朝霧町復興編(後編4)
蛍たちが祭り開催に向けて奔走している最中のことだった。社長室に入ってきた藤堂が、控え目に声をかけてきた。
「蛍お嬢様。お忙しいところ申し訳ありませんが、少し、よろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
奥のデスクには、朔夜も座っている。
「……実は、宗玄様が、蛍様にお会いしたいと」
「え?」
蛍が目を見開き、ちらりと朔夜の方を振り返る。朔夜も聞き間違いかと思ったようで、虚を突かれた顔をしていた。
「……兄さんじゃないんですか?」
「私も、聞き直しました。明日の金曜日、書斎で将棋を指したい、と……」
「そんな……。明日、ですか?」
「お忙しいのは、重々分かっております……」
深々と頭を下げる藤堂に、蛍は顔を上げるよう言った。
「……蛍。祭りのことは俺がやる。お前は明日の父さんと指せるよう、少しでも対策をしたほうがいいんじゃないか」
「……でも」
「命令だ」
冷たく言い放つ朔夜に、蛍は珍しく食い下がらなかった。
「今、大事なのは、復興プロジェクトを——夏祭りを開催させることですから。業務時間まではきっちり働きます」
そう宣言すると席に戻り、再びキーボードを叩き出す蛍。
「……」
朔夜も諦めたように目を伏せ、パソコンに向かい直した。
「では、蛍様。お時間が無いようですが、夕食後のひとときにでも、練習できれば……」
「わかりました」
藤堂は下がり部屋を出た。静かになった社長室に、キーボードを叩く音だけが響いた。
◇
約束の金曜日の夕方。蛍は宗玄のいる書斎に入った。
仄暗い書斎には、重厚な本棚が立ち並び、部屋の隅にはワインボトルの並んだラックが置かれていた。
部屋の中央。小さなテーブルの奥。
黒崎宗玄は、黒い肘掛椅子に深く腰を掛け、グラスのワインに口を付けながら、蛍を待っていた。
「……来たか」
少し緊張した面持ちの蛍を、向かいの椅子に座るよう目で促す。蛍は促されるがまま、小さめの椅子に腰を下ろした。
「もう、打てるな?」
「少しだけですが……」
慣れた手つきで盤上に並べる宗玄を見ながら、蛍も手元を動かしていく。
並べ終えると、静かに対局が始まった。
会話のない、静まり返った部屋に、ぱち、ぱちと硬い駒を置く音が響く。何となく、どこか居心地の悪さがあって、蛍はなかなか集中しきれずにいた。
開始から五分もしないうちに、蛍は王手をかけられた。
「……すいません」
「慣れてないだろう。もう一度、並べてみろ」
蛍は駒を回収し、再度並べ直した。そして二局目が、始まる。
宗玄はワインを口に含みながらも、迷いのない的確な手を淡々と指してくる。それに対して蛍は、自分の番が来るたびに唸り、考え込んでいた。
そんな蛍を一瞥し、ふと宗玄が口を開いた。
「……王と、それ以外の駒。どちらが大事だと思う?」
「えっ……?」
「取られれば負ける駒と、動かなければ勝てない駒。どちらが大事だ?」
蛍は、盤上に視線を落とした。見つめながら、何か、駒が行きたそうな場所が、あるような気がした。
その駒を手に取り、指した。
「……どちらも、大事だと思います。お互い、なくてはならない存在だと」
宗玄はその一手を確認してから、ゆっくりと顔を上げた。
「ほう……」
そして、探るような低い声で。
「では、話を変えよう。……朔夜のことは、どう思っている」
心臓が、跳ねた。
「えっと、その……」
「……大事かどうか、聞いている」
「だ、大事です!」
「ふむ……」
それを聞くと、宗玄はわずかに口元を緩めた。
「……『兄妹』に、なれたのだな……」
「え?」
「しばらく離れていただろう」
掴みどころのない言葉に、翻弄されている感覚が拭えない。
「……こちらに来てから、一緒に過ごすようになって、大切な時間を過ごせていると、思います」
「そうか。……ならば」
宗玄が駒を取った。
「……傍で、支えてやることだ」
王手が告げられた。
◇
宗玄の書斎を辞した蛍は、そのまま黒崎邸のリビングへ戻った。ソファで資料に目を通していた朔夜が、顔を上げる。
「……どうだった」
「負けた。……ボロ負け、でした」
肩を落として、蛍はソファに崩れるように腰を下ろした。
「……瞬殺だったんだな」
「ち、違うよ! 五分は持ったよ、五分は……!」
心外だとばかりに声を張る蛍に、朔夜はわずかに口の端を緩めた。
