綾への告白
陽人と言葉を交わしたあと、朔夜は独り、隅のカウンター席に座っていた。手元のグラスには、もうほとんど氷しか残っていない。
その時、ふらりと、綾が朔夜の傍を通った。かなり飲んでいたのか、足元がおぼつかない。
「……大丈夫か」
「ああ、うん。ちょっと外の空気を吸いに――」
「……ついてってやる」
グラスを置いて、立ち上がった。
「あら? 今日はやけにやさしいのね?」
頬を赤く染め、呂律の回っていない綾を、店の外まで介助した。
◇
店から、少し離れた公園のベンチに座らせた。夜風が吹き抜ける。昼間の、都会の喧騒はなく、静かな時間が流れていた。
綾は気分がいいのか、終始笑っていた。朔夜は彼女の話を半分聞き流していた。心の中では、別のことを考えていた。
思えば、昔からこいつは、俺に対して積極的だった。20歳過ぎの頃に、縁談の席で再会してからというもの、アポなしで会社に用もなく来ては、追い返すやり取りは何度目か……呆れるくらいの執着心。俺の、何が、そんなにいいのか。
――でも。俺のことをこれほど追いかけてくる女は他にいないし、俺が受け入れるなら、お互い悪い話ではないだろう。こんな真っ当ではない気持ちであることが、綾に対して失礼なことはわかっているが……。
俺が誰かと一緒になれば。俺も、蛍も、お互いに離れる理由になるだろう。そういった、半ば後ろ向きな、覚悟で。
ふと空を仰ぐと、この都会の空でもひと際輝く星が三つほど見えた。
いつか、施設にいた時、律と星の図鑑を読んだ。秋が近づく空でもまだ見える、夏の大三角。
「……綾」
「なーに?」
――4年前も今も。蛍と陽人はこの星を見上げていたんだろうか。
「……あの眩しい星、知っているか?」
「へ?」
綾は首をかしげながら夜空を見上げた。星に興味がないであろう綾は「そんなの、知らないわよ」と切り捨てる。
「ベガ、だ。……名前くらい聞いたことあるだろう」
「ベガ? って、確か七夕の?」
「織姫、だな」
「ふうん?」
「……じゃあ次。あっちは?」
「さ、朔夜?」
朔夜が指さした方向にある星を見る。
「星の名前はわからないわよ」
「アルタイル。で、これは?」
「……彦星?」
「正解だ」
綾はその横顔を見つめながら、ふいに奇妙な胸騒ぎを覚えた。
――な、なに? なんで突然、朔夜が、らしくない話をするの?
「じゃ、じゃあ朔夜。もう一つは?」
綾が三つ目の星を指さした。
「……」
「朔夜?」
綾が怪訝そうな顔で覗き込む。
目が合った。
その目は、いつもの煩わしそうな目とは違っていた。綾は思わず身を引いた。
「……どうしたの? 朔夜、ちょっと変じゃない?」
「変、か……。そうかもしれない」
酔った女にまで見透かされるとは、自分もまだまだだ。
「……綾」
――少し酔いも、醒めただろう。ならば、今だ。
心には、ずっと風が吹き抜けていくような、埋められない穴がある。その穴を、こいつが埋めてくれることを期待して。
「……俺と、結婚するか」
いつになく真面目な、低い声だった。
「……」
「……綾?」
振り向くと、その女は虚を突かれたように、目を丸くしていた。紅潮した顔のまま、綾は隣の男を見つめていた。
「い、今なんて……」
ぼやけていた意識が、急にはっきりしたように。確認するように、聞き直した。
「……だから、お前さえよければ、結婚するか、と」
「えええ!?」
綾は驚きながら自分の顔を叩いた。夢じゃないことを確かめるように。
「う、嘘でしょ!? あんなに断ってたのに!?」
「嘘じゃない……」
「なんで、なんでよ!?」
――いつも自分が攻めるくせに。逆になったら疑うのか。
「……心境の、変化だ」
「今まで100回以上断ってたのに!?」
「ああ。お前の……毎日懲りずに来る、その熱意に折れた」
「そんな!! 突然急に!? おかしいわよ!!」
「別におかしくなんか、ない」
「で、でも、急になん――」
その口を、塞いだ。
……遠くで、虫の鳴く声がした。車が何台か付近を通る音がした。だが、二人には何も聞こえなかった。
いつも、甲高い声で名前を呼ぶ、あのうるさい声も。こうすれば簡単に黙るんだと、口づけしながら、しかし頭では至極冷静に、そんなことを考えていた。
数秒ののち。朔夜が唇を離した。
……綾を、見た。いつもまっすぐ見てくるくせに、顔を赤く染めたまま、目は泳いでいた。
「……わかったか」
それは、目の前で呆然としている綾だけでなく、自分の覚悟に対しての、言葉でもあった。
その後、黒服を呼んで、車で綾を家の付近まで送ってやった。
――もう、後には引けない。
◇
翌日。頭痛で朝早く目が覚めた朔夜は、ダイニングに向かい、水を飲んでいた。
どうやってここまで帰ったのか、あまり覚えていない。昨日の記憶は不確かだった。
ただ、確実に覚えているのは、西大寺綾に結婚を申し出て、口づけをしたこと。それだけは、確かだった。
ふと、朔夜は蛍の寝室の前で足を止めた。
ドアの向こうは静かだった。まだ深く眠っているのだろう。
――この扉の前に立つことも、もう、なくなるのだろう……。
意味もなく早く、黒崎ビルに出社した。
8時半。綾ももう起きているだろうと思い、電話をかけた。
すぐに繋がった。
「……綾か」
