朝霧町復興編(後編1)
蛍が律のもとを訪ねた後、朔夜はこの件について謝罪しようと、律に電話をかけていた。が、何度かけても繋がらなかった。数日間、同じように電話をかけたが、向こうからの折り返しもない。無理もない。契約も締結した案件を、こちらが勝手に踏みにじったのだから。
だが、どうしても胸の内が晴れず、どうにか会えないかと思った朔夜は、かつて最初に律と顔を合わせた、雑居ビルの地下のバーへ、足を進めていた。
入口の扉を開けると、カウンターの隅の席に、やつれた横顔があった。
そのまま中に入り、その気だるげな男の元へ向かう。
「……律」
その声を聞いた律の眉が、ぴくりと動いた。律は煙草の火を消すと、手を上げてマスターを呼び、同じ酒を朔夜に注文した。
「何の用だ」
「……すまなかった」
「何の謝罪だ」
カウンターに水割りが置かれる。
「全部、だ。資金のこと。直接俺が説明に行くべきだったのに、秘書に——蛍に任せたこと。勝手に復興に切り替えたこと、全部」
「……謝るなよ」
律は、手元のグラスを見つめながら、吐き捨てるように言った。
「謝るくらいなら、俺と協力しろよ。謝罪ってのは、自分が許されたいから、楽になりたいからするもんだ。違うか?」
そこで初めて、律がこちらを向いた。その目には、失望や怒りなどの感情が混ざっていた。
その目に睨まれて、思わず顔をそらした。
自分の口からは、謝罪しか出てこない。それ以外の言葉が見つからない。
だが、その男は……謝罪すら許さない。
「お前の、言うとおりだ」
絞り出した言葉は、それだけだった。
「ふん。お前とやれると思ってた……俺が馬鹿だったよ」
律は静かに、酒を呷る。
「……あの復興プロジェクト、ちゃんとやるらしいな。真っ先にネットで見たぜ」
黒崎グループは朝霧町へ復興案を説明し、町長の承諾を得ると、『朝霧町復興プロジェクト』を外部公募として正式に発表した。地方紙だけでなく、全国ネットのニュースにも取り上げられ、思いのほか反響を呼んでいた。既にいくつかの企業は、プロジェクトに参加したいと手を挙げていた。
「……冷静だと思ってたお前が、あんな小さい町を手助けするとは。妹がいると、感情的になるのか」
「それは、違う。あくまで、経営上の判断として——」
「どうでもいいね」
律は言葉を遮ると、グラスを空にして、伝票の上に札を置いた。
「……勝手にやれよ。ただ、うちはうちで、勝手にやらせてもらう」
律は一度も振り返ることなく、そのまま店を出て行った。
「……律」
残された朔夜は、律の出て行った扉をしばらく見つめ、やがて口を着けていない水割りに、目を落とした。
——グラスの中の氷が、からんと、小さな音を立てて崩れた。
◇
朝霧町復興プロジェクトにいち早く参加を表明したのは、御影陽人だった。
蛍の携帯に、陽人からの着信が入る。
「陽人くん。この前は本当にありがとう。……お父さん、説得できたんだね?」
蛍が嬉しそうに尋ねる。
『うん。東京に戻ってすぐ、もう一度父さんと話したよ。別に研究施設は朝霧でなくとも、土地がある場所や既にある研究施設でも十分できるんじゃないかってね。図書館で調べた医療書や手記の話をしたら、それが利いたみたいで、そういった医療の書物や歴史ある場所を無くすのは、惜しいってね。それに——』
電話越しの陽人が、ふっと語気を弱める。
『……ホタルのいる場所や満天の星空が見られる場所がすごく綺麗だよって教えたら、めちゃくちゃ食いついてきた。……僕と蛍のことも、根掘り葉掘り聞かれたよ』
「陽人くんのお父さんって、ロマンチストなんだね」
『いや、ただの恋愛好きっていうか、女たらしと言うか……僕は違うからね!?』
慌てて付け加える陽人の声に、蛍はくすりと笑った。
『で、本題なんだけど。朝霧にある町の病院や医療関係の施設の改修、設備の提供という形で、御影からは協力できると思う』
続けて陽人は、いくつか支援できそうな案を提示してくれた。
「ありがとう、色々考えてくれて」
『いや。あと、それから……あのヒーリングランプ、いいね』
「もう見たの?」
『うん』
蛍の試作品から始まったヒーリングランプは、松岡の企画が採用され、本プロジェクトの始動とともに正式な共同商品として先行販売が始まっていた。
