暗闇の灯火(後編)
翌朝、雪は止んでいた。
「……蛍様は覚えておられるでしょうか?」
暖炉に薪をくべながら、藤堂が切り出した。
「昔一度だけ、この地にいらしたことがございます。夏でした。私の大切な方たちのお墓に、花を供えていただきました」
「……兄さんから、その日の話を少し聞きました。でも、私はあまり覚えていなくて」
藤堂は窓の外の雪に目をやった。亡き人を想っているのか、その目は遠くを見つめていた。
「爺の我儘を、ひとつ聞いては下さいませんか。……そのお墓に、今は瑞希様も眠っておられます」
「お母さんが……」
「ええ。花を、供えていただけませんか」
蛍は静かに頷いた。暖炉にくべられた薪がぱきぱきと音を立てていた。
◇
家を出て、川沿いの道を上っていく。
氷の下を水が流れる、くぐもった音が聞こえていた。合わない靴で、新雪を踏みしめる。藤堂は白い花束を二つ抱えて、黙って前を歩いていた。少し離れた後ろを、鷹取がついてきていた。
川を遡った奥に、小さな墓地があった。
墓石が数基、雪に半ば埋もれて並んでいる。どの石も角が欠け、古びていた。
藤堂は一基ごとに雪を払い、花束から抜いた花を一輪ずつ手向けていった。
墓地の奥に、一本の木があった。
根元には、白い墓石がひとつ佇んでいる。
藤堂はその前で足を止めた。皺だらけの手で、石の肩に積もった雪をゆっくりと落とす。雪の下から、何も刻まれていない石肌が覗く。花束の一つを供え、長く手を合わせていた。
それから、もう一つの花束を蛍に差し出した。
「……ここには瑞希様と、もうお一方、眠っておられます」
「……どなたが?」
「瑞希様の、大切な方です」
蛍は息を飲んだ。
母が想い続けていた人。黒崎を継ぐはずだった人。母と婚約していたのに、病に倒れた人。
——宗明さんが……。
藤堂はただ黙って、墓石の縁に残った雪を払っていた。
——夏の夕方、西日に白く浮かんでいた墓石。
兄が話してくれた、あの日のこと。幼い自分はここが「死んだ人のお家」だと教わって、意味も分からないまま、兄と一緒に花を供えたのだという。
あの日、母はこの人に会いに来ていたのだ。私たちを連れて。
「どうして、お母さんがここに……」
「瑞希様のご遺志でございます。……宗玄様は瑞希様を黒崎の墓にはお入れになりませんでしたから」
母は大切な人の傍を選んだのだ。
蛍は花束を抱えたまま、墓石の前にしゃがみ込んだ。
……母を、思い出そうとする。けれど、思い出そうとするたびに、記憶は靄がかかったように霞んでいく。顔も声も浮かんでこない。赤の他人に花を手向けるような感覚がどうしても拭えなかった。
——何も覚えていない私が、供えていいのだろうか。
川の音が耳に届いた。
あの夜、この川のほとりにはホタルが飛んでいたのだという。星より明るい、と言い張った幼い自分に、兄は笑ってこう返したのだと。
——『蛍』が一番明るい、一等星だよ。
兄から聞いただけの話だった。それなのに、氷の下を流れる水音に混じって、あの夜の少年の声が蘇った気がした。
蛍はそっと息を吐き、墓石に向き合った。
「……お母さん」
静かに、語りかける。
「……ごめんね。私、お母さんのこと、あんまり覚えてなくて……こんな気持ちで花を手向けていいのか、わからない」
風が吹いた。
長い髪が揺れる。その時、温かい手がそっと髪を撫でていった気がした。知らないはずのぬくもりだった。それなのに、どこか懐かしかった。
「でも……わかることもあるよ。お母さんが一生懸命だったこと。私や朔夜兄さんを大事に想っていたこと。温かかったこと。それから——」
蛍は耐えるように、目を伏せた。
「……本当はもっと、みんなでずっと、一緒にいたかったこと」
手にした花束の白い花弁に、一滴の涙が落ちた。
「……お母さん、約束しよう。あなたが一緒にいたかった分も含めて、私は朔夜兄さんと……朔夜と一緒にいるよ。もうあの人を、絶対に独りにはさせない」
蛍は墓石に向かって小指を差し出した。
「それから……お父さんも」
小指を差し出したまま、白い墓石をもう一度見た。
会ったこともない。顔も声も知らない。
「……この約束を破らないように、お母さんと二人で見守っていてね」
——その指が結ばれることはなかった。
蛍は持っていた白い花束を、墓前にそっと供えた。
背後で二人が微かに動く気配がした。
立ち上がって振り返ると、藤堂と鷹取が、墓に向かって頭を下げていた。
◇
翌朝。藤堂は家を発つ支度を整えていた。
「蛍様。私は今日、東京へ戻ります。長く留守にすれば、宗玄様に疑われますので」
藤堂は後ろに控えていた鷹取を振り返った。
「何かあれば、鷹取をお使いください」
「……藤堂さん」
車に乗り込もうとする藤堂を、蛍は呼び止めた。
