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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
5章 凍てつく冬、導くは聖夜の星
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逃避行

 出立の朝だった。

 鷹取は夜明け前から車に荷を積み込んでいた。霜の降りた廃村には、エンジンを温める低い音だけが響いている。

 積み込みを終え、鷹取は家へ戻った。暖炉のある部屋の戸に手をかける。

「蛍様。支度は――」

 戸を開けた鷹取の言葉が、途中で途切れた。

 暖炉の前に、蛍が背を向けて座り込んでいる。背中の中ほどまで流れていたはずの黒髪が、肩の上で途切れていた。

 蛍の右手には裁ちばさみが握られていた。最後に残ったひと房をすくい、刃を入れる。切り落としたそれを、迷いなく暖炉へ放り込んだ。黒い束が火に触れて縮れ、焦げたにおいが立ちのぼってはすぐに消える。

 蛍が振り返った。

「えへへ……バレないようにしようと思って」

 照れたように笑っている。その背後で炎が揺らめいていたが、蛍の目は少しも揺れていなかった。

 鷹取はしばらく黙って蛍を見つめていた。

 やがて小さく頷いてから、口を開く。

「……車でお待ちしております」

 それだけ言って、鷹取は戸の外へ出ていった。


 ◇


 村を出てから、車は一度も大きな道を通らなかった。

 三日目の夕暮れ、車は港に着いた。南へ下るには遠回りになる港だった。近い道ほど見張られている恐れがある、と鷹取は言った。

 船で一晩かけて海を渡り、そこから山を越えて、内陸を南へ下った。鷹取は数日おきに車を替えた。

 ある晩、ヘッドライトだけが照らす山道で、蛍がぽつりと口を開いた。

「……兄さんは、今頃どうしているでしょうか」

 鷹取はすぐには答えなかった。

 ワイパーが一度、フロントガラスの雪を払う。

「……あなたが亡くなったと、聞かされているのであれば」

 前を見たまま、鷹取は言った。

「生きる気力も、ない状態かと」

 蛍の膝の上で、両手がゆっくりと握り込まれた。

「……鷹取さん」

「はい」

「もし、鷹取さんが途中で私を降ろしたとしても。私は必ず、東京へ……兄さんのところへ戻ります」

 震えてはいなかった。

 鷹取はその横顔を一瞥した。

「……降ろすつもりはございません」

 短く答えてから、少し間を置く。

「昔、朔夜様のお守りをしておりました。施設から本邸へ移られた頃からです」

「兄さんの……?」

 蛍がこちらを向いた。

 鷹取の脳裏に、本邸の玄関がよみがえった。

 週末になると、少年は療養中の母を見舞いに、別邸へ出かけていった。病の母に会いに行くはずなのに、その顔はいつも、どこか待ちきれないようだった。金曜の夜には鞄を何度も詰め直し、土曜の朝は誰より早く玄関に立っていた。

 母と過ごす時間が、あの子にとって唯一息のつける場所なのだろう。鷹取は、そう思っていた。

 ある週末、玄関で受け取った鞄の口から、一冊の本がのぞいていた。宿題の問題集の間に挟まっていたのは、大きな字で書かれた絵本だった。あの年頃の少年が、自分で読むものとは思えなかった。

 その時に浮かんだ疑問を、鷹取は口にしなかった。藤堂の領分に踏み込むべきではないと、分かっていた。

 答えを知ったのは、葬儀の日だった。

 葬儀が終わり、鷹取は黒塗りの車を走らせた。後部座席からは、少年の泣き声がやまなかった。バックミラー越しに見えた、妹と引き離された少年は、顔を上げることもなく俯いていた。