『光は、物理的に病巣や患部に当てることだけを考えていたけど、そういや医療書に精神療法のことが書いてあったよね。不眠治療とか、メンタルケアとしての方向で、朝霧にそういった心療の施設を設置できないか考えている。空き家を改修して、そこを施設としてね』
「……陽人くん。わたしより、良い案たくさん出してる」
『そんなことないよ。あれ? 拗ねてる?』
「拗ねてません!」
少しいじけた蛍の声を聞き、クスクスと陽人が笑っていた。
——その後も、プロジェクトに参加したい企業からの電話があった。陽人と共に倒産の危機を救った桐生商事からも「微力ながら協力させてほしい」と申し出があった。
中でも勢いがあったのは、広報会社リグレットの神代だった。
『いやあ~、こんなええ場所に胸が熱くなるプロジェクト、最高やん! 俺も一肌脱がせてもろてよろしいか?』
「ぜひお願いします!」
『そらきた!! じゃあ朝霧のPRはこの神代に任せとき!! 実はもう構想を練ってるところですわ。近々、打ち合わせに伺わせてもらいます~』
自分が立ち上げた小さな灯りが、町を守ろうとする人たちを次々と引き寄せていく——蛍は胸に手を当て、じんと温かい余韻に浸っていた。
◇
その日、朔夜は宗玄に書斎に呼ばれ、将棋を指していた。月に一度あるか無いかの、数少ない父との時間である。
ぱち、ぱち、と指す音だけが響く部屋で、宗玄がおもむろに口を開く。
「朝霧の件、再開発ではなく、復興に切り替えたそうだな」
「はい」
「……らしくないな。お前があの廃れた町を建て直す理由がわからん」
「復興の方がメリットがあると、経営上判断しました」
「ほう?」
盤面に目を落としていた宗玄が、顔を上げた。
「その判断が正しかったかどうか、見ものだな」
宗玄は口元を少し緩め、目を細める。
「父さんの期待に応えられるよう、プロジェクトに尽力いたします」
朔夜はそう答えながら、当たり障りのない一手を指そうとして、ふと手が止まった。
——この駒、ずっと動かしていないな。
盤の隅で、対局開始からほとんど動いていない駒に、目が留まった。
何となく、それを動かしてみたらどうなるかと考えていると、何かその駒が行きたそうな場所が、見えたような気がした。
——その瞬間、ふと、脳裏によぎった。一か月ほど前の、蛍と指した一局のことが。
将棋を教えてから、半年余り。今ではもう、ルールを間違えることは無くなっていた。だが、時折、定石からは外れた、的外れとしか思えない手を指すことがあった。
「……なんで、そこに置いたんだ」
聞くと、蛍は不思議そうな顔をした。
「え? なんとなく、ここに行きたそうだったから」
的外れな答えだと、思っていた。将棋は感覚で指すものではない。相手の先を読んで、指すものだ。
だが——時折、その一手が、朔夜の想定していなかった局面を作り出すことがあった。虚を突かれる、というのが近い。悪手のはずなのに、なぜか盤面全体の均衡が、崩れる。
——だが。
朔夜は、盤面を見つめ直した。
ずっと動かしていなかったその駒。自分の考えでは動かす理由は特に無かったが、ふと、駒自体が行きたがっているように見える位置が、目に留まった。
計算上は、悪手に近い。だが、あえて、その一手を指した。
それから交互に数手指した時——盤面の均衡が、微かに崩れた。
「……ほう」
宗玄の眉が、わずかに動いた。
それからお互い、盤面から目を離さず、続けた。
いつも迷わず駒を動かす宗玄が、少し迷ったような、そんな気がした。
——駒には、行きたい場所があるのかもしれない。
対局は、その後も続いた。忖度なく指したつもりだったが、朔夜が劣勢になる。だが、いつもと違い、宗玄の眉間に、小さな皺が寄っていた。
最後、宗玄の一手で、勝敗は決した。
「……」
なぜだろう。少し前までは、負けても何も思わなかった。それどころか、指している間も、次どの手を指そうか、どうすれば勝てるか―—勝ちたい、悔しいなどの感情なく、ただ駒を置く、作業のような将棋だったのに。
なのに、今、勝てなかったことが、うまく駒を導けなかったことが、悔しいと感じる。
あれほどこの時間に、意味はあるのかと思っていたのが、遠い昔のように感じる。
「父さん。次はいつ空いてますか」
朔夜の方から、『次』を、聞いていた。
宗玄の、駒を片付ける手が止まる。
「……さて、な」
それだけ言うと、盤を片付ける手を再び動かし始めた。それ以上は何も言わなかった。




