逃避行
出立の朝だった。
鷹取は夜明け前から車に荷を積み込んでいた。霜の降りた廃村には、エンジンを温める低い音だけが響いている。
積み込みを終え、鷹取は家へ戻った。暖炉のある部屋の戸に手をかける。
「蛍様。支度は――」
戸を開けた鷹取の言葉が、途中で途切れた。
暖炉の前に、蛍が背を向けて座り込んでいる。背中の中ほどまで流れていたはずの黒髪が、肩の上で途切れていた。
蛍の右手には裁ちばさみが握られていた。最後に残ったひと房をすくい、刃を入れる。切り落としたそれを、迷いなく暖炉へ放り込んだ。黒い束が火に触れて縮れ、焦げたにおいが立ちのぼってはすぐに消える。
蛍が振り返った。
「えへへ……バレないようにしようと思って」
照れたように笑っている。その背後で炎が揺らめいていたが、蛍の目は少しも揺れていなかった。
鷹取はしばらく黙って蛍を見つめていた。
やがて小さく頷いてから、口を開く。
「……車でお待ちしております」
それだけ言って、鷹取は戸の外へ出ていった。
◇
村を出てから、車は一度も大きな道を通らなかった。
三日目の夕暮れ、車は港に着いた。南へ下るには遠回りになる港だった。近い道ほど見張られている恐れがある、と鷹取は言った。
船で一晩かけて海を渡り、そこから山を越えて、内陸を南へ下った。鷹取は数日おきに車を替えた。
ある晩、ヘッドライトだけが照らす山道で、蛍がぽつりと口を開いた。
「……兄さんは、今頃どうしているでしょうか」
鷹取はすぐには答えなかった。
ワイパーが一度、フロントガラスの雪を払う。
「……あなたが亡くなったと、聞かされているのであれば」
前を見たまま、鷹取は言った。
「生きる気力も、ない状態かと」
蛍の膝の上で、両手がゆっくりと握り込まれた。
「……鷹取さん」
「はい」
「もし、鷹取さんが途中で私を降ろしたとしても。私は必ず、東京へ……兄さんのところへ戻ります」
震えてはいなかった。
鷹取はその横顔を一瞥した。
「……降ろすつもりはございません」
短く答えてから、少し間を置く。
「昔、朔夜様のお守りをしておりました。施設から本邸へ移られた頃からです」
「兄さんの……?」
蛍がこちらを向いた。
鷹取の脳裏に、本邸の玄関がよみがえった。
週末になると、少年は療養中の母を見舞いに、別邸へ出かけていった。病の母に会いに行くはずなのに、その顔はいつも、どこか待ちきれないようだった。金曜の夜には鞄を何度も詰め直し、土曜の朝は誰より早く玄関に立っていた。
母と過ごす時間が、あの子にとって唯一息のつける場所なのだろう。鷹取は、そう思っていた。
ある週末、玄関で受け取った鞄の口から、一冊の本がのぞいていた。宿題の問題集の間に挟まっていたのは、大きな字で書かれた絵本だった。あの年頃の少年が、自分で読むものとは思えなかった。
その時に浮かんだ疑問を、鷹取は口にしなかった。藤堂の領分に踏み込むべきではないと、分かっていた。
答えを知ったのは、葬儀の日だった。
葬儀が終わり、鷹取は黒塗りの車を走らせた。後部座席からは、少年の泣き声がやまなかった。バックミラー越しに見えた、妹と引き離された少年は、顔を上げることもなく俯いていた。
「……朔夜様は週末になると、嬉しそうに出かけられていました」
鷹取がそう言うと、蛍の表情がふっとほどけた。
「それ、たぶん……私に会いに来てくれてたんです」
蛍は窓の外へ目を向けた。暗い山の稜線を見ているのか、それとももっと遠くを見ているのか、分からなかった。
「覚えてないんです、ほとんど。でも兄さんが、星の本を読んでくれたって。私が、何度も読んでってせがんだって」
話しながら、蛍の目は窓の向こうを探していた。まだ遠い東京のどこかに、一刻も早く辿り着きたいと願うような目だった。
鷹取は、ハンドルを握る手に力を込めた。
遠い町にいる妹を、どうすれば手元に呼び戻せるのか。黒崎の跡取りとして経営者になってからも、その答えを探し続けていた黒崎朔夜を、思い出す。
助手席にいる蛍の目は、あの頃のあの方の目に、似ている気がした。
◇
藤堂の故郷を出て、何日経っただろうか。
南へ下る途中の、地方の駅前で、鷹取は車を停めた。
「ここで車を乗り換えましょう。営業所は駅の裏手です」
車を降りた蛍は、ふと顔を上げた。
駅前の街路樹に電飾が巻かれ、まだ明るい空の下で、ぼんやりと灯っていた。
通りに並ぶ店の戸口には、緑の葉に赤い実をあしらったリースが掛かっている。パン屋のガラス戸には「ケーキ予約受付中」の貼り紙があり、どこかの店先から、聞き覚えのある鈴の音の曲がかすかに流れてきた。
――いつの間に、こんな季節になっていたのだろう。
「蛍様」
鷹取の声に、我に返る。
「人の多いところは避けましょう。裏道から回ります」
