かぐや姫の休日
「いいから、今日は付き合いなさい」
強引に手を引く綾の言葉に、朔夜は反論することなく、静かに歩調を合わせた。
結婚しようと言ったはずの夜は、綾の記憶ごと有耶無耶になった。「その前に順序を踏んで、まずはデートよ」と、当然のように平日の日程を押さえられ、渋々それに応えてしまった。黒崎グループCEOのスケジュールなど自分には関係ないとばかりの、彼女特有のペースだった。
予定表のその日には、「私用」とだけ入れた。蛍は一瞬だけ画面から顔を上げたが、何も聞かなかった。
生半可な覚悟だった朔夜も、デートを挟むのは、心を決めるのにちょうどいいと折り合いをつけた。
デートに選んだのは、水族館だった。
今日の綾は、薄手の白いコートを羽織り、踵の高いブーツを履いていた。
「……着物じゃないのか」
「勝負服よ。……どう?」
「……」
褒めてほしそうに、綾が目をぱちぱちと瞬かせる。
「……悪くないんじゃ、ないか」
「あなた、それしか言えないの? しかも疑問形だし」
呆れたように肩をすくめると、綾は「行きましょ」と先に入り口をくぐっていった。
「わあ! いっぱい魚いるわね!」
綾が弾んだ声で言う隣で、朔夜は整然と並ぶ水槽を見上げ、淡々と言い放つ。
「ここの大型水槽の維持費はおよそ数千万、といったところか」
「……」
「あ、珍しい魚だ。こいつは確か、4千万円位の……」
「朔夜?」
綾は呆れたように歩みを止めた。
「さっきから何の話をしているの? 今デート中なんだから、経営の話は無しでしょう」
「……はぁ」
「ほら、見てみなさいよ、あのマグロ」
「……維持費も含めて数千万といったところか」
綾が無言でこちらを睨む。
「……刺身にして、酒と飲んだら美味そうだな」
「確かに!! って、違~う!!」
バシバシと朔夜を叩く綾。その様子を見た近くの子どもに、クスクスと笑われる。
綾はコホンと咳払いをすると、気を取り直すように大きな魚類展示パネルの前へ移動した。
「もう! 少しはロマンチックな会話ができないの?」
ぶつくさ文句を垂れる綾に、朔夜は「じゃあ、あれは?」とクリオネの展示水槽に誘導した。
「あら、可愛い!」
水温管理された透明なガラスの中で、流れるように漂う可憐な姿に、綾が顔をほころばせる。
ちょうど餌を投下するタイミングだったらしく、上部から餌が降ってきた。
「え……」
次の瞬間、クリオネの愛らしい頭部が真っ二つに割れ、中から不気味な触手が勢いよく飛び出した。それは流星のように獲物を捕らえると、一瞬で丸呑みにしてみせた。
綾の表情が引きつる。
「……あんな見た目でも、おぞましい瞬間があるんだな。まるで――」
朔夜がちらりと綾を見た。
「なに?」
綾が睨む。
「いや、何も……」
◇
「ほら、見て……あの鰯の群れ。みんな同じ方向に一斉に泳いでいるわね」
鰯の水槽を綾が指さす。
「……会社員みたいだ」
「はい?」
「……規律を守って、同じ方向を向いて、進んでいるところが」
綾は思わずぷっと噴き出した。それから、群れから一匹、追いつけずに後ろへ流されていく鰯に気づいた。
「……あの鰯……追いつけなくて、力尽きそうだわ……」
暗い水底へ沈んでいく一匹を、朔夜は黙って見つめていた。
能力の無い者は淘汰される。どの世界も、弱者は泳ぎ切れない。
「……追いつけない者にも、何か手を用意すべき、だろうな」
ぽつりと呟き、その場を立ち去る朔夜。その言葉に、綾は少しだけ驚いたように目を見張った。
館内は徐々に人が増えてきた。校外学習なのか、揃いの帽子をかぶった子どもたちの列が、通路を埋めていく。綾は朔夜とはぐれないよう、早足で付いていく。履き慣れない靴のせいで、何度も足がもつれかけた。
「きゃっ!」
前から来た人と肩がぶつかり、体がのけぞった。
「……大丈夫か」
「ええ……」
「……ん」
綾の目の前に、朔夜の左手が差し出された。
「え?」
「……はぐれるぞ」
戸惑う綾の右手を取ると、朔夜は繋いだまま自分のコートのポケットに押し込んだ。
「……」
何も言わずに、朔夜が歩き出す。
ポケットの中で、綾はその手をそっと握り返した。
二人はしばらく館内を見て回った。度々挟まる朔夜の金額の話や蘊蓄は、ロマンスを求める綾を呆れさせた。
――繋がれた手は温かいのに。
「それにしても、あなたってホント色々詳しいわね」
