朝霧町復興編(前編2)
そのニュースは、御影陽人の目にも留まっていた。
朝霧町の再開発について、父にどう思うか聞いてみた。
「別にいいんじゃねーの?」と、聖治はあっさりと答えた。
「あの町に大きい医療施設も建てるみたいで、ちょうど俺のところにも赤城さんから話が来たよ。この前、お前が医療研究のプレゼンしてただろ。その研究の施設も設立してくれるそうだ。今後の医療のことも考えると、まったくもって悪い話じゃない」
「……」
「なんでそんな不服そうな顔するんだよ。お前のやりたい研究がでかい施設でできるようになるんだぜ?……お前が朝霧町での時間を大事にしてたのはわかる。でも、思い出が無くなるわけじゃないだろ?」
父以外の、御影本社の従業員や現場の人たちの意見も、同じように賛成していた。
父の言っていることは、正しいと思った。自分のやりたい、プレゼンで語った研究が、本腰を入れてできるかもしれない。
ただ、あの町には、想い出がある。それも、すごく大切な……。
ホタルの光が実際にどんなものか知りたくて見に行ったが、あの水辺で実際この目で見たホタルはすごく幻想的で、綺麗だった。医療のことを抜いたとしても、訪れてよかったと思える場所だ。私情を含めると、寄ってくる人から逃げたくて、独りになれる場所として、好きだった。
それに、蛍。彼女との原点の場所。それが無くなるかもしれないのは、再開発を素直に受け入れられない、個人的な、強い理由だった。
「僕って、こんなに我儘だったんだ……」
どちらに天秤を傾ければいいのか、わかっているのに。誰にもこの自分の、素直で、身勝手で、柔らかい気持ちを受け入れてもらえないことが、優先してもらえないことが、なんだか悲しかった。
◇
三日後。陽人の足は、自然と朝霧町を訪れていた。
四年前と変わらない空気であったが、心なしか人が少なくなっている気がした。
陽人はそのまま、昔のバイト先の鳥よしに向かった。久しぶりに店長に会った。覚えててくれていた。
「そもそも人が減ってるのもあるが、お前がいなくなって売上はすこぶる悪い。店も閉めようと思ってたところに、再開発の話が来た。金が貰えるなら、別にそれでいいと思ってる」
あの店長でさえ、再開発を受け入れていた。僕だけがおかしいのだろうか。町も、同じ答えを出しているのだろうか。
確かめたくて、陽人は町役場へ足を向けた。
しかし、町の意見も似たようなものだった。納得したわけではないが、選択肢はなく、町がこのまま消えゆくよりはリゾート開発することで活気が出るのであれば反対する理由はないと言う。
「……そうですか」
陽人はそれだけ言うと、役場を後にした。
――もうすぐ、日が沈みそうだ。陽人は町が無くなってしまう前に、最後に思い出の場所を見ておこうと、ホタルの水辺へ足を向けていた。
これまで、差し伸べた手で、誰かを助けることができた。けれど、小さな田舎町ひとつ残すことさえ、自分ひとりではどうしようもなかった。
陽人は、自分の手のひらに目を落とした。助けを求める人を掴んで、引っ張り上げてきた手だった。
握り締めると、ひどく小さく思えた。
木々の生い茂る道を歩く。このまま進むと、小さな水辺へ辿り着く。
独りに、なりたい。
いつもホタルを見る時に座っていた大きめの石は、まだあるだろうか。
そんなことを考えていると、少し開けた水辺に着いた。
……先客がいた。
陽人は思わず、踵を返した。
――ぱきっ。
足元で小枝の割れる音がした。
「――待って!」
逃げようとした陽人を、呼び止める声。抗えず、その場で止まった。
ゆっくり振り返ると、向こうにいる女性――蛍もこっちを見つめていた。
「陽人くん。……一緒に見よう」
◇
ホタルが揺らめく水辺を前に、二人で並んで座った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。漂うホタルの光が水面に映る。夏の虫の声がする。その景色と音は、四年前と変わらなかった。
「……わたし、実は、もう三日前から、こっちに来てるの」
先に口を開いたのは、蛍だった。
「……え?」
陽人が、隣を見た。
「町役場とか、商店街とか、昔お世話になった人のところとか……色々、話を聞いて回ってて」
朝霧町のニュースを目にしてから、しばらく悩んでいた蛍は、一週間の休暇申請を出していた。突然の申し出にもかかわらず、朔夜は理由を追究することなく「好きにしろ」とだけ言い、護衛として黒服の馬場を一人添えて休暇を承認してくれたのだった。
◇
朝霧駅に降り立った蛍が最初に向かったのは、町役場だった。しかし役場から聞いた話は陽人が聞いたそれと同じであった。
次に、かつて夏祭りのときに浴衣を仕立ててもらったきもの屋、「きもののみやび」に足を運んだ。
