【挿話】父との将棋
「坊ちゃま、少しよろしいですか?」
藤堂が朔夜の自室をノックした。朔夜は短く、「入れ」と許可する。
藤堂が部屋に入ると、朔夜は本を読んでいた。いつもの、経済史や数字の本ではなく、図鑑だった。
「珍しいですな。……天体図鑑、ですか?」
「ああ……」
朔夜は、一週間前、御影陽人のプレゼンを見に行ったとき、陽人が、活性化型プローブやルシフェラーゼ酵素の発光反応を天体に例えていたことを思い出し、ふと、自室の書棚にあった天体図鑑を抜き取っていた。
表面はすでにボロボロに破れており、中のページも何度も読んだのか、字や絵は擦れて掠れ、外れそうになっているページもあった。
「大事にされているようですね……」
「昔、施設で……律と読んでいた本だ」
「律様……。今赤城グループにいる、次期社長の赤城律様、ですか?」
「ああ……」
朔夜は懐かしむようにその名を呼んだ。赤城律。今は赤城グループで次期社長を務めている。
「律様が次期社長であれば、お会いする機会もございましょう。お元気だとよいですね」
「……そうだな」
「それより、坊ちゃま。ご報告がございます」
と言うと、藤堂は胸の内ポケットから三つ折りにした紙を取り出し、広げた。それは健康診断書であった。
「……宗玄様のものです。特にこれといった異常は見当たりませんでした」
「ここまでしろとは、言ってないが……」
「百聞は一見に如かず、ですよ、坊ちゃま。それに疑い深いあなたのことです、報告書があったほうが良いかと思いまして」
藤堂は静かに笑いながら、続ける。
「……出過ぎた真似かもしれませんが、宗玄様に、朔夜坊ちゃまが、お体を心配しているとお伝えいたしました。そうしましたら、今週の金曜日、指したいから宗玄様のもとへ来てほしい、と」
「わかった。……準備しておく」
普段、予定を空けておくとだけ呟く朔夜が、『準備』 と言ったことに、心境の変化があったのだと、藤堂はひとり気づいていた。
◇
翌日の夜。蛍がリビングに戻ると、部屋の中央のテーブルで、将棋盤を前にして、朔夜が一人で座っていた。
パチリ、パチリと、駒を動かす音だけが、静かに響いていた。対局相手はいない。両側の駒を、自分の手で交互に動かしている。誰もいない盤の上で、独り、勝ち方を探しているように見えた。
「……兄さん?」
声をかけると、朔夜がわずかに顔を上げた。
「……蛍か」
「一人で、やってるの……?」
聞くと、朔夜は少しの間、答えを探すように黙っていた。それから盤に視線を戻し、静かに口を開いた。
「……三日後、父さんと指すことになった」
「え……」
蛍は言葉に詰まった。朔夜の真剣な横顔と、将棋を指す姿を見て、裏に、ふと、以前見た光景が過った。
三年前の、十七歳のあの日。初めて宗玄に会った和室。将棋盤を挟んで座る二人。何の感情も映さない兄の横顔。
今の朔夜の目は、あの日とは違うことだけはわかった。
「この前の会議で、言われた。……手を抜くな。忖度するな、と」
朔夜は駒を一つ、盤の外に置いた。
「だから、本気で、勝ちにいこうと思ってな」
将棋の駒の動きも、今どちらが優勢なのかも、蛍にはわかっていない。
ただ、あの盤上には、蛍の知らない長い年月が積もっているように思えた。
「……わたしにも、教えて」
思わず、口から出ていた。
朔夜が顔を上げる。
「……将棋を?」
「うん。何も知らないままなの、嫌だから」
しばらく黙って蛍を見ていた朔夜は、やがて向かいの座布団を指した。
「……座れ」
蛍は言われるまま、盤を挟んで向かいに腰を下ろした。
「まず、駒の動かし方からだ」
朔夜はそう言うと、並べていた駒を崩し、自分側の飛車と角を盤の外にどけた。
「え、それ……」
「手加減する。でないと、勝負にならない」
「……何それ。初心者だからってバカにしてる?」
蛍がむっとした顔で言うと、朔夜はわずかに口の端を上げた。
「少しな」
「もう……!」
結局、蛍は歩の進め方すら覚束ないまま、何度も同じ駒を行き来させ、朔夜に王手をかけられて終わった。飛車も角もない盤ですら、歯が立たなかった。
「……負けました」
盤に突っ伏すようにして呟くと、朔夜は淡々と駒を並べ直した。
「初めてにしては悪くない。もう少し俺の駒を減らすか……」
「慰めてるのか、バカにしてるのか、どっち?」
蛍が少し涙目になって、睨む。
「……どっちもだ」
「もう……!」
蛍が立ち上がって朔夜を軽く叩こうとするところで、藤堂が「賑やかですな」と声をかけてきた。
「蛍様。頭をお使いになったでしょう。一服しながら、また挑んでみては?」