「……朔夜様は週末になると、嬉しそうに出かけられていました」

 鷹取がそう言うと、蛍の表情がふっとほどけた。

「それ、たぶん……私に会いに来てくれてたんです」

 蛍は窓の外へ目を向けた。暗い山の稜線を見ているのか、それとももっと遠くを見ているのか、分からなかった。

「覚えてないんです、ほとんど。でも兄さんが、星の本を読んでくれたって。私が、何度も読んでってせがんだって」

 話しながら、蛍の目は窓の向こうを探していた。まだ遠い東京のどこかに、一刻も早く辿り着きたいと願うような目だった。

 鷹取は、ハンドルを握る手に力を込めた。

 遠い町にいる妹を、どうすれば手元に呼び戻せるのか。黒崎の跡取りとして経営者になってからも、その答えを探し続けていた黒崎朔夜を、思い出す。

 助手席にいる蛍の目は、あの頃のあの方の目に、似ている気がした。


 ◇


 藤堂の故郷を出て、何日経っただろうか。

 南へ下る途中の、地方の駅前で、鷹取は車を停めた。

「ここで車を乗り換えましょう。営業所は駅の裏手です」

 車を降りた蛍は、ふと顔を上げた。

 駅前の街路樹に電飾が巻かれ、まだ明るい空の下で、ぼんやりと灯っていた。

 通りに並ぶ店の戸口には、緑の葉に赤い実をあしらったリースが掛かっている。パン屋のガラス戸には「ケーキ予約受付中」の貼り紙があり、どこかの店先から、聞き覚えのある鈴の音の曲がかすかに流れてきた。

