朝霧町復興編(後編5)
夜中の零時。祭り開催に向けて動いていた蛍は、胸がざわつき眠れずにいた。気を落ち着かせようとリビングに向かうと、部屋の灯りがぼんやり点いていた。
「……兄さん、眠れないの?」
「ああ……」
ソファに腰掛けていた朔夜の隣に、蛍も腰を下ろした。
「……祭りは、開催できそうか?」
「何とか……。場所は商店街で申請して、あとは参加店舗もいくつか確保したよ。……花火は、河川敷が使えなくなったから、難しいかも」
「……」
「それでも、別の場所でできないかどうか考えてる。と言ってももう時間は無いんだけどね……」
蛍は、商店街の電灯を消してヒーリングランプを点灯させると、いい雰囲気になりそうだと、付け加えて説明した。
「もう、一人でできるんだな……」
「何が?」
「……朝霧で酷い目に遭っていたお前が。ずっと泣いていて、俺がいなきゃいけないと思っていたお前が。……再開発を聞いて、居ても立っても居られない様子で、町へ赴き、俺や周りを巻き込んで、復興プロジェクトまで立ち上げた。一人で、何でもできるようになった……」
「そんなことは……兄さんが助けてくれたから」
「いや。俺がいなくても、お前はやっていたし、出来ていたと思う」
伏せられた朔夜の側顔には、どこか寂しげな陰りが落ちていた。
「……お前を、弱いと決めつけていた。そんなことなかった。一人でやろうとしているお前に、俺が、勝手に——」
「朔夜兄さん」
蛍がその言葉を遮った。
「もしわたしが、強くなれているのだとしたら。それは、兄さんや、陽人くんや、皆さんの支えがあったからだよ」
「……」
「独りだったら……何もできないままだった。昔と同じく、死にたいとか、色々諦めてしまってたと思う。今でも、諦めたくなる弱い部分がある。でも、皆が助けてくれるから……」
「やっぱり……辛かったんだな……」
「え……あ……」
「陽人が、助けてくれたんだな」
言い当てられて、蛍は小さく頷いた。
朔夜は日中の、打ちひしがれた陽人の顔を思い出す。
傲慢だと言って切り捨てた、まさにその人物が、自分が一番会いたかった人を救っていた。
彼のその差し出した手が、決して自己満足や優越感だけではない、純粋な優しさだったことも……頭ではわかっていたはずなのに。
自分が、蛍を助けられなかった。それをただ、認めたくなかっただけだったのか……。
「……死ななくて、良かった。傍にいなくても、わたしを想ってくれてる人に、会えた」
「……うん」
「ありがとう、朔夜兄さん。ずっと、離れていても、わたしを想ってくれて……」
蛍は両腕を、そっと朔夜の背中に回した。
強すぎない腕の力。頬にかかる、髪の匂い。全てを預けてしまいたくなるような、温かさ。
——同じだ。
あの日、瑞希が抱きしめてくれた時と。
彼女は忘れているはずなのに。
……その中に宿る強さや優しさは、きっと、御影陽人から受け取ったものなのだろう。
今は、ただ……この温もりに、身を預けてもいいだろうか。
そっと、ぎこちなく腕を回して、抱きしめ返した。
◇
翌朝。朔夜は蛍に指示を出した。
「祭りの開催を、十日——いや、五日後に後ろ倒しにしてほしい」
「え!? もう、開催は三日後ですよ!?」
「わかっている」
思わず声を裏返して慌てる蛍に対して、朔夜は落ち着いた声で続ける。
「お前なら、町を説得できるだろう。それと——」
動揺する蛍を見つめる朔夜の瞳には、一切の迷いがなかった。
「……花火業者へ連絡を入れて、正式に契約しておけ」
「それって……花火打ち上げられるの!?」
「……出来るとかじゃない。やるんだ」
その低く力強い声に後押しされ、蛍も表情を引き締めると、強く頷いた。
「……はい!」
◇
御影ビルの自室で資料を整理していた陽人の携帯が鳴った。画面に表示された名前に、一瞬だけ指が止まる。
「——はい、御影です。何かご用でしょうか?」
『……陽人。昨日のような資料は、他にもないか?』
「え……」
通話相手——朔夜のその言葉に、虚を衝かれた。陽人の返事が無いからか、朔夜が先に沈黙を破る。
『……昨日は、言い過ぎた。すまない』
「朔夜さん……」
『追加の資料が欲しい。明日の午前中までに、持ってこい』
「……はい! すぐ持って行きます!」
要件だけ伝えて、通話は切れる。陽人は暗転した携帯画面を、しばらく見つめた。