「……昔、律と一緒に色々図鑑とか読んだからな」
「なーんだ。私も読めばよかった」
「お前は絵本ばっかり読んでたからな」
むっと頬を膨らませる綾。
「あっちは川魚みたいね」
川を再現した水槽に、綾が視線を向けた。
そちらへ足を運ぶ。岩の窪みに、眉間に皺を寄せたような顔の魚が一匹、陣取っている。近づく小魚に向かって、えらを大きく膨らませた。
「怖い顔。何あれ」
朔夜は水槽脇の案内板に目を落とした。
「オヤニラミ……と書いてあるな」
説明書きの続きを、黙って目で追う。岩の周りでは、細身の魚の群れがうろついていた。案内板には、同じ水槽にいるムギツクという魚のことも記されている。
「……托卵って、分かるか」
「たくあん?」
「托卵、だ」
朔夜が溜息をつく。
「自分の卵を別の親の巣に産みつけて、育てさせることだ」
「へえ……。それで?」
「そこのムギツクがそれをやる。オヤニラミが追い払っている隙に、あの卵の中へ自分たちの卵を紛れ込ませる」
朔夜は案内板から顔を上げ、岩陰に陣取る魚を見た。
「オヤニラミは気づかない。他人の卵も自分の子だと思って、孵るまで守り続ける」
「……それって」
綾が眉を寄せた。
「他人なのに、一緒に育てちゃうってこと?」
「ああ。……居場所を奪って」
オヤニラミは侵入者に向かって、えらを膨らませ続けている。その足元で守られている卵のどれが誰の子なのか、水槽の外からは分からなかった。
綾は次の水槽へ目を向けた。少し暗がりになった一角へ向かう。
「ねえ、見て。……クラゲってゆっくり揺れてて、綺麗ね」
透明な水の中、光を浴びて丸く膨らんだクラゲが、ふよふよと漂っている。それを指さしたまま、綾がふと声を落とした。
「……なんだか、流されて彷徨っているみたいね」
「……ああ。そう見えなくもないな」
「私は……」
弾んでいた声が、そこで途切れた。綾が目を伏せる。
「……私や律は、どこから来たんだろう」
朔夜は水槽から目線を外し、隣に立つ彼女の横顔を見た。
施設で育った三人だったが、綾は西大寺家に、律は赤城家に引き取られた。二人とも、本当の両親を知らない。
自分は、二人とは違う。生みの親を知っている。
だが時々、分からなくなる。父が何を考えているのか。母がなぜ抱きしめるのを躊躇したのか。
自分は、何者なのだろう。どこから来て、どこへ行くのだろう。
水槽の中で、クラゲは光を透かしながら漂っている。流れに逆らう術も持たずに。
ふと、隣に目をやる。綾の瞳の中に、丸い光が浮かんでいた。
朔夜は視線を水槽へ戻した。
「……月、かもな」
「え……?」
思いがけない言葉に、綾が目を丸くして振り返る。
「かぐや姫は月から来て、最後は月に帰った。お前が行きたいと願えば、本当の故郷に帰れるかもしれない」
「……」
「それに……」
朔夜はクラゲから目を離さなかった。
「いつか月に帰るように。……あるいは、人は死んだら星になると言うように」
川の始まりは散らばっていても、やがて一つになり、海になる。
「生まれはどこであったとしても。……終わりは、同じところに辿り着くんじゃないか」
「……」
「俺も、お前も……」
水槽の青い光が、朔夜の横顔に揺れていた。どこか遠くを見ているその瞳の陰りに、綾の胸の奥がわずかに締め付けられる。
「……あなたの、そういうところが……」
「ん?」
「な、何でもないわ!」
察せられるのを拒むように、綾が明るい声を上げた。朔夜は「じゃあ、次行くか」と、何事もなかったかのように廊下を歩き出す。
「……終わりは、同じ。そうだと、いいわね……」
誰に言うでもなく、綾は小さく言葉をこぼした。
◇
一通り満喫し、水族館を後にした二人。時間の余裕があったため、近くにあるプラネタリウムへと足を運んだ。
「……二人で」
チケットを買おうと、朔夜が財布を取り出す。ふと綾がそこへ視線を向けると、洗練された彼の私物には不似合いな、色褪せた薄桃色の紙切れが折りたたまれて入っていた。
「これなに?」
「……おい」
制止の声を無視して、綾はそれを指先でつまみ上げた。
折り畳まれた小さなメモのような紙を、綾が広げる。その間に朔夜はチケットを購入した。
「……ん」
チケットを一枚手渡そうとしたが、綾は見向きもせず、その紙切れを食い入るように見つめている。
「どうした?」