 ――いつの間に、こんな季節になっていたのだろう。

「蛍様」

 鷹取の声に、我に返る。

「人の多いところは避けましょう。裏道から回ります」

 蛍は頷き、帽子を深く被り直した。鷹取の後を追って、細い路地へ入る。

 角を曲がった、その時だった。

 ――どんっ。

 正面から来た人と、軽く肩がぶつかった。

「……すみません」

 蛍は帽子のつばを下げながら、自分にしか聞こえないほどの小さな声で謝った。

 そのまま、足早に通り過ぎようとする。

「――待って!」

 背後から、呼び止められた。

 足が、止まる。

「……僕たち、どこかで出会ったことありませんか?」

「――」

 心臓が、大きく跳ねた。

 蛍は、ゆっくり振り返った。

 帽子のつばの下から、そっと相手の顔を見上げる。

 コートを着た青年が、まっすぐにこちらを見つめていた。その目が、わずかに潤んでいる。

 ――御影陽人だった。

「……っ」

 時が止まったように、二人は動けなかった。

 だが、それも刹那。陽人は瞬きひとつで表情を切り替え、

「――こっちへ」

 蛍の手を握る。そのまま、細い裏道へと走り出した。

 蛍も、手を握り返す。

 引かれるまま、細い路地を走る。前を見ると、いつの間にか鷹取が二人の先に回り込み、道を示すように駆けていた。

 辿り着いたのは、建物の陰に隠れた、人気のない空き地だった。

 鷹取が振り返る。陽人の顔を見て、それから二人の繋がれた手に目を落とした。

「……あなたは、確か御影の」

「は、はい。御影陽人です……」

 息を切らしながら答える陽人を、鷹取はしばらく黙って見ていた。

「車を手配してまいります。ここでお待ちください」

 短く告げ、鷹取は路地の奥へ消えた。

 喧騒が遠くなる。二人きりになる。

「……生きてたんだ」

 振り向いて呟いた陽人のその声は、ひどく小さかった。

「……うん。生きてるよ」

「蛍……だよね?」

「うん……」

 陽人は、蛍から目を離せずにいた。そして、ためらうような声がこぼれる。

「……本当に、生きてるか、確かめてもいい?」

「え――」

 答えを待たずに、陽人は蛍を抱きしめた。呼吸を、体温を、確かめるように。

 蛍は一瞬、身体を固くした。けれどすぐに、陽人の背中へ手を回した。

 陽人の肩が、わずかに震えている。

「……よかった」

 掠れた声が、耳元で聞こえた。

 蛍は、目の奥が熱くなった。

 こんなふうに再会するなんて、思ってもいなかった。

 陽人の震える背中を、あやすように蛍はゆっくりと撫でた。

「ずっと……。ずっと、探してた。……死んだって聞いたときも、信じられなくて」

 しばらく抱きしめた後、陽人はようやく腕をほどき、蛍の顔を覗き込んだ。

「僕の勘、当たってたみたいだ」

 滲んだ目で、陽人が笑う。

 自分が死んだことは、陽人のところにも届いていた。それでもこの人は、信じずに探し続けてくれた。蛍の知らない場所で、たったひとりで。

「……陽人くん」

「うん……」

「……見つけてくれて、ありがとう」

 陽人は首を横に振った。蛍の手を、そっと握り直す。

「……見つけたんじゃない」

 握った手に、少しだけ力がこもった。

「――光ってたから、わかったんだ」


 ◇


 鷹取が手配した車の後部座席に、蛍と陽人は並んで座った。陽人が乗ってきた車は、部下に回収させる手筈を整えたという。

「……朔夜さんは、どこまで知ってるの?」

 陽人の問いに、蛍は目を伏せた。

「たぶん、私が死んだと思ってる。……藤堂さんに、生きてることだけでも伝えてほしいって頼んだんだけど、危ないからって」

「……そっか」

 車内に沈黙が落ちた。

 陽人は窓の外を見たまま、何かを考え込んでいる。蛍は唇を噛んだ。

 その二人を、鷹取がバックミラー越しに見ていた。

「……御影様」

 鷹取が沈黙を破る。

「はい。なんでしょうか」

「……あなたが必死になって蛍様を探していたこと。そしてここで出会ったこと。これは、選手交代かもしれませんね」

「え?」

「……蛍様」

「はい」

「……昔のあの方も、あなたに会うためにずっと必死でした」

 車が、ゆっくりと路肩に寄って止まった。

「私に、伝書鳩を務めさせていただけませんか」

 蛍は息を呑んだ。

「……いいんですか?」

「はい。ただし、朔夜様に直接お会いし、口で伝えるのは難しいのです。今も見張りが立っていることでしょう。別の案でお願いできれば、と」

 三人で額を寄せ合い、手立てを考えた。やがて鷹取が頷く。

「――その案が、今できる最善でしょう」

 蛍は鷹取から手帳の切れ端を受け取り、ペンを握った。

 書き終えた紙を四つ折りにし、蛍は鷹取に差し出した。

「お願いします」

 鷹取はそれを受け取り、胸の内ポケットへ収めた。

 その後、車をもう一台手配し、少し離れた場所に停めた。鷹取は二人をそちらへ移らせ、陽人に鍵を手渡す。

 陽人と、そして蛍に向き直り、胸に手を当てて頭を下げた。

「……ご武運を」

 二人を乗せた車が走り去るのを、鷹取は最後まで見送った。