「ほんと……不器用だな、あの人は。振り回される身にもなってよ……」
呆れ混じりにそう呟く陽人の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
◇
祭りの二日前。
商店街での代替開催に向けて準備に追われていた蛍のもとへ、朔夜から着信が入った。
「……兄さん?」
『河川敷、使えるようになった』
「……え?」
思わず、蛍は手にしていた書類を抱えたまま目を見開いた。
朔夜は、それ以上説明はしなかったが、これまで集めた資料をもとに、県へ計画の不審点と、許可取り消しに至った経緯の非を指摘した。向こうも不備を認めざるを得なくなったらしく、河川敷の使用許可について、差し戻しは撤回された。
『祭りは、当初の予定通り、河川敷でやる。花火もあそこで上げる』
「……本当に?」
『ああ』
電話の向こうで、朔夜が短く答える。
『ただし、時間がない。準備を急げ』
「はい……! ありがとう、兄さん!」
電話を切った蛍は、胸の奥からこみ上げてくる熱いものを感じながら、すぐに橘たちの元へと駆け出した。
今度こそ、朝霧の夏を取り戻すために。蛍たちは一丸となって設営と最終調整に奔走した。
◇
夕暮れ時、商店街にはすでに大勢の人だかりができていた。二年ぶりの夏祭りを、町の誰もが待ちわびていたのだろう。射的や金魚すくい、綿菓子の屋台に、子供たちの歓声が響き渡る。
役場の橘は、少し離れた場所から、その光景にじっと目を細めていた。
「……こんな日が、また来るとは、思っていませんでした」
しみじみと呟く橘に、蛍は笑顔を返した。
「これからも、続けていきましょう」
日がすっかり落ちる頃、商店街の街灯が一斉に消えた。代わりに、蛍が用意したヒーリングランプの柔らかな灯りが、会場のあちこちに灯っていく。橙色の淡い光は、まるでホタルの群れのように、道をぼんやりと照らし出した。
「わあ……」
子供たちが歓声を上げる。浴衣姿の人々が、その光の中をゆっくりと練り歩いていく。
やがて、人々の視線は、夜空に向いていた。
一発目が、打ち上がった。夜空が、一瞬、真昼のように白く染まる。朝霧町にとって、初めての花火だった。
あちこちから歓声が上がる。色とりどりの光が、次々と夜空に咲いては、消えていった。
◇
無事に開催された祭りの様子を一通り見終えた蛍は、賑わう会場から少し離れた河川敷に腰を下ろしていた。川のせせらぎを聞きながら、夜空に揚がる花火を眺めていた。
「……ここにいたんだ」
背後から、陽人の声がした。陽人も並んで蛍の左隣に腰を下ろした。
しばらく二人は黙って、夜空に咲いては消える花火を見上げていた。四年前のあの日にはなかった、鮮やかな光が、かわるがわる川面を照らし出す。
「夏祭り……ちゃんと開催できてよかった」
「そうだね」
蛍と、そして陽人は、四年前の一緒に駆け抜けた夏の温度と匂いを、思い出していた。
◇
——パシャ!
会場の中心にいた、朔夜と綾の背後から、不意にカメラのシャッター音が響いた。
「お疲れ様です! いや~、花火も相まって、相変わらず絵になるお二人ですなあ~」
神代がレンズを向けたまま声をかけてくる。
「……撮っていいと言っていない」
「まあまあ、今日ぐらい固いこと言わんといてください。それより——」
神代が会場をぐるりと見渡してから、にやりと笑った。
「……社長。これ、あんたがこの会場使えるように裏で動いたんやろ?」
「なんのことだか」
「わかりやすいなあ。誤魔化したいならもうちょっとバリエーション増やさなあきません」
その言葉に、隣にいた綾も「確かにね」と可笑しそうに笑う。
「さて、ここまでやったんやからプロジェクトの締めくくりとして、東京戻ったら打ち上げやりましょうや!」
「いいわね! 朔夜も来るんでしょ?」
「俺は……」
「社長。この前誘ったとき断りはったでしょ? 覚えてまっせ。今回は出席してもらいますよ?」
神代と綾にじっと見つめられ、朔夜は逃げ道を塞がれたように、渋々「わかった」と頷いた。
「ほな、広報用の写真撮ってきますんで。残り時間はお二人で楽しんでください!」
カメラを抱え、神代は賑やかな人混みの中へと走っていく。
「……関西人って賑やかなのねえ」
「お前と同じくらい騒がしい奴だな」
