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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
5章 凍てつく冬、導くは聖夜の星
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暗闇の灯火(後編)

 翌朝、雪は止んでいた。

「……蛍様は覚えておられるでしょうか?」

 暖炉に薪をくべながら、藤堂が切り出した。

「昔一度だけ、この地にいらしたことがございます。夏でした。私の大切な方たちのお墓に、花を供えていただきました」

「……兄さんから、その日の話を少し聞きました。でも、私はあまり覚えていなくて」

 藤堂は窓の外の雪に目をやった。亡き人を想っているのか、その目は遠くを見つめていた。

「爺の我儘を、ひとつ聞いては下さいませんか。……そのお墓に、今は瑞希様も眠っておられます」

「お母さんが……」

「ええ。花を、供えていただけませんか」

 蛍は静かに頷いた。暖炉にくべられた薪がぱきぱきと音を立てていた。


 ◇


 家を出て、川沿いの道を上っていく。

 氷の下を水が流れる、くぐもった音が聞こえていた。合わない靴で、新雪を踏みしめる。藤堂は白い花束を二つ抱えて、黙って前を歩いていた。少し離れた後ろを、鷹取がついてきていた。

 川を遡った奥に、小さな墓地があった。

 墓石が数基、雪に半ば埋もれて並んでいる。どの石も角が欠け、古びていた。

 藤堂は一基ごとに雪を払い、花束から抜いた花を一輪ずつ手向けていった。

 墓地の奥に、一本の木があった。

 根元には、白い墓石がひとつ佇んでいる。

 藤堂はその前で足を止めた。皺だらけの手で、石の肩に積もった雪をゆっくりと落とす。雪の下から、何も刻まれていない石肌が覗く。花束の一つを供え、長く手を合わせていた。

 それから、もう一つの花束を蛍に差し出した。

「……ここには瑞希様と、もうお一方、眠っておられます」

「……どなたが?」

「瑞希様の、大切な方です」

 蛍は息を飲んだ。

 母が想い続けていた人。黒崎を継ぐはずだった人。母と婚約していたのに、病に倒れた人。

 ——宗明さんが……。

 藤堂はただ黙って、墓石の縁に残った雪を払っていた。

 ——夏の夕方、西日に白く浮かんでいた墓石。

 兄が話してくれた、あの日のこと。幼い自分はここが「死んだ人のお家」だと教わって、意味も分からないまま、兄と一緒に花を供えたのだという。

 あの日、母はこの人に会いに来ていたのだ。私たちを連れて。

「どうして、お母さんがここに……」

「瑞希様のご遺志でございます。……宗玄様は瑞希様を黒崎の墓にはお入れになりませんでしたから」

 母は大切な人の傍を選んだのだ。

 蛍は花束を抱えたまま、墓石の前にしゃがみ込んだ。

 ……母を、思い出そうとする。けれど、思い出そうとするたびに、記憶は靄がかかったように霞んでいく。顔も声も浮かんでこない。赤の他人に花を手向けるような感覚がどうしても拭えなかった。