ホットミルクを入れた二人分のマグカップを、藤堂は机の上に置いた。
蛍はホットミルクを飲みながら、盤面に向かった。今度は藤堂のアシスト付きである。
ぱち、ぱち……と駒を静かに指す音だけが、夜の一室に響いていた。
◇
翌朝、蛍は朝食もそこそこに、藤堂を捕まえた。
「藤堂さん。将棋を今日も教えてもらえませんか?」
藤堂は、静かに微笑んだ。
「蛍様。さては負けず嫌いですね?」
「……バレましたか。昨日、兄さんに手加減されたまま、負けたのが……悔しくて」
それに、と蛍は続けた。
「兄さんが宗玄さんに、本気で勝ちにいくみたいで……。兄の、練習相手になりたくて……」
藤堂はしばらく蛍を見つめていたが、やがて、嬉しそうに目を細めた。
「……私以外の練習相手がいれば、朔夜様もさぞお喜びなられるでしょう。承知いたしました。私で良ければ、本日もお付き合いいたします」
その日の夜。蛍は藤堂から駒の動かし方のコツや、攻め方、守り方など、丁寧に教わった。覚えることは思ったより多かったが、負けず嫌いな性分が、蛍を盤の前から離れさせなかった。
「蛍様、筋がよろしいですよ。焦らず、少しずつで結構です」
「でも……もう日がないのに」
蛍は唇を尖らせながら、崩れた駒を並べ直した。
翌日も、蛍は仕事の合間を縫っては藤堂と対局を重ねた。夜になっても、二人はリビングの隅で盤を挟んだままだった。
「……また、負けました」
「王手までは、あと少しでございました。惜しゅうございます」
「気休め、上手ですね」
藤堂は目尻に皺を寄せて、微笑んだ。
「もう一局、いかがです?」
「……お願いします」
盤を挟んで座る蛍の、眉間に皺を寄せた必死な横顔を眺めながら、藤堂は、ふと、遠い日の記憶に引き戻された。
——ちょうど、こんな顔をしていた。
十四年前のことだ。あの時も、こうして盤を挟んで、必死に駒を動かす少年がいた。誰かに認められたくて、ただそれだけのために、盤の前から動こうとしなかった、あの背中。
◇
「藤堂さん!」
来賓室を片付けていた藤堂に、迫る勢いで朔夜が話しかけてきた。いつも静かな朔夜が声を上げているのは珍しく、藤堂はその様子に驚いた。
「坊ちゃま、どうされましたか?」
「将棋を、教えてほしいんです!」
その表情は、興味があって教えてほしいというより、何か差し迫るような、焦燥感があった。
「三日後に父と将棋を指すことになって……。昔、施設で律——友達と少し遊んだのですが、あまり覚えてなくて……!」
「わかりました。すぐに将棋盤を用意いたします」
藤堂は、来賓室の片づけをやめ、他の黒服に指示を出した。
宗玄がたまに趣味で将棋を指すのは知っており、藤堂も何度か相手をしたことがある。勝った記憶はあまりない。ただルールを覚えて指すだけでは意味がない。あの人と打ち合えるくらいにまで教えなければ。
——三日で足りるだろうか。そう思いながらも、藤堂は将棋盤を探しに行った。
◇
「坊ちゃま、筋がいいですな」
藤堂は将棋を指導しながら、朔夜の駒の動かし方を褒めていた。長年、生きていると、会話せずともこういった娯楽でも、相手の性格はなんとなくわかる。朔夜の指し方は宗玄と似ていて、負けないよう守りを固める指し方だった。これは、相手を常にうかがっている朔夜の性格を表しているように、藤堂には見えた。
「もうちょっと攻めてみてもいいかもしれません。飛車や香車を動かしてみては?」
「ん、……っと」
藤堂は朔夜の集中力に、内心、舌を巻いていた。十四歳の子供が、たかが将棋に、これほどまでに、必死になれるものかと。
宗玄は、普段朔夜と話さない。経営の勉強をしているか、たまに覗きに来るくらいだ。そんな男が、将棋をしようと言ってきた。朔夜も父と打ち解けられるきっかけになるかもしれないその時間を、何とかしたいと思っているに違いない。
「……そういえば」
藤堂がふと、思い出したように口を開いた。
「宗玄様は、確か天体もお好きだったと、記憶しております」
朔夜の手が止まった。
「天体……」
「ええ。……もう、随分と、昔のことですが」
朔夜は、しばらく黙り込んでいた。何を考えているのか、藤堂には分からなかった。それから静かに、また盤に向き直った。
◇
三日後、朔夜は、宗玄の書斎に呼ばれていた。
——その部屋で、何があったのか。藤堂は、知らない。知っているのは、その日の夕刻、廊下ですれ違った宗玄の纏う空気が、只事ではなかったということだけだ。
藤堂は焦り、急いで書斎へと向かう。