「そうね。……って、ちょっと! どういう意味!?」
声を上げ睨む綾をよそに、朔夜は視線を遠くの河川敷へと向けていた。
蛍と陽人の背中が見える。肩が触れないほどの距離で並び、時折お互いの顔を見合わせては微笑み合っていた。
蛍には、確かに、自分以外の居場所がちゃんとあった。……そして、選ぶ権利も。
四年前も、あんな風に笑っていたんだろう。そしてそれを、あの時、自分が奪ってしまったんだろう。
「……PR動画を撮った時も思ったんだけど。あの二人、お似合いよね」
綾も朔夜の視線を追い、蛍と陽人を見つめていた。
「そうだな」
驚くほど、即答だった。綾は思わず朔夜の方を振り向いた。
その横顔は、迷いなく肯定した言葉とは裏腹の、深く渇いた翳りがあった。
「あの坊やのこと、認めるの?」
綾が探るように尋ねたその時、朔夜のポケットの中で携帯が震えた。
——画面には『赤城律』の文字が。
朔夜は反射的に、電話に出た。
「律……?」
『出るの早えな。そんなに待ってたの?』
少し歩いて綾から距離を取り、息を殺して耳を澄ます。
『……祭り開催、おめでとう』
「……ああ。その——」
『それだけだ。じゃあな』
言いたいことを挟む余地もなく、一方的に通話は切れた。
朔夜は、暗くなった画面を見つめたまま立ち尽くす。
——本当は、律と一緒に仕事ができると思った時、嬉しかった。
だが、その思いを口にすることすら、許されなかった。
携帯を固く握り締める朔夜の背中を、綾は何も言わずに見守っていた。
◇
祭りが終盤に差し掛かり、打ち上がる花火が一際まぶしく夜空を焦がす。会場からは、帰路に就き始める人々の足音が聞こえ始めていた。
夏の余韻が残る風の中で、蛍がぽつりと口を開く。
「……わたし。四年前と比べて、ちゃんと何かできるように、なれたかな」
流れる川の暗がりに、一匹のホタルが、淡い光を放ちながら漂っていた。
「なれてるよ。現に、祭りは成功したじゃないか。……君は、どんなに大変な状況でも、昔と変わらず、一生懸命だよ」
「ありがとう。……陽人くんの——みんなのお陰だね」
陽人も、川を漂うその小さな光に目をやった。
——あの夏。まだ何者でもなく、ただ必死に彼女の手を掴んで引いた頃の記憶が、温かな風とともに蘇る。
今、右隣にいる蛍の左指が、ほんの僅か伸ばせば届く距離にある。触れるか触れないかの先にある、彼女の確かな温度を感じながら。
陽人は自分の右手をきゅっと握りしめ、静かに引いた。
「……蛍。ひとつだけ、聞いていい?」
「……なに?」
「今、幸せ? ……黒崎の、朔夜さんの家で」
薄明かりの闇の中で、蛍は答えた。
「……最初は大嫌いだった。でも今は、分かるの。あの人、不器用なだけで……優しい人なんだって」
答える声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
「……そっか。……なら、よかった」
最後の花火が開いた。大輪の光が二人の横顔を明るく照らし、すぐに暗がりへと消えていく。
「——間に合わなかったのかな、僕は」
「……? なにか言った?」
「……ううん。なんにも」
陽人はいつもの、まっすぐな顔で笑ってみせた。
歓声と拍手に包みこまれる河川敷で、二人はしばらくの間、星が瞬き始めた夜空を見上げ続けていた。
◇
通話を切った張本人は、静まり返った暗い社長室で、暗転した携帯画面を見つめていた。
受話器越しに聞こえていた微かな花火の音が、まだ耳の奥に残っている。
別に、何かを言いたかったわけじゃない。ただ、指が当たってしまっただけだと自分に言い聞かせなければ、その胸の奥にある矛盾に折り合いが付きそうになかったからだ。
——朝霧の祭りは、無事に開催された。復興プロジェクトは、ひとつひとつが実を結びつつある。
赤城律は、また、黒崎朔夜に——。
どこにいても、何をしても、結局……。
煙草でも吸おうと立ち上がり一歩踏み出した時、暗がりの足先に、何かが当たった。
拾い上げる。
透明なケースの中に電球が付いた、小さな器具。
……スイッチを、押す。
それは、暗い部屋の中で、ぼんやりと不規則に灯っていた。
黒崎蛍。その名前と同じ虫のように揺れるランプの灯りを——、
「……こんなものに」
律は、ただ、見つめていた。