「どうしたの、朔夜? 朔夜から電話なんて、珍しいじゃない!」
いつも通りの、明るい声だった。
「その……」
「あらなーに、どうしたの? え? まさか朔夜のほうから私に会いたいとか?」
昨日、あんなことをしておきながら、まるで調子の変わらない女に、少し感心しつつ――、
「……昨日のこと、覚えているか?」
念のため、聞いてみた。
「へ? なに?」
「……」
まさか。いや、まさか、な……。
「昨日の夜、何をしたか、覚えているか……?」
「ん? 昨日はみんなで打ち上げをしたでしょう?」
「どこで?」
「隠れ家のノクターンでしょ? お酒美味しかったわ~」
いつもの変わらない声のトーンで答える。動揺など、微塵もなく。
「そ、その後は?」
「ん? んん? 朔夜、どうしたの?」
「いいから答えろ!」
嫌な予感がして、焦った。動揺しているのが自分だけなのも、少し腹が立つ。
「飲んだ後、蛍ちゃんと喋って、それから、それから……」
「……」
「気が付いたら家にいたから、あんまり覚えてないのよねえ~」
「は……」
――嘘だろ。俺があんなに、心を決めたのに。
「朔夜、黙り込んでどうしたの?」
綾の声は、朔夜のそんな気持ちを微塵も知らぬ呑気な温度だった。朔夜は、酒とは別に、頭が痛くなってきた。
「……け、結婚……の、ことは」
「へ!? 結婚!? それって私と朔夜が!?」
「……そうだ」
「嘘でしょ!? 昨日そんな話になった!?」
「……さあ、な。その様子じゃ、その後も、覚えてなさそうだな」
「その後!?」
電話越しだが、綾があわあわしながら、記憶を辿ろうともがいているような様子が窺える。
「ま、まさか……!! 夢ではキスしたけど!! ほんとにキスなんてしてないわよね!?」
「……」
「嘘でしょ!?」
綾が驚愕の声を上げる。夢でのキスとやらは、呆れて流した。
「さ、最悪!! 最悪だわ!! 一ミリも覚えてないなんて!!」
「最悪なのはこっちだ!」
「じゃあ朔夜!! 仕切り直しで、今日はもう一度――」
ぶつり、と。電話を切った。
「……ふ、ふざけるなよ、この女……」
いつも冷静な男が、珍しく声を上げ、わなわなと震えていた。
◇
朝霧町の復興プロジェクトの打ち上げを終えた、数日後のことだ。
朔夜は宗玄に呼ばれ、重厚な扉の奥にある書斎を訪れていた。
静まり返った部屋の中央、小さなテーブルを挟み、二人は将棋盤に向かい合っていた。
「……父さん。予定を空けていただいて、ありがとうございます」
朔夜が静かに言葉をかけると、対面で盤上を見つめていた宗玄は、手元の駒を指先でつまみ上げた。
「ふむ……」
低い唸り声を漏らし、駒を置く。乾いた硬い音が部屋に響いた。
「……この前、蛍と指したようですね。相手にならなかったでしょう」
「そうだな」
「悔しそうにしてましたよ」
朔夜は手元にあった駒を取り、迷いなく盤上へ進めた。
その指し手を見た宗玄が、ゆっくりと視線を上げ、朔夜の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……面白いのか」
「……え?」
「笑っている」
そう指摘されて、朔夜は思わず口元に手を当てた。無意識のうちに、口角が緩んでいたらしい。
「怒っているのではない。私と指して、楽しいかと聞いている」
「……」
宗玄は追及する風でもなく、再び盤上へと視線を落とした。
目を伏せる父の姿を、朔夜はじっと見つめた。
圧倒的な威厳と存在感のある人だと思っていたが、前のめりに盤を覗き込むその姿が、以前よりもどこかわずかに小さく見えた。
「……私は、この時間が楽しいです」
「……」
「父さんとの時間は、これしかないから」
宗玄の手が僅かに止まったが、やがて再び駒を手に取り、無言のまま盤上へ指した。 朔夜もまた、迷うことなく次の一手を動かす。
二人の間に流れる張り詰めた空気が、ほんの少しだけ弛緩した。
宗玄は盤面を凝視したまま、ぽつりと呟いた。
「……お前は、何か変わったようだ」
静かな声だった。
「……あの娘が、お前に影響を与えたか。何も出来ぬと思っていたが、確かに、復興の件といい、中々、行動力のある娘のようだ。今は秘書のようだが、決裁権限のひとつでも渡してやったらどうだ? その方が、お前も経営に集中できるだろう」
朔夜は手元に視線を落としたまま、静かに応じた。
「……それも、そうですね。ですが」
「なんだ?」
「私の元を離れても、いい頃合いなのかと思いました」
指し手を一度止め、朔夜は盤面を見つめた。
「手元に置いておくつもりでしたが、勿体ないと思いました。……例えば、若い経営者――御影陽人のような男と一緒に切磋琢磨するのも、あいつにとっては良いはずです」
宗玄の視線が、ゆっくりと朔夜に向けられた。
「ほう……」
宗玄は低く短く漏らすと、再び盤上に目を戻し、駒を手にする。
「あの娘を他人に引き渡す覚悟があるのなら、結構だ。……で、お前は?」
「……」
「そういうからには、お前自身も身を固めるのだろう?」
宗玄の手が静かに駒を置く。
「……お前が選んだ伴侶なら口出しはすまい。どこかで顔合わせでもしよう」
「……わかりました」
それまで迷いなく指してきた手が、ほんの一瞬、鈍ったことに、朔夜自身は気づかなかった。




