朝霧町復興編(前編1)
——孤独に耐えられる者だけが、王になる。
かつて黒崎宗玄が放った言葉を、朔夜は思い出していた。
あれから、半年以上が経つ。社長室のデスクに積まれていた決裁書類は、今ではほとんど残っていない。部課長たちは自ら判断し、自ら報告するようになった。業務も会議も滞りなく進み、以前のように朔夜一人が矢面に立つことも無くなっていた。
「坊ちゃま。最近は、随分と定時でお帰りになられますな」
車を出しながら、藤堂が世間話のように言った。
「坊ちゃまに集中していた業務が分散され、以前より滞りなく進んでおるように見受けられます。……坊ちゃまも、数字や経営そのものに、より集中できるようになられたのでは」
「……そうだな」
朔夜は、窓の外を眺めながら、短く答えた。
「早くお帰りになれる日が増えて、蛍様も、お喜びのようですし」
藤堂は、バックミラー越しに、微かに目を細めた。
朔夜は、それには答えず、ただ小さく頷いただけだった。
——社員を、本来のあるべき正しい場所に、配置しただけだ。
父が喩えた、将棋の考え方と同じだ。飛車には飛車の、歩には歩の、それぞれふさわしい持ち場がある。誰に何を任せるか、それを見極め、正しく配置する。それさえできれば、盤面は勝手に、あるべき形へと収まっていく。
——父さんの言うとおりだった。
情に流されず、一人で盤面全体を見渡し、判断を下し続けること。それが、王という役割の、正しい在り方なのだと、身をもって感じていた。
そんな折——律から、久しぶりに連絡があった。
◇
律との再会から数日後のことだった。
朔夜の携帯に、直接連絡があった。この前偶然会った、雑居ビルのバーで直接話がしたい、という内容だった。
朔夜はその日の仕事を早めに切り上げ、指定のバーに向かった。
◇
その夜。黒崎ビルから少し離れた、雑居ビルの地下のバー。カウンターの隅の席に、律は、すでに座っていた。
「——早いな」
朔夜が言うと、律は、グラスの中の氷を揺らしながら、片方の眉を上げた。
「呼び出しといて、相手を待たせる性分じゃないからな」
朔夜は、隣の席に腰を下ろした。マスターに、いつもの水割りを頼む。
「……またそれかよ。相変わらず、辛気臭い水割りだな」
律は横目に見ながら、朔夜に続いてお代わりを注文した。
「わざわざ呼ぶなんて。何の用だ?」
「……お前は世間話もできないのかよ。まあいい。……いい取引の話をしに来た」
律は鞄の中から資料を取り出した。
「うちが、前当主の代から進めてる案件だ。過疎地の一帯を買収して、更地にして、リゾートを作る。……よくある話だろう」
資料をカウンターの上に載せる。表紙には、事業計画のタイトルが記載されていた。
朔夜は、資料をめくる。地図と、概要に目を落とす。
「……朝霧?」
その地名に、朔夜の目が留まった。
「山陰地方の田舎だよ。……なんだ、知ってるのか?」
「……少しな」
引っ掛かりを覚えるような、何とも言えぬ顔をした朔夜を見つつ、律は続けた。
「……単刀直入に言う。お前のところの資本と、信用が欲しい。うちだけで進めるより、黒崎の名前が入ってる方が、地元も、行政も、話が早い。……お前にとっても、悪い話じゃないはずだ。廃れる一方の町だ。誰かが手を入れなきゃ、ただ朽ちていくだけだった土地に、資本を入れて、生き返らせる。……お前の会社は昔から、そういう案件が得意だっただろう」
朔夜は資料を、めくった。それなりの投資額が記載されていた。
「……検討してみる」
——朔夜は、四年前に訪れた、朝霧町を思い出していた。蛍の住んでいた古いアパート、通っていた高校、当時白石の苗字だった、御影陽人のバイト先の居酒屋、田舎の田んぼ道、河川敷……。
「思慮深いお前ならそう言うと思ったぜ」
律は、少し笑って、グラスを空にした。
「返事は急がない。……だが、あまり長くは待てないぞ。向こうも、動きが早い」
「……分かってる」