そこに書かれていたのは、かつて5歳の綾が6歳の朔夜に渡した、幼い頃の手紙だった。
――『さくやくん。いつもありがとう。だいすき!』
「あ、あなた……ずっとこれ持ってたの!?」
「……なんか、入ってたな」
「な、なんかじゃないわよ!!」
その慌ただしいやり取りを見て、受付の女性がクスリと笑みをこぼした。
「お二人、なんだか初々しいですね」
微笑みながら「楽しんできてください」と手を振る受付嬢に対し、朔夜は気まずそうに咳払いを挟み、綾は嬉しさを隠しきれない様子で口元を緩めながら、足早に受付を通過していった。
館内に入り、二人は並んで腰を下ろした。少し経つと、部屋が暗転し始めた。
解説のアナウンスが、静かに響き渡る。
『――皆様、本日はご観覧いただき、誠にありがとうございます。本日は、これから見頃を迎える冬の星座をご紹介します』
ドーム状の天井に一つの眩しい星が浮かんだ。
『冬にひときわ明るく輝く星を、皆様はご存じでしょうか。こちらがシリウスです』
冬の大三角のひとつだ、と解説が続く。他の星の紹介がいくつか挟まったところで――
『実はシリウスは、二つの星からなる連星です。私たちが目にしている明るい星がシリウスA、その傍らを回る伴星がシリウスBです。二つの星は互いの重力で引き合い、結びつきながら公転しており――』
綾の瞳が揺れた。
常に眩しい光を放つ、静かで圧倒的な存在の星と、その傍らに寄り添う星。
――こ、これってまるで、私たちのことなのでは!?
胸がにわかに高鳴る。
「……さ、朔夜。これって何だか私たちに――」
綾の左肩に、とん、と重みが落ちてきた。
朔夜の頭だった。
彼は静かに目を閉じ、規則正しい寝息を立てている。
――こ、こいつ……。私とのデート中に、しかもこのタイミングで寝てるなんて、いい度胸ね……。
わなわなと怒りが込み上げてくる。けれど、暗がりの中で安心しきった寝顔を見ているうちに、それもすっと引いていった。
……自分がこの人の、落ち着ける場所になれるのなら。それは悪くはないのかもしれない。
綾は肩を動かさないよう背筋を伸ばしたまま、天井の星を眺め続けた。
◇
プラネタリウムを出ると、外はすっかり暗くなっていた。迎えの車を待つ間、二人は広場のベンチに腰を下ろした。
「……寝てたかも。悪かったな」
「別にいいわよ。あなたの寝顔なんて、施設以来だもの」
綾はコートの裾を整え、改まったように朔夜へ向き直った。
「本当に、結婚するのよね?」
「何度も言わせるな」
「蛍ちゃんには言ったの?」
その名前に、一瞬だけ返事が遅れた。
「……まだだ。蛍に報告してから、お前にちゃんと言う。それでいいか」
「私はいいわよ」
綾はそれきり黙った。膝の上で重ねた指先が、コートの袖の中へ引っ込む。
さっきまでドームいっぱいに散っていた星は、ここでは数えるほどしか見えない。街の灯りに薄められた夜空には、月の姿も無かった。
夜気が、肌に冷たかった。
「あ、朔夜」
「……ん」
「今日は、月が綺麗ね」
朔夜は空を仰いだ。
「……ん? 今夜は新月だろう。だから何も――」
顔を向けた瞬間、その続きは塞がれた。
夜風が頬を撫でていく。触れた唇は、ひんやりと冷えていた。
朔夜はただ、目の前にある綾の長いまつ毛だけを見ていた。
唇が離れると、綾は夜空の方へ首を傾けた。
「……仕返し。これでおあいこね」
赤く染まった頬のまま、綾の口元は緩んでいた。
朔夜はもう一度、空を見上げた。幾つかの星だけが瞬いていた。
掛ける言葉が見つからないうちに、広場の端へ迎えの車のライトが滑り込んでくる。
「じゃあね、朔夜。今日は楽しかったわ」
綾は軽やかに立ち上がると、振り返らずに車へ向かった。ブーツの踵の音が、石畳の上を遠ざかっていく。
後部座席の扉が閉まり、車が走り出すまで、朔夜はベンチから動かなかった。
◇
車の中で、綾は鞄から財布を取り出した。
中にしまってある、色褪せた四つ折りのメモを、手の中でそっと開く。
――『あやちゃん。こちらこそ、いつもあそんでくれてありがとう』
「ふふ。うふふふふ……」
「綾様。今日のデートは、楽しかったようですね?」
バックミラー越しに、運転席の使用人が目を細めた。
綾は答えず、窓の外へ目を向けた。月の無い空の下を、街の灯りだけが流れていく。
お返しの手紙を綾が大事に持っていることを、朔夜はまだ知らない。