 それから運転席に戻り、エンジンをかける。胸ポケットの上から、四つ折りの紙を確かめるように押さえた。

「……藤堂様。私は今まで一度もあなたの命に背いたことはございません」

 アクセルを踏み込む。車は、東京へ向けて走り出した。

「……どうか一度だけ、お許しください」


 ◇


 数日後。寒冬の昼過ぎ。

 おタキは黒崎ビルの裏口で、吹き溜まった枯れ葉を掃き集めていた。

「……おタキさん、ですね?」

 その声におタキは振り返る。黒服の男が立っていた。

「何の用だい?」

「あの方の部屋も、掃除されますか?」

 箒を動かす手が、一瞬止まる。

「よろしくお願いします」

 男はおタキの前掛けのポケットに、紙切れを一枚滑り込ませた。それだけ言って、裏口の通りへ消えていく。

 おタキはポケットから紙を引き出し、開いた。丸みを帯びた字を、しばらく見つめる。

「……まったく。こりゃあ、いい祝いの日になりそうだね」


 ◇


『――あなたが教えてくれた一等星は、まだ輝く』

 見間違えようのない文字が、そこにあった。

「……蛍……」

 指が震える。

 あの日から、ずっと沈んでいた。息をすることさえ、もうどうでもよかった。守ると決めたものを、また守れなかった。そう思って、すべてを手放そうとしていた。

 その暗い水の底から、何かに引き上げられるような感覚があった。

「あ……」

 胸の奥で、鼓動が鳴っていた。

 まだ、動いている。生きているのは、蛍だけではなかった。

 気づけば、部屋は暗くなっていた。カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいる。

 朔夜は立ち上がり、カーテンを開けた。

 眼下で、街が光っていた。

 通りに沿って、無数の灯りが瞬いている。広場の真ん中に立つ大きな樹が、色とりどりの光をまとっていた。その頂に、星がひとつ灯っている。

 毎日この窓から外を見ていたはずなのに、いつからこんなに明るかったのか、朔夜は知らなかった。

 手の中の紙切れに、もう一度視線を戻す。

 目元を覆い、噛み締めるように、その紙を胸に抱きしめた。


 ◇


 翌朝7時半。秘書室の扉が叩かれた。

「失礼します」

 黒服が盆を手に入ってくる。テーブルに盆を置くと、いつものように朔夜の肩を掴もうとした。

「……いい」

 黒服の手が止まった。

「自分で食べる」

 朔夜は匙を取った。黒服は眉をひそめたが、何も言わずに扉の脇へ下がった。

 ――十四年前も、こうだった。

 母の葬儀の後、何もかも手に付かなかった。勉強はおろか、今と同じく食事も取らなかった。

 部屋から出なくなった自分の前に、藤堂は毎日盆を置いた。手のつけられていない盆を、毎日黙って下げていった。

『……坊ちゃま。お辛いのはわかりますが、今は、目の前のことをやりましょう』

 藤堂の言葉が、耳の奥で聞こえる。

『時が来れば。また、お会いできます』

 匙で汁をすくい、口に運ぶ。

 ――味が、した。

 何の味もしなかったのに、出汁の味がわかる。

 それに、知っている味だった。

 煮物を一つ、口に入れる。甘めの味付け。

 ――リコ、か。

 半分ほど食べたところで、匙を置いた。黒服が盆を下げようと近づいてくる。

 食事は、外からここへ運ばれてくる。そして、食べ終えた食器は戻される。

「……手間をかけたな」

「あ?」

「……次からは、一人で。静かに食べたい」

「もう食べれんのか?」

「ああ。飯の時くらい、一人にさせてほしい」

「ったく。我儘なやつだ」

 黒服が盆を下げて出ていく。

 部屋で一人になった朔夜は、机の端に目をやった。蛍が置いていったノートが、そのまま残っていた。

 その白いページに、目を留めた。


 ◇


 その夜。

 監視の黒服たちの夕飯後のお盆が、食堂に流れ込んだ。

「……全く。何でアタシがあいつらの食事を作らなきゃならないのよ」

 朝昼晩の三食を作らされるようになった食堂で、ぶつくさ文句を垂れながら、食器を洗うオカマ――リコ。

 より人手を要することになり、食堂を手伝うあまり、本業のマンション地下のバーはほとんど営業できなくなっていた。

「あら。また、ご飯残してるわね」

 リコが食器に残ったおかずやご飯を見て、溜息をつく。

「ホント、ご飯を残すなんて作る人の気持ちをどう考えてるのよ! 今度この子に会ったら、アタシがたっぷり説教を――」

 お椀の中のおかずを捨てた時、底に、四つ折りの小さな紙が入っていた。

「なにこれ? 嫌がらせ?」

 リコはその折り畳まれた紙きれを、開いた。

「これ……は……」

 動じないリコが、目を見開く。

『リコ。今の黒崎の状況を教えろ』

 それからにやりと口元を緩ませた。

「……ご飯の感想を言わないのは、今も変わらないようね。とんだお坊ちゃまだわ。次会ったら、たっぷり説教しないとね?」


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