朔夜は資料を閉じて、内ポケットにしまった。
律は伝票に、軽く手を伸ばしながら、独り言のように呟いた。
「……こうしてお前と、仕事ができるとはな」
その声には、朔夜が知っている、施設時代の律の声が、少しだけ、重なって聞こえた。
◇
律が去った後、朔夜は独りその場で飲んでいた。まだ半分残っている水割りを飲みながら、四年前の朝霧町を浮かべる。印象にもなく、ほとんど覚えていないが、陽人と出会って追い返したことの他に、思い出したことがあった。
◇
——四年前。朔夜は黒服たちを使って、蛍が住んでいる町を探し当てた。
朝霧町という、山陰の田舎にいるらしい。
その町の朝霧駅から少し離れた場所の古いアパートに、彼女は住んでいるようだった。
昼過ぎ。
朔夜は、そのアパートの前に、立っていた。
蛍は今頃、学校にいる時間のはずだった。それを確認した上で、ここへ来た。
ドアの脇、色褪せた表札に、目が留まる。
『水瀬』
——母さんの、旧姓。
古びた文字を、しばらく見つめた。今は亡き母の面影が、一瞬だけ頭をよぎった。
朔夜は、小さく息を吐いて、インターホンを押す。
しばらく、応答はなかった。もう一度押そうとした、その時。
「……蛍かぁ!?」
怒鳴り声とともに、ドアが勢いよく開いた。
老人が、そこに立っていた。目が、血走っている。着ているものは、乱れていた。
玄関の靴は散乱しており、廊下の奥、わずかに開いたドアの隙間から見える部屋は、ごみや食器が散乱していた。
老人は朔夜を見て、一瞬、動きを止めた。それから、また怒鳴った。
「お前は、誰だ!」
「……」
——これが、瑞希さんの、父親か。蛍はこの人と、過ごしていたのか。
「……蛍さんは、こちらに、住んでいますか」
朔夜は、努めて、静かに尋ねた。
老人は、目の前の男が「蛍」と口にした瞬間、こめかみをぴくりとさせ、噛みつこうとする勢いで吠えた。
「お前か!! 蛍を夜、連れ出してるのは!!」
「……」
「そうなんだろう!! この、ろくでなしが!!」
老人は、朔夜の襟を掴みながら罵詈雑言を吐き捨てた。朔夜は、動かなかった。ただ、老人の目を、じっと見ていた。
そこには何も、映っていないようだった。怒りだけが、意味もなく、渦巻いているだけだった。
朔夜が二言ほど発言したが、会話は成立しなかった。何を言っても届かない。ここに、これ以上、留まる意味は無かった。
朔夜は、静かに襟を掴んでいる老人の腕を外した。
「……よく、わかりました」
それだけ言うと、朔夜は踵を返した。
老人はドアが閉まった後も、まだ何か怒鳴っていた。
車に戻ると、朔夜は電話をかけた。
「……療養施設を、一つ手配してくれ。今日中に」
短く、それだけ告げた。
窓の外、古びたアパートを一瞥する。
——これで、いい。
罪悪感は、なかった。ただ、静かな確信だけがあった。
別の日に、朔夜は蛍の通う高校を訪れた。
彼女の居場所を一通り見終わった後、朔夜は校長室に向かった。
事務員に圧をかけると、簡単に校長室に通してくれた。校長に名刺を渡すと、明らかに動揺した様子を見せた。
「……黒崎、様」
「黒崎蛍の、親族の者です」
朔夜は抑揚のない声で、切り出した。
「彼女の下駄箱と、机の状態を確認しました。……それが今の、この学校の"日常"だと、理解してよろしいですか」
校長は、言葉に詰まった。
「……その、いじめの実態については、把握は、しておりまして。ただ、なかなか、対応が」
「対応が、遅れている理由を、聞きたいわけではありません」
朔夜は、校長の目を、まっすぐに見た。
「黒崎グループが、この地域に、どれだけの影響力を持っているか。……ご存知ですよね」
「……は、はい」
「まあ、それは置いといて。……ところで、校長。いい椅子に、座ってますね」
朔夜は校長室を、ぐるりと見渡しながら言った。
「……明日も、その椅子に、座れるといいですね」
校長の顔から、血の気が引いた。
それだけ言うと、朔夜は席を立った。