その時、テーブルに置いていたスマートフォンが鳴った。画面には「橘」の文字。
まだ祭りまで日があるはずなのに、と思いながら、蛍は通話ボタンを押した。
「もしもし、黒崎です」
『黒崎さん……申し訳ありません。少し、困ったことになりまして』
声の調子だけで、良い報せでないことは分かった。
『河川敷付近の会場を使用する予定だったのですが……県の方から、急に差し戻しがあったんです』
「え!? そんな……」
『申し訳ない。本日の午前中に、突然、『イベント目的で土地の使用許可は出せない』と言われまして……』
通話を終えると、蛍は朔夜にその内容を伝えた。
「……赤城だな」
「兄さん」
「律が何もせず手を引くとは思えない」
再開発は、確かリゾート地を建設する予定だった。役場を落とせなかったから、外堀から、県に交渉して土地を押さえたのだろう。
「……もう、夜も遅い。明日、皆にこの話を共有して、整理して考え直そう」
だが、翌日。さらに追い打ちがかかる。
『黒崎さん。祭りに出店予定の店舗が、いくつか辞退されました』
「どういうことですか!?」
『店舗自体を畳まれたお店もあります。おそらく、店を売却したのかと……』
青ざめる蛍。役場との交渉が失敗した赤城は、外堀から、直接地主や店舗を買収する形で、再開発を進めようとしている。
朔夜が電話を代われと目で合図する。
「お前は先に皆を集めて会議をしておけ。橘さんの話は俺が聞いておく」
電話を、朔夜が引き継いだ。
◇
全体会議の場に入った朔夜。祭りについては河川敷付近が使用できなくなったので、場所を商店街に移し、参加希望の店舗をとりあえず確保する形で進めることとなった。
その案に一同は頷き、すぐさま動き始めた。
各自が代案の実行に向けて退出していく中、朔夜は手元の資料に目を落としたまま、その場に留まっていた。
……たとえ祭り会場を商店街に移したところで、所詮は一時しのぎに過ぎない。
河川敷を押さえた赤城の資金力と手口を考えれば、奴はまずそこを起点に開発を進め、ゆくゆくは商店街へ、そして町全体へと広がっていくはずだ。外堀を埋められ、過剰な開発に飲まれれば、朝霧の持つ本来の自然も風景もすべて消し去られてしまう。
「……」
そしてもうひとつ、気になることがあった。
先ほどの橘との通話で、朔夜は引っ掛かっていることを尋ねていた。
規模の大小にかかわらず、商業リゾートのような大型施設を建てるのであれば、施工側は真っ先に交通や輸送の導線——インフラ整備に着手するはずだ。大型重機の搬入路や、完成後のアクセスを見越した道路の拡張、周辺網の強化といった計画が事前に動き出していなければ筋が通らない。
だが、朔夜が橘から聞いた話では、鉄道や道路拡幅など、交通インフラの動きは何も無かったという。
真っ先にそこから手を付けるはずだが……。
客を呼ぶための商業地のはずなのに、そこに着手していないとなると……。
――最初から、人が来ることを想定していない?
……本当にこれは商業リゾートを建設するための、再開発なのか?
朝霧を選んだのも、あえて交通の悪い、人のいない地を選んだのだとしたら……。
「朔夜さん?」
静まり返った部屋に声が落ちた。
振り返ると、一同と共に退出したはずの陽人が、一人で部屋に戻ってきて扉の前に立っていた。
「何か、考え事をされてるみたいですが……よければ僕にも教えてください」
真っ直ぐな視線が、朔夜に向けられている。
「……別に、何も考えていない。言った通り、商店街での代替案を進めればいい」
「……嘘です」
陽人の声に熱がこもり始める。
「みんなが出て行ってから、顔つきが少し変わっていました。深刻そうな……。一人で考えなくても、共有してくれたら、何か突破口が見つかるかも——」
「何度も言わせるな。何も考えてはいない」
陽人を直視することなく、冷ややかな横顔のまま言い捨てる。
「……今までずっと、そうしてきたんですか?」
「……」
「僕はまだ、頼りないでしょうか?」
朔夜は、迷いなく見つめてくる陽人の瞳を一瞥した。その、眩しくて直視できない目を。
「頼りないとは思っていない。……今、俺が少しよぎったことは、思い違いかもしれない。だから、教えるほどのことではない」
「朔夜さんは、聡明な方です。恐らく思い違いではなく——」
「お前の助けは不要だ」
言葉を選ばず、切り捨てた。
「……助けが不要、ですか」