ガラガラと引き戸を開けると、奥から出てきた店主のおばあちゃんが、蛍の顔を見るなりパッと表情を明るくした。
「あら……! あの時の、お嬢さんじゃないかい?」
「……覚えて、くださってるんですか?」
「覚えているとも。あの夏祭りの時、照れながら綺麗に着付けさせてくれたじゃない。……まあ、すっかり綺麗で立派な大人になって」
懐かしい笑顔に目頭が熱くなる蛍だったが、再開発の話を切り出すと、おばあちゃんは寂しそうに目元を緩めた。
「まあ、時代の流れだから仕方ないねぇ。この町も人が少なくなって、着物を着てくれる人もすっかりいなくなっちゃったから。……町が綺麗になるなら、それでいいのかもしれないね」
次に向かったのは、高校時代に何度も足を運んだ図書館だった。
静まり返った館内に入り、カウンターへ向かうと、女性司書が蛍に気づいた。蛍が名刺を渡すと、小さく声を上げて微笑んだ。
「……黒崎さんってお名前だったんですね。あなたのことは覚えております」
「え?」
「学生時代、利用されていましたよね。……あの爽やかな感じの男の子と一緒に本を読んでらっしゃいましたよね。初々しいお二人でしたから、とても印象に残っていますよ。……あれから、彼とはどうですか?」
思いがけない世間話と見られていたんだという事実に、蛍は少し頬を染めながら「あ、ええと……」と言葉を濁した。司書は優しく微笑んだあと、ふと目元を翳らせた。
「——ここも、再開発で取り壊されることになったんです。元々、利用される方も少なくなっていましたから……。でも、昔からの歴史ある本や、郷土資料がどうなってしまうのかと思うと、やっぱり寂しいですね」
蛍は静かに頷き、館内の奥へと歩を進めた。
棚の隙間を抜け、辿り着いたのは「自然科学」のコーナーだった。書棚の隅に、十七歳の頃、陽人と一緒に開いた『星の図鑑』が、当時と同じようにひっそりと収められていた。
そっと指先で背表紙をなぞる。
——この本も、取り壊しと一緒に無くなってしまうのかな。
図鑑を棚から引き抜き、パラパラとページをめくると、あの日見上げた夜空や、陽人の横顔が鮮明に蘇ってきた。
あの頃のように、二人でこの図鑑を開きたい。そして、陽人が今目指している医療の本も、ここで一緒に並んで読めたら——。そんな小さな願いを胸に、蛍はそっと図鑑を元の場所へ戻した。
◇
蛍の話を聞き終えた陽人は、しばらく黙って、やがて口を開いた。
「……僕だけだと思ってた。再開発にモヤモヤしているの」
微笑もうとしたが、うまく笑えなかった。
「研究のためには、再開発の方が正しいんだ。父さんも、みんなも賛成してる。……なのに僕は、思い出の場所が無くなるのが嫌だって、それだけで」
「……」
「自分の私情を、優先してしまった。……我儘だよね、僕」
蛍は膝を抱えたまま、続きを待っていた。
「今まで、助けてって言われたら、困ってる人がいたら、手を差し伸べてきた。実際、助けられた。だから、何でもできる気になってて……。でも、町ひとつ残すこともできない。……ただの、思い上がりだった」
口にすると、思った以上に声が沈んだ。誰にも――いや、蛍にだけは、聞かれたくなかったはずなのに。
「ご、ごめん。こんなこと言うはずじゃ……」
「……ここなら、誰もいないよ」
「え?」
「それに、暗いから」
「……」
「陽人くんも、わたしも、どんな顔をしていても、見えない。泣いても、怒ってもバレない」
蛍は、水面を漂う光に目を向けたまま続けた。
「わたし、学生の時――陽人くんと出会う前まで、ずっとここで、ひどいことをたくさん言ってた。学校の子たちとか、おじいちゃんとか。……誰にも聞かせられないようなことを」
淡い光が一つ、二人の間をゆっくりと横切っていく。
「綺麗で、誰もいない場所で。ホタルだけが聞いてくれた。わたしの汚い部分も……。だから我儘くらい、ここで言っても大丈夫」
「……ホタル、だけが……」
陽人は、光の行方を目で追った。
人の目から逃げて、独りになりたくて、ここへ来ていた。誰にも言えないことを抱えて、黙って光を眺めていた。
蛍も、同じだった。
暗がりの中で、蛍はずっと水辺の方を見つめていた。見ないでいてくれたのだと、陽人には分かった。
「……朝霧町のことだけど。みんな仕方なくってことは、素直に賛成しているわけではないんだよね」
「うん。……わたしも、そう」
「……よかった。君も、同じ意見で」
「当たり前だよ。……大事な場所と想い出があるんだから」
そう言い切った蛍は、少しだけ声を上ずらせて、陽人の方へ顔を向けた。
「明日、もう一度図書館と、それから天の川駅に行こうと思っているけど。……よかったら、一緒に行く?」
陽人は頷いた。
二人の間に、どこか安堵に似た沈黙が、そっと降りていた。
ただ、隣にいる。それだけで十分だった。