生きていることを、兄に伝えてほしい。喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
「兄さんを……お願いします」
藤堂は振り返った。蛍の顔を、しばらく黙って見つめる。
「……あなたは瑞希様によく似ておられます」
そう言って、目を細めた。
「できる限りのことを、いたします」
藤堂を乗せた車が雪道の向こうに見えなくなるまで、蛍はその場に立っていた。
◇
藤堂が村を発って、5日が過ぎた。
夕暮れ時、町へ食料を買いに出ていた車が戻ってきた。戸口で迎えた蛍は、荷を抱えて入ってきた鷹取の顔を見て、眉をひそめた。
「鷹取さん、顔色が……」
「問題ございません」
荷を下ろした鷹取が、上がり框に手をついた。そのまま、しばらく動かなかった。
額に触れると、ひどく熱かった。
◇
翌朝になっても、熱は下がらなかった。
布団の中で、鷹取は浅い息を繰り返していた。買ってきた荷の中に、薬は入っていない。
「町まで、薬を買いに行ってきます」
「……なりません」
掠れた声で、鷹取が言った。
「人目に、つきます」
「このままの方が、よっぽど困ります」
蛍は鷹取の上着のポケットから車の鍵を抜き取った。
「待ってください。……運転できるのですか?」
「少しだけなら」
「雪道ですよ」
「……わかっています」
車の鍵を手放す気はないらしい。強く握りしめていた。
止めようと伸ばされた鷹取の手は、やがて布団の上に落ちた。
「……気をつけてください」
雪の積もった山道を、蛍はハンドルにしがみつくようにして下った。タイヤが滑るたび、息が止まった。
町の薬局で解熱剤を買い、隣の衣料品店にも寄った。厚手のセーターと、動きやすいパンツ。レジの横に吊るされていたキャップも、ひとつ手に取った。
マフラーで口元を隠していても、すれ違う人の視線が気になって仕方なかった。背中に流れる長い髪が、やけに重く感じられた。
◇
蛍は湯気の立つ椀を盆に載せ、鷹取の枕元に膝をついた。
「卵粥、作りました。少しでも食べてください」
鷹取が身を起こそうとする。蛍はそれより早く匙ですくい、息を吹きかけて差し出した。
「はい」
鷹取の動きが止まった。
「……それは、さすがに」
熱で赤らんだ顔のまま、鷹取は蛍の手から椀と匙を受け取った。
「そういうことは、身内の方にして差し上げてください」
黙々と粥を口に運ぶ鷹取を、蛍はしばらく見ていた。
「……身内」
ぽつりと繰り返す。
「兄さんにも、こうやって看病したことがあるんです」
暖炉の火が、はぜた。
「頼んでもないのに、余計なことして。自分から雨に濡れに行って、それで熱を出して」
膝の上で、指が握り込まれる。
「……馬鹿ですよね、あの人」
鷹取の匙が、椀の縁で止まった。
「あの方を馬鹿と言えるのは、あなただけでしょうね」
蛍は顔を上げた。
鷹取はもう、粥に目を戻していた。
◇
2日後。鷹取の熱は引いていた。
朝、蛍が暖炉に薪をくべていると、身支度を整えた鷹取が部屋に入ってきた。蛍の前まで来ると、黙って深く頭を下げる。
「……もう、大丈夫なんですか」
「おかげさまで」
顔を上げた鷹取は、しばらく蛍を見ていた。
「雪道の運転は、危険だったでしょう。町へ出ることも……頼んでおりませんが」
「……」
「……自ら雨に濡れに行くお方に、似ておられますね」
鷹取は暖炉に目を移し、薪を一本手に取った。
「鷹取さん、少し意地悪ですよね?」
「さて?」
鷹取は手にした薪を、暖炉の火にくべた。
◇
それから一週間ほどが過ぎた。
「……わかった」
鷹取が通話を切る。振り返ったその顔はいつもより硬かった。
「蛍様。宗玄様の手の者があの崖の辺りを嗅ぎ回っているそうです。……ここ数日で、山の方まで探す手を広げてきている、と」
蛍の背筋が、すっと冷えた。
藤堂の言った通りだった。宗玄は靴と遺書だけでは信じなかった。
「ここもいずれ見つかります」
「……では逃げながら、南へ下りましょう。東京に戻りたいです」
「ですが……」
鷹取の眉がわずかに寄った。
「あなたが生きていると知れれば、藤堂様が……。それに朔夜様も無事では済まないでしょう」
「わかってます」
蛍は顔を上げた。
「だから、見つからないように帰ります」
「……」
「兄に、会いに行きたいんです」
まっすぐな目だった。
鷹取はしばらく、その目を見返していた。墓の前で、彼女が小指を差し出していた背中を、思い出す。
やがて、静かに息を吐く。
「……承知しました。どのみち、ずっとここにはいられません。……ただし、道中は私の指示に従っていただきます」
「はい」
蛍は立ち上がり、窓の外を見た。雪に埋もれた集落の奥、川上の方角。あの木の下に、母が眠っている。
結べなかった小指を、もう片方の手で、強く握りしめた。