振り返らずに、校長室を後にする。
——これで、十分だろう。
校長室を出た後、朔夜は担任にも話を聞くことにした。
「……先ほど、彼女の下駄箱と、机を見てきました。下駄箱には、土や虫が入れられていました。机には、卑劣な言葉が、いくつも書かれていました」
「……」
「……あなたは、知っていましたか」
「……さあ。何のことでしょうか」
担任は、あっさりとそう言った。
「私も忙しくてね。生徒のことを、隅々まで、見れてはいないんですよ」
「……そうですか」
朔夜は、しばらく、担任の顔を見つめ、やがて口を開いた。
「……ところで。あなたのお子さんは確か、隣町の中学校に、通っていましたね」
「……え?」
担任の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「ま、待ってください!! うちの子には、手を出さないでください!!」
朔夜は黙って、そのわかりやすい慌てぶりを、見つめていた。
「……では、どうすべきか、分かりますね?」
担任は、何度も、頷いた。
「わ、分かりました。分かりました……!」
◇
水割りを飲む。酒を飲んでも、流せないような気持ちになった。祖父は施設に送った。もう害はない。あいつらは……まだ朝霧にいるんだろうか。
再開発をして、土地が新しくなる。上書きすれば、そのつらい過去も、消えるだろうか。
朔夜は残りの水割りを飲んだ。もうほとんど、味がしなかった。
◇
黒崎ビルの廊下で、蛍はすれ違いざまに、総務の成瀬課長に声をかけられた。
「黒崎さん、これ。今週の業界ニュースまとめです。目を通しておいてもらえると助かります」
「あ、ありがとうございます」
受け取った紙束の一番上に、見出しが躍っていた。『赤城グループ、朝霧町エリア再開発事業に着手か』。何気なく視線を落としたその瞬間、蛍の表情が、わずかに強張った。
「……?」
成瀬はそれに気づいたが、何も言わなかった。ただ、少しだけ気にかけるように、蛍の顔を見てから、会釈をして去っていった。
蛍は書類を胸に抱えたまま、しばらくその場から動けなかった。
社長室のドアをノックすると、いつもと変わらない、冷静な目をした朔夜が、書類に目を落としていた。
「……どうした」
視線に気づいて顔を上げた朔夜と、目が合う。蛍は、先ほど受け取ったレポートを差し出した。
「これ……わたしが、昔住んでた町なんです。……ここが、再開発されるみたいで」
朔夜はレポートを受け取って、数秒だけ目を通した。
「……赤城か。あの町一帯を買収して、更地にしてリゾート開発。……過疎地の土地は安い。よくある手だ」
「更地……」
「住民には移転補償が出る。廃れた町なら、悪い話ばかりでもない」
朔夜は、それだけ言って、レポートを蛍に返した。事務的な感想だった。
「……そんなに、気になるのか」
黙って固まっている蛍に、問いかけた。
「……えっと、少し」
「お前は、朝霧町の再開発が、嫌なのか?」
そう聞かれて、蛍は口をつぐんだ。何かを言う前に、朔夜が畳み掛けた。
「……あの町で、嫌な出来事があっただろう。それにこれは、うちの案件でもないから、口出しできるものでもない」
淡々とした声でそれだけ言うと、もう一度レポートを突き返した。
「……そう、だよね」
蛍は、それを受け取って、自分のデスクに戻った。戻ったけれど、手が動かなかった。
◇
昼休み。蛍は食堂に来ていた。二十人ほどが入れる小さな食堂で、社員がちらほら座って昼食を取っていた。
なんとなく気が進まず、食欲もなかったので、サンドイッチとオレンジジュースを頼み、中央の四角いテーブルの端に座り、食べていた。片手には、あの朝霧のレポートが握られていた。
食べながら、また記事に目を落とす。
—―再開発されたら、更地になるんだよね。
朔夜の言ったとおり、朝霧にはつらい思い出がある。