蛍は頷き、帽子を深く被り直した。鷹取の後を追って、細い路地へ入る。
角を曲がった、その時だった。
――どんっ。
正面から来た人と、軽く肩がぶつかった。
「……すみません」
蛍は帽子のつばを下げながら、自分にしか聞こえないほどの小さな声で謝った。
そのまま、足早に通り過ぎようとする。
「――待って!」
背後から、呼び止められた。
足が、止まる。
「……僕たち、どこかで出会ったことありませんか?」
「――」
心臓が、大きく跳ねた。
蛍は、ゆっくり振り返った。
帽子のつばの下から、そっと相手の顔を見上げる。
コートを着た青年が、まっすぐにこちらを見つめていた。その目が、わずかに潤んでいる。
――御影陽人だった。
「……っ」
時が止まったように、二人は動けなかった。
だが、それも刹那。陽人は瞬きひとつで表情を切り替え、
「――こっちへ」
蛍の手を握る。そのまま、細い裏道へと走り出した。
蛍も、手を握り返す。
引かれるまま、細い路地を走る。前を見ると、いつの間にか鷹取が二人の先に回り込み、道を示すように駆けていた。
辿り着いたのは、建物の陰に隠れた、人気のない空き地だった。
鷹取が振り返る。陽人の顔を見て、それから二人の繋がれた手に目を落とした。
「……あなたは、確か御影の」
「は、はい。御影陽人です……」
息を切らしながら答える陽人を、鷹取はしばらく黙って見ていた。
「車を手配してまいります。ここでお待ちください」
短く告げ、鷹取は路地の奥へ消えた。
喧騒が遠くなる。二人きりになる。
「……生きてたんだ」
振り向いて呟いた陽人のその声は、ひどく小さかった。
「……うん。生きてるよ」
「蛍……だよね?」
「うん……」
陽人は、蛍から目を離せずにいた。そして、ためらうような声がこぼれる。
「……本当に、生きてるか、確かめてもいい?」
「え――」
答えを待たずに、陽人は蛍を抱きしめた。呼吸を、体温を、確かめるように。
蛍は一瞬、身体を固くした。けれどすぐに、陽人の背中へ手を回した。
陽人の肩が、わずかに震えている。
「……よかった」
掠れた声が、耳元で聞こえた。
蛍は、目の奥が熱くなった。
こんなふうに再会するなんて、思ってもいなかった。
陽人の震える背中を、あやすように蛍はゆっくりと撫でた。
「ずっと……。ずっと、探してた。……死んだって聞いたときも、信じられなくて」
しばらく抱きしめた後、陽人はようやく腕をほどき、蛍の顔を覗き込んだ。
「僕の勘、当たってたみたいだ」
滲んだ目で、陽人が笑う。
自分が死んだことは、陽人のところにも届いていた。それでもこの人は、信じずに探し続けてくれた。蛍の知らない場所で、たったひとりで。
「……陽人くん」
「うん……」
「……見つけてくれて、ありがとう」
陽人は首を横に振った。蛍の手を、そっと握り直す。
「……見つけたんじゃない」
握った手に、少しだけ力がこもった。
「――光ってたから、わかったんだ」
◇
鷹取が手配した車の後部座席に、蛍と陽人は並んで座った。陽人が乗ってきた車は、部下に回収させる手筈を整えたという。
「……朔夜さんは、どこまで知ってるの?」
陽人の問いに、蛍は目を伏せた。
「たぶん、私が死んだと思ってる。……藤堂さんに、生きてることだけでも伝えてほしいって頼んだんだけど、危ないからって」
「……そっか」
車内に沈黙が落ちた。
陽人は窓の外を見たまま、何かを考え込んでいる。蛍は唇を噛んだ。
その二人を、鷹取がバックミラー越しに見ていた。
「……御影様」
鷹取が沈黙を破る。
「はい。なんでしょうか」
「……あなたが必死になって蛍様を探していたこと。そしてここで出会ったこと。これは、選手交代かもしれませんね」
「え?」
「……蛍様」
「はい」
「……昔のあの方も、あなたに会うためにずっと必死でした」
車が、ゆっくりと路肩に寄って止まった。
「私に、伝書鳩を務めさせていただけませんか」
蛍は息を呑んだ。
「……いいんですか?」
「はい。ただし、朔夜様に直接お会いし、口で伝えるのは難しいのです。今も見張りが立っていることでしょう。別の案でお願いできれば、と」
三人で額を寄せ合い、手立てを考えた。やがて鷹取が頷く。
「――その案が、今できる最善でしょう」
蛍は鷹取から手帳の切れ端を受け取り、ペンを握った。
書き終えた紙を四つ折りにし、蛍は鷹取に差し出した。
「お願いします」
鷹取はそれを受け取り、胸の内ポケットへ収めた。
その後、車をもう一台手配し、少し離れた場所に停めた。鷹取は二人をそちらへ移らせ、陽人に鍵を手渡す。
陽人と、そして蛍に向き直り、胸に手を当てて頭を下げた。
「……ご武運を」
二人を乗せた車が走り去るのを、鷹取は最後まで見送った。
