西大寺綾(後編)
翌日。またもエントランスが騒がしかった。どうやら懲りずにまた西大寺綾が来たようだ。
書類を届けに来ていた蛍の前で、朔夜の内線が鳴った。
『社長‼ 申し訳ございません‼ 降りてきてくださいませんか‼』
「……」
内線の向こう側の、黒服の言葉を聞いた朔夜の顔は、今まで見たことのないくらい、呆れかえっていた。蛍がぷっと吹き出す。
『あの、社長だけでなく、秘書の蛍様も降りてきてほしいと——』
「なに?」
訝し気な顔をしたが、埒が明かないので、蛍と一緒にフロントに向かった。
◇
「あら朔夜。また会えてうれしいわ!」
「お前に学習能力は無いのか」
「あるわよ。アポなしでも行けるってわかったわ!」
悪びれる素振りもなく、綾がにこやかに微笑む。今日も今日とて晴れやかな着物姿をきっちり整え、まるでここが自宅であるかのように、気軽にビル内に入ってきていた。
「ふふっ、今日はあなたではなく、蛍ちゃんに会いに来たのよ」
「わたしですか?」
切れ長の目を向けられ、どきりとする蛍。
「蛍に何の用だ」
「そんなもの、乙女の恋バナに決まってるでしょう?」
「こ、恋バナ……」
そういえば、蛍は同じ女性とそういった話に花を咲かせたことが無かった。
「ふざけるな。今は仕事中だ」
「将来のあなたのことがかかっているのよ? それと、あなたを落とすならまず先に蛍ちゃんをたらしこもうと思ってね」
「そういうことには、頭の回転が速いようだ……だが」
朔夜がため息交じりに、綾の提案を断ろうとした。
「——朔夜兄さん。わたし、綾さんとお話ししたいです」
「なに?」
「あら嬉しい! 朔夜と違って物分かりのいい妹ね!」
心配そうな顔をする朔夜と、嬉しそうに跳ねる綾。間に挟まれた蛍は、綾に向き直り、軽く会釈した。
「あの、よろしくお願いします。綾さん」
「ええ!」
綾は満足げに笑うと、蛍の腕を引いて、外に停めてある車の元へ向かった。
連れていかれる蛍の背中を、朔夜はただただ見つめるしかなかった。
◇
連れて来られたのは、車で走って五分ほどのカフェだった。落ち着いた内装の、静かな店だ。窓際の席に案内されると、綾は慣れた様子で店員に注文を告げた。
「すごくお洒落で、いいお店ですね」
「朔夜を待ち伏せする時に、よく使うのよ」
蛍は、思わず吹き出してしまった。当の本人は何とでもないように、けろりとした顔で答えていた。
「それより蛍ちゃん。お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「……一回、『綾おねえちゃん』って言ってみて?」
「え」
綾の顔がずいっと迫る。思わず体だけ後ずさるが、獲物を捕らえるような目からは、逃げられそうもない。
「……あ、綾おねえちゃん、ですか?」
「——っ! ……もう一回」
「……。綾おねえちゃん」
「ああ~~~‼ いい‼ いいわ‼ 『おねえちゃん』という響き‼ 妹ができて、朔夜と家族になったような感覚‼ これで結婚に一歩前進したわ‼」
綾は目を瞑りながら、その響きにうっとりと浸っていた。蛍は苦笑しながら頼んだコーヒーに口を付けた。
「……綾さんって、本当に兄が好きなんですね」
「そうよ」
「どこが、好きなんですか……?」
綾にそう尋ねて、蛍は少しむず痒い感覚になった。こういう会話は慣れておらず、学生たちがする恋愛話のようで、心が少しくすぐったい。
よく、教室の隅から、女子たちがそういった話をしていたのは、聞こえていた。誰が誰を好きだとか、当時は自分にはそんな話は関係なく、そしてこれからもそういったことには一切関わらないと思っていたのに、十七歳の夏から、自分はそれに足を踏み入れてしまっていたんだと、気づいた。
「蛍ちゃんって、ほんとに朔夜の妹?」
「え?」
「いや、なんか顔が赤くなってるから……」