だが、ホタルの水辺。陽人との出会い。天の川駅。図書館。きもの屋のおばあちゃん。鳥よしの店長。夏祭り——。短い期間であったが、蛍にとって大事な想い出も、ある。
しかし、この案件は赤城が握っており、黒崎が何かできるものでもない。町が開発される様子を、ただ黙って見ているだけしか……。
「——黒崎さん、暗い顔してるね?」
「え!?」
名前を呼ばれ、どきりとした。咄嗟にそちらを見ると、朝にこのレポートを渡した成瀬が後方から笑ってやってきた。
「お疲れ様です、成瀬課長。……そんな顔、してましたか?」
「うん。悩んでいる顔してたよ。やっぱり朝渡したそれが気になってたの?」
鋭く、レポートを指摘される。この人に隠し事はできないようだ。
「……朝霧町は、昔住んでた場所なんです」
「そうか……」
成瀬は蛍の隣の席に座った。定食セットをテーブルの上に置く。
「慰めになるかわからないけど。……昔住んでた時の思い出が、消えるわけではないと思うから。その思い出をずっと忘れずに持っていればいいと、俺は思うよ」
「そうですね。……成瀬課長の言うとおりです、ありがとうございます」
「それからこれ。一個あげる。サンドイッチだけじゃ力が出ないでしょ?」
成瀬は割箸を割って、定食の唐揚げを一つ蛍の皿に載せた。
「食欲無いかもしれないけど……その唐揚げ、美味しいよ」
「ありがとうございます。いただきます」
蛍は添えられた唐揚げを一口かじった。サクッとした衣のあとに、独特の香辛料と香ばしい醤油の風味が口いっぱいに広がる。
「本当だ、おいしい。……でも、これ——」
どこかで食べたことのある味だった。しかも、すごく身近な場所で味わったことがあるような……。
「あら、一口で気づいてくれたかしら? さすが蛍ちゃんねぇ~」
カウンターの奥から、エプロン姿の仕込みスタッフがふらりと現れた。大柄な体に似合わない、華やかな身振りと聞き覚えのある独特のオカマ口調。
「リコさん!?」
「声張らないの。昼は手すきでここの厨房もこっそりやってるのよ。朔ちゃんには内緒よ?」
「……こっちがこっそりなんですか?」
「オカマは夜に生きるからね」
リコは悪戯っぽくウィンクし、それから蛍の横顔を覗き込んだ。
「蛍ちゃん。午後からも長いんだから、美味しいもの食べて、しっかり元気出しなさいよ?」
「……はい」
と、その時、テーブルの向かい側に三人組の男が席に着いた。
「周りに気を遣わせて……手のかかる秘書だな」
経企の松岡たち三人組だった。
茶髪だった松岡の髪は黒髪になっており、派手な色のスーツだった二人も、シックなスーツをしっかりと着こなしていた。
「松岡さん。……黒髪似合ってますね」
「褒めんなよ、気色悪い」
素直に褒めたのに。蛍がむっとした。
「……社長のほうが、黒髪もスーツも似合いますが」
「可愛くねえな、このブラコンが」
「……松岡さん、黒崎さんに褒めて欲しいのか欲しくないのか、どっちなんスか?」
「きっとツンデレってやつだわ」
「黙れ!!」
松岡が竹内と梅野を叩いた。
「……だいたい、お前のその朝霧町のは私情だろうが。会社で私情を出すんじゃねえよ」
「……そうですね。おっしゃる通りです」
「そんなんでよく秘書とかできるな」
冷たく言い放ちながら、カツ丼を頬張る松岡。
「松岡君。もう少しマイルドに言ったらどうだい?」
蛍の隣で聞いていた成瀬が口をはさんだ。
「彼女を心配してくれてるんだろう?」
松岡がむせた。
「成瀬さん!! してません!!」
「そうかなあ?」
「松岡さん、耳赤いっすよ」
竹内を肘で突いた。
三人のやり取りを見ながら、蛍はくすっと笑った。
「松岡さん。それにお二人も。ありがとうございます。……少し元気出ました」
「お礼言うな。気持ちわりぃ」
「松岡さん、少し嬉しそうっすね?」
今度は梅野が肘で突かれていた。
昼食は程なくして、終わった。五人はそれぞれ、自分の職務の場に戻った。
昼以降、社長室で、朝霧町の話題が出ることは無かった。