それから運転席に戻り、エンジンをかける。胸ポケットの上から、四つ折りの紙を確かめるように押さえた。
「……藤堂様。私は今まで一度もあなたの命に背いたことはございません」
アクセルを踏み込む。車は、東京へ向けて走り出した。
「……どうか一度だけ、お許しください」
◇
数日後。寒冬の昼過ぎ。
おタキは黒崎ビルの裏口で、吹き溜まった枯れ葉を掃き集めていた。
「……おタキさん、ですね?」
その声におタキは振り返る。黒服の男が立っていた。
「何の用だい?」
「あの方の部屋も、掃除されますか?」
箒を動かす手が、一瞬止まる。
「よろしくお願いします」
男はおタキの前掛けのポケットに、紙切れを一枚滑り込ませた。それだけ言って、裏口の通りへ消えていく。
おタキはポケットから紙を引き出し、開いた。丸みを帯びた字を、しばらく見つめる。
「……まったく。こりゃあ、いい祝いの日になりそうだね」
◇
『――あなたが教えてくれた一等星は、まだ輝く』
見間違えようのない文字が、そこにあった。
「……蛍……」
指が震える。
あの日から、ずっと沈んでいた。息をすることさえ、もうどうでもよかった。守ると決めたものを、また守れなかった。そう思って、すべてを手放そうとしていた。
その暗い水の底から、何かに引き上げられるような感覚があった。
「あ……」
胸の奥で、鼓動が鳴っていた。
まだ、動いている。生きているのは、蛍だけではなかった。
気づけば、部屋は暗くなっていた。カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいる。
朔夜は立ち上がり、カーテンを開けた。
眼下で、街が光っていた。
通りに沿って、無数の灯りが瞬いている。広場の真ん中に立つ大きな樹が、色とりどりの光をまとっていた。その頂に、星がひとつ灯っている。
毎日この窓から外を見ていたはずなのに、いつからこんなに明るかったのか、朔夜は知らなかった。
手の中の紙切れに、もう一度視線を戻す。
目元を覆い、噛み締めるように、その紙を胸に抱きしめた。
◇
翌朝7時半。秘書室の扉が叩かれた。
「失礼します」
黒服が盆を手に入ってくる。テーブルに盆を置くと、いつものように朔夜の肩を掴もうとした。
「……いい」
黒服の手が止まった。
「自分で食べる」
朔夜は匙を取った。黒服は眉をひそめたが、何も言わずに扉の脇へ下がった。
――十四年前も、こうだった。
母の葬儀の後、何もかも手に付かなかった。勉強はおろか、今と同じく食事も取らなかった。
部屋から出なくなった自分の前に、藤堂は毎日盆を置いた。手のつけられていない盆を、毎日黙って下げていった。
『……坊ちゃま。お辛いのはわかりますが、今は、目の前のことをやりましょう』
藤堂の言葉が、耳の奥で聞こえる。
『時が来れば。また、お会いできます』
匙で汁をすくい、口に運ぶ。
――味が、した。
何の味もしなかったのに、出汁の味がわかる。
それに、知っている味だった。
煮物を一つ、口に入れる。甘めの味付け。
――リコ、か。
半分ほど食べたところで、匙を置いた。黒服が盆を下げようと近づいてくる。
食事は、外からここへ運ばれてくる。そして、食べ終えた食器は戻される。
「……手間をかけたな」
「あ?」
「……次からは、一人で。静かに食べたい」
「もう食べれんのか?」
「ああ。飯の時くらい、一人にさせてほしい」
「ったく。我儘なやつだ」
黒服が盆を下げて出ていく。
部屋で一人になった朔夜は、机の端に目をやった。蛍が置いていったノートが、そのまま残っていた。
その白いページに、目を留めた。
◇
その夜。
監視の黒服たちの夕飯後のお盆が、食堂に流れ込んだ。
「……全く。何でアタシがあいつらの食事を作らなきゃならないのよ」
朝昼晩の三食を作らされるようになった食堂で、ぶつくさ文句を垂れながら、食器を洗うオカマ――リコ。
より人手を要することになり、食堂を手伝うあまり、本業のマンション地下のバーはほとんど営業できなくなっていた。
「あら。また、ご飯残してるわね」
リコが食器に残ったおかずやご飯を見て、溜息をつく。
「ホント、ご飯を残すなんて作る人の気持ちをどう考えてるのよ! 今度この子に会ったら、アタシがたっぷり説教を――」
お椀の中のおかずを捨てた時、底に、四つ折りの小さな紙が入っていた。
「なにこれ? 嫌がらせ?」
リコはその折り畳まれた紙きれを、開いた。
「これ……は……」
動じないリコが、目を見開く。
『リコ。今の黒崎の状況を教えろ』
それからにやりと口元を緩ませた。
「……ご飯の感想を言わないのは、今も変わらないようね。とんだお坊ちゃまだわ。次会ったら、たっぷり説教しないとね?」