陽人はその言葉を噛みしめるように呟き、固く拳を握りしめた。
資料を手に取り扉に近づいた朔夜は、すれ違いざま、陽人の顔を見ずに言い添えた。
「……お前が助けるべきなのは、俺じゃなくて蛍たちだろう? 俺に手を貸す暇があったらあいつらを手伝ってやれ」
「——っ」
言葉を失う陽人を残し、朔夜は部屋を出た。陽人はもう、彼を引き止める言葉を見つけられず、ただただ歯を食いしばっていた。
廊下へ出た朔夜は、静かな足取りで歩を進めながら、胸の奥で冷たく思考を研ぎ澄ませていた。
——赤城を一番知っているのは俺だし、律を裏切ったのも俺だ。
あのグループが何を企んでいるのか。律は何を知っていて、何をしようとしているのか。律を裏切った俺が、あいつを一人にしてしまった俺が、正面から引き受けなければならない責任だ。
だからこそ、陽人や蛍たちの純粋な善意を、その領域に踏み込ませるわけにはいかない。
——このつけは、俺一人で払う。俺が、あいつを止める。
朔夜は一度も振り返ることなく、静まり返った廊下を一人歩み去った。
◇
朔夜は自分の携帯から、律へ電話をかけた。数コール鳴ったところで、留守番電話に切り替わる。
呼び出し音だけが虚しく響き続け、結局、律が電話に出ることはなかった。
朔夜は上着を掴むと、赤城グループの本社ビルへ向かった。
◇
アポなしでの訪問だったが、受付で名前を告げると、意外なほどあっさりと最上階の社長室へ通された。重厚な扉を開けると、奥のデスクに律が座っていた。
「……何の用だ。金を振り込む気になったか? それとも土下座でもしに来たか?」
デスクに座ったまま、律が皮肉げに笑った。
朔夜はまっすぐ律のデスクへと歩み寄り、そのまま切り出した。
「単刀直入に聞く。朝霧で、何をしようとしている?」
「……再開発だよ」
律は手元の書類から目を離さず、淡々とした声で応じる。
「リゾート建設ではないだろう。インフラ整備に、手をつけないなんて」
律の表情から、笑みが消えた。
「……」
「何を、建てる気だ」
しばらくの沈黙の後、律はふっと口の端を上げ、ゆっくりと顔を上げた。
「……女には鈍いくせに、そういうのは鋭いな」
「茶化すな。……答えろ」
「答えて、どうする?」
律は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「俺はただ、上の指示に従って、やってるだけだ」
「なら、やめてくれ。お前がそんなことを——」
「犬に、選択肢があるとでも?」
律の声が、初めて鋭さを帯びた。
「俺は確かに社長だが、そんなもんはただの肩書きで……お前と違って、俺に決める権利は無い」
「……」
「無いんだよ」
吐き捨てるように言った律は、それ以上何も語らず、冷ややかな視線をただ朔夜へと向け返していた。
「……律」
「話は終わりだ」
律は席を立ち、ドアを指し示した。それ以上、何を言っても、無駄なようだった。
朔夜は、何も言わずに、社長室を後にした。
◇
朔夜は帰宅途中、藤堂へ電話をかけた。
「どうしました、坊ちゃま」
「黒服を何人か、朝霧へ。建設業者や大型車があれば、それを確認してくれ。赤城が関わっている県への届け出を可能な限り調べろ。後は、赤城の取引先を洗い出せ」
「承知しました」
◇
二日後。朔夜が赤城を独自で調べていた最中、陽人がアポなしで黒崎ビルに来た。
「何の用だ?」
「朔夜さん、これ見てください」
二人は朔夜のデスクの前にある、来客テーブルに座り、資料に目を落とした。
陽人が見せたのは御影の発注リスト。その品目は医療施設で使用する一般的な物ではなく、どれも専門的な医療器具や、研究用の設備で使用する物であった。数量もかなりの規模であり、納品先は朝霧となっている。
「……医療施設や研究施設の建設は再開発計画の中にもあって、実際に僕のところにも赤城さんからその話はあったのですが……ただ商業地の付随としての医療施設にしては、規模が——」
「誰に言われた?」
朔夜の鋭い目が、陽人を刺す。
「……自分で、調べて……」
「不要だと言ったはずだ」
陽人は手を握り締めた。
「でも、この資料は、真相に早く近づくものではないんですか?」
「……」
「朔夜さん」
「これは有難く貰う。だが、もう手出しはするな」
「どうして!」
陽人は立ち上がって声を上げた。
「……お前たちの手に負える領域ではないからだ」