綾に指摘され、はっとする。少し顔に熱を帯びているかもしれない。
「じ、実は! 学生時代、あんまり明るくなくて。こういった話をしたことがなく……」
「そうなの⁉」
綾が身を乗り出した。
「実はね、私も恋バナしたことなくて‼ やってみたかったのよ‼」
綾が蛍の手を握った。
「綾さん。昔の兄さん——施設にいた頃はどんな人だったんですか?」
「あら、知りたいの?」
「ぜひ。……わたし、昔の兄のことが、思い出せなくて」
「そうなの」
少し思いつめた蛍の顔を見て、綾はそれ以上は踏み込まなかった。
「今の朔夜って仏頂面でしょ? でも小っちゃい頃の朔夜は、すごく可愛かったのよ!」
「そうなんですか?」
「うん! 声出して笑ってたりしてたし! 児童施設にいた時、朔夜にライバルがいたんだけど、その子とよく競ってたわね」
「赤城、律さんですか?」
「あら、知ってるの?」
「昨日、名前だけ聞きました」
綾は懐かしむように、目を細めた。
「三人で、よく遊んだわ。勉強で競い合ったり、ピーマンが嫌いで押し付け合ったりしたわね——」
そう語っているうちに、綾の鼓動も少しずつ早くなっていくのがわかった。七歳くらいの頃、もう朔夜には会えないだろうと諦めていたが、あの日——少女の恋が再び熱を帯びた、その再会の日を思い出していた。
◇
——綾が、初めてその名前を目にしたのは、見合いの釣書だった。
「黒崎、朔夜……」
指先で、『朔夜』の文字をなぞる。——忘れたことなど、一度もない名前だった。でも、まさか。同名の別人かもしれない。珍しい名ではあるが、世の中には、同じ名前の人間くらい、いくらでもいる。
そう自分に言い聞かせながら、綾は、指定された料亭の座敷に足を踏み入れた。
上座に、男が一人、静かに座っていた。
——目が合った瞬間、綾は、それが「まさか」ではなかったことを、悟った。
昔と、面影は変わらない。切れ長の目、整った鼻筋。……けれど、あの頃、確かにそこにあったはずの何かが、今は、綺麗に磨り減っていた。
——無邪気に笑っていた男の子。勉強で誰にも負けなかった男の子。負けず嫌いのもう一人——律とよく競い合っていた。
「……綾。遊んでないで少しは勉強しろ。あとで困るぞ」
律が呆れたように指図してくる。朔夜と律が火花を散らしながら、どっちがより多く問題集を解けるか勝負している横で、私は絵本や童話ばかり読んでいた。中でも『かぐや姫』が大好きだった。
「わたしはお姫様になるから勉強しなくていいのよ!」
「……アホか」
律に切り捨てられ、私はむっとして朔夜の横顔を見つめた。
「ねえ朔夜くん、見て! このお姫様わたしみたいじゃない?」
かぐや姫が丸い月に帰る、最後のページを見開きながら、問い詰める。
「え、えーっと……?」
「似てないってよ! それより朔夜、こっちの問題解こうぜ」
「律くんには聞いてない‼」
頬を膨らませて怒ると、二人は笑っていた。
結局、その勝負に勝ったのは、朔夜だった。
朔夜を褒めると、にこっと笑ってくれた。
給食の時、三人とも嫌いなピーマンを押し付け合った。朔夜と律が私の皿にこっそり盛ってきたピーマンを、仕返しで直接口に入れてやったこともある。苦い顔をして咀嚼する二人を見て、お腹を抱えて笑った。
勉強がわからなくて独り夕方まで残っていた日。静かに部屋の扉が開いて、黙って隣に座り、勉強を教えてくれた。……その時間が欲しくて、わざと居残ったこともあった。
眠れない夜、窓辺で膝を抱えていたら、いつの間にか、隣に朔夜が座っていた。二人で黙って、丸い月を見上げた夜。
「……ねえ、朔夜くん。あなたの名前、『夜』って意味でしょ?」
「……そうだな」
「素敵な名前だね」
「……僕は、この名前、好きじゃない」
ぽつりと、そう言った。
「そうなんだ。……わたしは好きよ」