ノックをして扉を開けると、朔夜の背中が見えた。椅子に座ったまま、動かない。
「……坊ちゃん」
藤堂の呼びかけに気づいた瞬間——朔夜の手が、素早く目元を擦った。
十四歳のその背中が、いつもよりずっと、小さく見えた。
「……」
藤堂は、床に散らばった駒を見た。それから静かに膝をつき、拾い集め始めた。
「私が、出過ぎた真似をいたしました。……申し訳ございません」
「藤堂さんは、悪くないです……」
朔夜が、遮るように、言った。
「僕が……何か、間違えたんです」
その声には、何とか自分を保とうと、感情を堪える響きがあった。ただ、愛されたくて。ただ、認めてほしくて。必死だった。それだけだったのに……。
藤堂はしばらく、その小さな背中を見つめていた。
「……坊ちゃん」
「……」
「私は、誰にも申しません。……どうか、私のことを、祖父だとでも思って」
そのまま、静かに。
「今の、その感情は……出し切られた方が、良いと思います」
「——っ」
その一言に、朔夜の肩が、大きく、震えた。
こらえきれなかった嗚咽が、静かな書斎に、響いた。
藤堂は、それ以上、何も言わず、ただ、その隣に、座り続けていた。
◇
「藤堂さん……?」
蛍の声に、藤堂は我に返った。
盤の向こうで、蛍が心配そうにこちらを見ていた。
「……いえ、何でもございません」
そう答えながら、藤堂は視線をわずかにずらした。少し離れた場所、書類を片手に持ったまま、蛍の様子をちらちらと窺っている朔夜の姿があった。仕事に戻ると言っていたはずなのに、いつの間にか、リビングの入口に立っていたらしい。
かつて、宗玄に見せていたあの感情のない目とは、違う。今、蛍を見つめる朔夜の目には、苛立ちも焦りもなかった。ただ、静かに、見守っている。
——坊ちゃんは、もう、あの頃のように、独りきりで、盤に向かってはいない。
そう思うと、藤堂の胸に、じんわりとした温かさが広がった。
「……蛍様。もう一局、まいりましょうか」
「はい……! 次こそは」
戸口に立つ朔夜は、二人のやり取りを、黙って見ていた。
◇
十四歳の朔夜は、約束の日、宗玄の書斎に呼ばれた。
重厚な扉を開けると、宗玄が、既に、盤の前に、座っていた。
「……座れ」
朔夜は緊張しながら、盤を挟んで向かい合った。
対局が、始まった。
その時の朔夜の脳裏には、幼い頃の記憶が、蘇っていた。
——よくできたな。一等星だ。
かつて施設にいた頃、宗玄に、一度そう褒められたことがあった。あの時のうれしさ。もっと、褒めてほしいと思った、あの気持ち。
将棋で、勝てれば。もしかしたら、また褒めてもらえるかもしれない。
朔夜はその考えに、縋るように、また盤に向き直った。
藤堂に三日間仕込まれた成果が、確かに出ていた。序盤から朔夜は、着実に優位を築いていった。
——勝てる、かもしれない。そう思った、瞬間だった。
朔夜は、ちらりと、宗玄の顔を盗み見た。
そこには、何の感情も、なかった。
喜びも、驚きも、悔しさすらも。ただ無機質に、盤面だけを見つめる、その目。
朔夜は盤面に視線を戻した。背筋に、冷たいものが走った。
——勝って、いいのだろうか。
指そうとしていた一手を、思いとどまった。代わりに別の駒を取り、そっと指した。
「……負けました」
朔夜は、頭を下げた。
「……何故、負けた?」
宗玄の声が、低く、響いた。
「何故、負けたと思う?」
朔夜は、答えられなかった。俯いたまま、言葉を探した。
「……分かりません」
「……本当にわからないのか?」
宗玄の声が、鋭さを増した。
朔夜は、怖くて顔を上げられなかった。俯いたまま、震える声で続けた。
「……ほ、星のことを、考えてて……」
「……何?」
「僕も……天体が、好きで——」
言い終わる前に、盤が宙を舞った。駒がパラパラと床に散らばる音が、部屋に響いた。
「——それに、価値はない!」
宗玄の怒声が、朔夜の耳を打った。
「お前はそんなことに、うつつを抜かしていたのか。……経営のことだけ、考えろ」
宗玄はそれだけ言うと、荒々しく部屋を出ていった。
——俺、どこで、間違ったんだ。
一人、残された朔夜は、床に散らばった駒を見つめていた。
◇
——今なら、わかる。
父さんが怒っていたのは、忖度したことに対してだった。負けた理由を、星のせいにしたことに対してだった。十四歳の言い訳も、誤魔化しも——全部、見透かされていた。
——忖度するな。
あの日、部課長会議で言われた言葉が、重なる。
朔夜は、明日を思いながら、小さく呟いた。
「……父さん。明日は、負けない」