 ——何も覚えていない私が、供えていいのだろうか。

 川の音が耳に届いた。

 あの夜、この川のほとりにはホタルが飛んでいたのだという。星より明るい、と言い張った幼い自分に、兄は笑ってこう返したのだと。

 ——『蛍』が一番明るい、一等星だよ。

 兄から聞いただけの話だった。それなのに、氷の下を流れる水音に混じって、あの夜の少年の声が蘇った気がした。

 蛍はそっと息を吐き、墓石に向き合った。

「……お母さん」

 静かに、語りかける。

「……ごめんね。私、お母さんのこと、あんまり覚えてなくて……こんな気持ちで花を手向けていいのか、わからない」

 風が吹いた。

 長い髪が揺れる。その時、温かい手がそっと髪を撫でていった気がした。知らないはずのぬくもりだった。それなのに、どこか懐かしかった。

「でも……わかることもあるよ。お母さんが一生懸命だったこと。私や朔夜兄さんを大事に想っていたこと。温かかったこと。それから——」

 蛍は耐えるように、目を伏せた。

「……本当はもっと、みんなでずっと、一緒にいたかったこと」

 手にした花束の白い花弁に、一滴の涙が落ちた。

「……お母さん、約束しよう。あなたが一緒にいたかった分も含めて、私は朔夜兄さんと……朔夜と一緒にいるよ。もうあの人を、絶対に独りにはさせない」

 蛍は墓石に向かって小指を差し出した。

「それから……お父さんも」

 小指を差し出したまま、白い墓石をもう一度見た。

 会ったこともない。顔も声も知らない。

「……この約束を破らないように、お母さんと二人で見守っていてね」

 ——その指が結ばれることはなかった。

 蛍は持っていた白い花束を、墓前にそっと供えた。

 背後で二人が微かに動く気配がした。

 立ち上がって振り返ると、藤堂と鷹取が、墓に向かって頭を下げていた。


 ◇


 翌朝。藤堂は家を発つ支度を整えていた。

「蛍様。私は今日、東京へ戻ります。長く留守にすれば、宗玄様に疑われますので」

 藤堂は後ろに控えていた鷹取を振り返った。

「何かあれば、鷹取をお使いください」

「……藤堂さん」

 車に乗り込もうとする藤堂を、蛍は呼び止めた。

 生きていることを、兄に伝えてほしい。喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。

「兄さんを……お願いします」

 藤堂は振り返った。蛍の顔を、しばらく黙って見つめる。

「……あなたは瑞希様によく似ておられます」

 そう言って、目を細めた。

「できる限りのことを、いたします」

 藤堂を乗せた車が雪道の向こうに見えなくなるまで、蛍はその場に立っていた。


 ◇


 藤堂が村を発って、5日が過ぎた。

 夕暮れ時、町へ食料を買いに出ていた車が戻ってきた。戸口で迎えた蛍は、荷を抱えて入ってきた鷹取の顔を見て、眉をひそめた。

「鷹取さん、顔色が……」

「問題ございません」

 荷を下ろした鷹取が、上がり框に手をついた。そのまま、しばらく動かなかった。

 額に触れると、ひどく熱かった。


 ◇


 翌朝になっても、熱は下がらなかった。

 布団の中で、鷹取は浅い息を繰り返していた。買ってきた荷の中に、薬は入っていない。

「町まで、薬を買いに行ってきます」

「……なりません」

 掠れた声で、鷹取が言った。

「人目に、つきます」

「このままの方が、よっぽど困ります」

 蛍は鷹取の上着のポケットから車の鍵を抜き取った。

「待ってください。……運転できるのですか?」

「少しだけなら」

「雪道ですよ」

「……わかっています」

 車の鍵を手放す気はないらしい。強く握りしめていた。

 止めようと伸ばされた鷹取の手は、やがて布団の上に落ちた。

「……気をつけてください」

 雪の積もった山道を、蛍はハンドルにしがみつくようにして下った。タイヤが滑るたび、息が止まった。

 町の薬局で解熱剤を買い、隣の衣料品店にも寄った。厚手のセーターと、動きやすいパンツ。レジの横に吊るされていたキャップも、ひとつ手に取った。

 マフラーで口元を隠していても、すれ違う人の視線が気になって仕方なかった。背中に流れる長い髪が、やけに重く感じられた。


 ◇


 蛍は湯気の立つ椀を盆に載せ、鷹取の枕元に膝をついた。

「卵粥、作りました。少しでも食べてください」

 鷹取が身を起こそうとする。蛍はそれより早く匙ですくい、息を吹きかけて差し出した。

「はい」

 鷹取の動きが止まった。

「……それは、さすがに」

 熱で赤らんだ顔のまま、鷹取は蛍の手から椀と匙を受け取った。

「そういうことは、身内の方にして差し上げてください」

 黙々と粥を口に運ぶ鷹取を、蛍はしばらく見ていた。

「……身内」

 ぽつりと繰り返す。

「兄さんにも、こうやって看病したことがあるんです」

 暖炉の火が、はぜた。

「頼んでもないのに、余計なことして。自分から雨に濡れに行って、それで熱を出して」

 膝の上で、指が握り込まれる。

「……馬鹿ですよね、あの人」

 鷹取の匙が、椀の縁で止まった。

「あの方を馬鹿と言えるのは、あなただけでしょうね」

 蛍は顔を上げた。

 鷹取はもう、粥に目を戻していた。


 ◇


 2日後。鷹取の熱は引いていた。

 朝、蛍が暖炉に薪をくべていると、身支度を整えた鷹取が部屋に入ってきた。蛍の前まで来ると、黙って深く頭を下げる。

「……もう、大丈夫なんですか」

「おかげさまで」

 顔を上げた鷹取は、しばらく蛍を見ていた。

「雪道の運転は、危険だったでしょう。町へ出ることも……頼んでおりませんが」

「……」

「……自ら雨に濡れに行くお方に、似ておられますね」

 鷹取は暖炉に目を移し、薪を一本手に取った。

「鷹取さん、少し意地悪ですよね?」

「さて?」

 鷹取は手にした薪を、暖炉の火にくべた。


 ◇


 それから一週間ほどが過ぎた。

「……わかった」

 鷹取が通話を切る。振り返ったその顔はいつもより硬かった。

「蛍様。宗玄様の手の者があの崖の辺りを嗅ぎ回っているそうです。……ここ数日で、山の方まで探す手を広げてきている、と」

 蛍の背筋が、すっと冷えた。

 藤堂の言った通りだった。宗玄は靴と遺書だけでは信じなかった。

「ここもいずれ見つかります」

「……では逃げながら、南へ下りましょう。東京に戻りたいです」

「ですが……」

 鷹取の眉がわずかに寄った。

「あなたが生きていると知れれば、藤堂様が……。それに朔夜様も無事では済まないでしょう」

「わかってます」

 蛍は顔を上げた。

「だから、見つからないように帰ります」

「……」

「兄に、会いに行きたいんです」

 まっすぐな目だった。

 鷹取はしばらく、その目を見返していた。墓の前で、彼女が小指を差し出していた背中を、思い出す。

 やがて、静かに息を吐く。

「……承知しました。どのみち、ずっとここにはいられません。……ただし、道中は私の指示に従っていただきます」

「はい」

 蛍は立ち上がり、窓の外を見た。雪に埋もれた集落の奥、川上の方角。あの木の下に、母が眠っている。

 結べなかった小指を、もう片方の手で、強く握りしめた。

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