「だったら、なおさら一緒に——」
「そういうところだ」
「え?」
朔夜も立ち上がって、陽人を見据えた。
「……無遠慮に、手を差し伸べようとするところ。自分なら、人を助けられると思っているところ。俺を、自分が支えなければできないと、決めつけているところ」
「ち、違います!!」
「違わない。お前のそういう、自分が手を貸せる強者だと思っているところが——」
冷たく言い放った。
「——傲慢だ」
陽人の顔から、血の気が引いた。やがて、その頬がみるみる赤く染まっていく。
「……そんな、つもりは」
それ以上、紡げず、陽人は俯く。
「そんなに人助けがしたいなら、その優しさを蛍に向けたらいいだろう。まだ想っているんだろうが」
突き放すような声で言い放った。
「……あなたも」
「なんだ」
「さっき、蛍を助けろって言いましたね。あなたも、蛍を弱いと決めつけてますよね?」
「……」
「蛍は、弱くなんかない」
震える声でそう言うと、陽人は扉の方へ向かい、ドアノブに手をかけた。
「……朔夜さん。あなたは、四年前と、何も変わってない。冷酷で、身勝手で、独りよがりなところが」
それだけ言い残し、陽人は部屋を出た。
独り残された朔夜は、静まり返った部屋で、誰に言うでもなく、呟いた。
「……お前の、諦めの悪いところもな」
◇
独りになった陽人は、御影ビルへ戻る途中の公園のベンチに座り込んでいた。
朔夜の、冷たく言い放たれた言葉が、耳から離れない。
――傲慢だ。
言い返せなかったのは、図星だったからだ。自分が人に手を差し伸べるのは、純粋な優しさだけではない。そうすることで、自分が、本当に人に必要とされている気がしたから。そこを、見透かされたのだ。
蛍のことも……もしかしたら、助けたかったからじゃなくて、自分が、必要とされたかったから? いい人に思われたかったから? 自分なら、このボロボロだったあの子を助けられると思ったから?
それは、自分を強者と思い込んだ、独りよがりだったのかもしれない。
自分が朔夜へぶつけた言葉が、自分自身に返って突き刺さる。
数週間前の朝霧の宿で、夜中にうなされていた朔夜の姿が脳裏をよぎる。苦しそうに呻いていた朔夜を、自分なら何か助けられると、思ってしまっていたのか。差し出した手を受け取ってもらえると、思い上がっていたのだろうか。
ふと、視線を上げると、公園のブランコで仲良さそうに遊ぶ小さな兄妹の姿が目に入った。
――僕は、あの兄妹を、可哀想だと思ったんだろうか。弱者だと決めつけたんだろうか。差し出した手を掴んでもらうことで満足したかっただけなんだろうか。
考えるほどに、胸が締め付けられた。こんな感情は、生まれて初めてだった。
「僕は……自分の身勝手のせいで、あの二人を傷つけていたのか……」
目から、涙が落ちた。
助けたつもりでいたけど、本当の意味で、手を差し伸べてなかったんだ……。
「……うっ、うぅ……、ごめん……」
滲んだ視界の向こうで、ブランコを降りた兄妹が、肩を並べて歩いていく。小さな背中が、公園の出口へ遠ざかっていった。
――我儘くらい、ここで言っても大丈夫。
暗がりの水辺で聞いた声が、耳の奥に蘇った。
あの夜、蛍は、我儘な自分を責めなかった。思い上がりだったと打ち明けても、一度もこちらを見ないまま、隣にいてくれた。
――たしかに、あなたの言うとおり、傲慢だったのかもしれない。
誰かに必要とされたかった。自分を認めてほしかった。きっと、どこかに優越感だってあったはずだ。
そんな不純な気持ちがあったことも、本当だ。
――でも。
あの水辺で、背を向けて逃げようとした少女。
いつ消えてもおかしくないところにいて、それでも、もがくように息をしていた。暗がりの中、あの子の周りを漂っていた、小さな光みたいに。
彼女に声をかけて引き留め続けたのは、見て見ぬふりをして、後悔したくなかっただけなのかもしれない。
けれど、彼女が連れて行かれた時、もう僕がそれを続ける必要はなくなった。差し出された金を受け取って、そこで終わってもよかった。
受け取らなかった。諦めずに、三年かけて、ここまで来た。
それが全部、自分のためだったとは、どうしても思えない。
想いの全てが、嘘だったわけじゃない。
陽人は、膝の上で拳を握った。
「――それでも、僕は、あなたたちに、手を差し伸べたい」
今度は、掴んでもらうための手として。




