか? 兄さんは――」
「落ち着きなさい、お嬢さん」
リリィは蛍の両肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「ひどい顔よ。まずは休みなさいな」
「でも……」
「リコ姐に連絡するわ。黒崎の中のことなら、あの人のほうが詳しいもの」
リリィは片目を瞑ってみせた。
「情報収集は、オカマに任せなさい」
「……ありがとうございます」
「さ、ソファしかないけど。好きに使って」
何か言わなければと思った。陽人のことも、律のことも。
けれど身体の方が、先に限界を迎えていた。
ソファに腰を下ろした途端、背もたれに吸い込まれるように力が抜けていく。眼鏡を外そうとして、やめた。蒼い縁を掛けたまま、蛍は目を閉じた。
「……少し、だけ……」
自分の声が、遠くで聞こえた。
リリィは毛布を一枚取ってきて、眠り込んだ蛍の肩に掛けた。眼鏡の縁に目を留め、首を傾げる。それから息をひとつつき、入口へ向かった。
扉に掛けたプレートを裏返す。
『CLOSE』の文字が、静かに揺れた。
◇
律は、灰色の車を独りで運転していた。
信号で止まる。夜空を見上げると、明るい都会の中でも一際輝く星があった。
それを見つめながら、助手席にいた眼鏡を掛けた女を思い出す。
「お前も、一途だよな……」
……死にかけの犬に、会うために。
◇
――星のゆりかごでのお昼ご飯。大人たちが食堂で配膳をしている最中、律は誰よりも先に席に着く。皿に盛られた嫌いなピーマンを見つけ、こっそり前の席――綾の皿に移す。
「律くん、何してるの?」
いつの間にか後ろに立っていた朔夜が、怪訝そうな目――悪いことをしているな、と言いたげな視線で見てくる。律は口の端をニヤリと緩ませて、「お前もやれよ」と目配せした。
……だが、二人のそれはすぐにバレた。席に着くなり、怒った綾は自分の分も含めた三人分のピーマンを、律と朔夜の口に無理やり押し込んできた。嫌がりながらも、それを何とか飲み込む二人を、綾は面白そうに笑っていた。
ある日の夕方。朔夜が少し困ったような顔で律の元へやって来た。
「……律くん」
律は本を読みながら勉強をしていた。
「なに」
「父さんって、何が好きなんだろう」
律は読んでいた本から、顔を上げた。
「お前の父さんだろ。知らないのか」
「……分からないから」
朔夜は少し俯いた。
「もっと、褒めてもらいたい。……でも、何を話せばいいのか、分からない」
律はしばらく黙って、朔夜を見ていた。それから、何かを思い出したように天井を見上げた。
「……そういや、ここ、星のゆりかご、だろ」
「うん」
「あと、宗玄さん。前に、人を褒めるとき『一等星だ』って言ってた」
「……うん」
「なら、星とか、好きなんじゃねえの。よく知らねえけど」
朔夜は目を見開いた。
「……星」
「詳しいことは知らねえよ。ただの勘だ」
律はそう言って、また本に視線を戻そうとした。
「……律くん」
「なんだよ」
「星のこと、知りたい」
律は面倒くさそうな顔をしながらも、少し考えた。
「……資料室に、図鑑くらいあっただろ。付き合ってやるよ、一回だけだからな」
そこへ、綾がひょっこり顔を出した。
「なに二人で話してるの? 私にも教えてよ!」
「……んーっと。綾には関係ねえ話だから」
律が素っ気なく言う。綾はむっとした顔で、今度は答えてくれそうな朔夜のほうを見た。
「朔夜くん?」
朔夜は律と目配せしながら、言葉を選ぶように答えた。
「……えっと、男同士の秘密だから」
朔夜がそう言うと、綾は頬を膨らませ、それ以上は問い詰めずぷいと引き下がった。
その夜。二人は資料室へこっそり忍び込んだ。大人だけが立ち入る特別な場所だ。埃をかぶった本棚の隅に、古い星の図鑑を何冊か見つけた。
「……律くん、見て。本、いっぱいあるよ」
「そうだな。……というか、律でいいよ」
律は本棚を見ながら素っ気なく言った。
「じゃあ……律。この図鑑にしよう」
朔夜は一番分厚い星の図鑑を抜き出した。二人は息を潜めて資料室を抜け出し、部屋へと持ち帰った。
みんなが寝静まった頃。二人は同じ布団の中に潜り込み、持ち出した図鑑を静かに広げた。ページをめくると、色とりどりの星座と、聞いたこともない星の名前が並んでいた。
「……律。これ、なんて読むの?」
朔夜が指さしたのは、冬の星座のページにある星だった。
「シリウスって書いてあるな」
「冬に見える、一等星……」
律はページをめくっていった。冬から、春、そして夏の星座へ。
「こっちは夏の星座だな。……一等星、ベガって書いてある」
「……ベガ」
夏の大三角のページ。ベガと、アルタイル。二つの星を結ぶ、天の川と七夕の挿絵。
「織姫と彦星、か」
律が、くすりと笑いながら言った。
「綾が知ったら、『ベガは私。アルタイルは朔夜くん』って言いそうだな」
「……なんで?」
「えっ? お前、気づいてないの?」
律は驚いたように朔夜を見た。朔夜は「何が?」と言いたげな顔で律を見つめ、やがて図鑑に目を落とした。
「……それより、もっと星の勉強しようよ」
「それよりって……」
律は心の中で、綾の恋は前途多難だろうなと思いながら、それ以上何も言わず朔夜と一緒に図鑑を読み進めた。
父に会えたら話ができるかもしれないと、嬉しそうに星の名前を覚えていた朔夜の横顔。それから、皆が寝静まった後、布団の中で図鑑を読む密かな時間は、しばらく続いたのだった。
◇
父の為に、星も、経営も、学んだ男が。使い物にならないとわかれば簡単に切り捨てられる。
優秀でないものは淘汰される。どこの世界でも、誰かの物差しによって測られる。いつも、そうだ。
兄を庇ったであろう妹も、邪魔になれば消される。それでも、たった一人に会うために、生き延びて、逃げ延びて、ここまで来た。
――俺は、逃げ切れなかった。俺には、成し得なかったことだ。
律は唇を噛んだ。血が出る。それが、自分がまだ死んでいないことを証明する唯一の味だった。