「え?」
眩しく輝く、満月を見つめながら、
「だってかぐや姫は月へ帰るでしょ? その月が輝けるのは、夜だけなんだよ」
絵本の丸い月と重ねながら、そう答えたことを覚えている。
「……ありがとう」
月明かりに照らされた、朔夜の少し照れくさそうで、嬉しそうな横顔を、綾が忘れた日は無かった。
——そんな昔の日々の、その色が、今、目の前の男からは、すっかり失われていた。
「——さ、西大寺、綾です」
いつもは、誰の前でも崩れることのない声のはずだった。それなのに、名乗るその瞬間だけ、喉の奥が、わずかに震えた。
「黒崎、朔夜です」
朔夜の声は、平坦だった。表情も変わらない。目の前に座る相手が誰なのか、まるで気づいていないかのように、事務的な会釈だけを返す。もしかしたら、今、目の前にいるのは、私の知っていたあの『朔夜』ではなく、全くの見ず知らずの別人ではないか、そう思うほどに。
——覚えているのは、私だけ……か。
綾の胸に、小さな翳りが差した。……あんなに、一緒にいたのに。あんなに、笑い合っていたのに。この人の中では、もう、跡形もなく消えてしまったのだろうか。
会食の間、朔夜は終始その調子だった。当たり障りのない受け答え、崩れない表情。……綾は、何度も何度も、あの頃の名残を探した。けれど、見つからなかった。
——ふふっ。もう、忘れられたのね。
そう思うと、胸の奥が、ちりちりと痛んだ。
料亭を出て、車寄せへ向かう道すがら。綾が、諦め混じりに一歩を踏み出した、その時だった。
「——西大寺綾さん」
背中に、声がかかった。ふと、足を止める。
振り返らずにいると、背中越しに、そのまま——
「……まだ、あの月は、輝いてますか?」
——振り向くと、彼は背を向けて、歩いていた。
綾はその場に、しばらく立ち尽くしていた。
◇
車に乗り込んだ綾は窓の外の景色を見ていた。
「ふふ。……ふふふふ」
「……あ、綾様?どうされました?」
使用人の女性が、様子のおかしい綾に対して、怪訝そうに尋ねる。綾は、窓の外を見つめたまま、静かに笑っていた。
——あの人は、ちゃんと覚えていた。
忘れていなかった。私が、あの絵本を好きだったことも。二人で月を見た、あの夜のことも。あんな、顔色ひとつ変えない男が、その記憶だけは、ちゃんと抱えていた。
自然と口元が緩むのを、抑えきれなかった。
高鳴る鼓動の音を心地よく思いながら、使用人に向かって、高らかに宣言した。
「いえ——運命の相手が、見つかったわ!」
◇
「昔の、よく笑う兄さん、見てみたかったなあ……」
昔を懐かしみながら、時折微笑む綾を見て、蛍は思わず口からこぼれていた。
「わたし、昔の兄さんのことが思い出せなくて……。この三年間しか、なくて……」
「……そう」
「少し、綾さんのこと。羨ましいと思っちゃいました」
コーヒーカップを覗き込む。きっと落ち込んでいるだろうが、中に残った液体はその顔を映さない。
「思い出せないものは、仕方ないんじゃない?」
「え?」
「確かに、昔の思い出は素敵だったわ。否定しない。私にとって大事なものだわ」
綾はまっすぐ蛍を見据えた。その瞳は射抜くように強い。
「それより、過去より、これからの方が重要でしょう?」
「これから……」
「ええ。私はこれから朔夜の嫁になるために、手段を選ばずに動くわ。あなたも朔夜が大事なら、これからの時間を大事に過ごせばいいんじゃない?」
「綾さん……」
「あら、私、いいこと言ったかしら」
にやりと微笑む。そこに蛍をたらしこむ計算が含まれていたのかは、綾だけが知っている。
「そうですね、綾さんの言うとおりです。兄とは、これからの時間を大切にします。今は思い出せないだけで、何かの拍子に、昔のことは思い出せるかもしれませんし……」
「ふふ。いい顔になったわね。ところで——」
ふいに、綾が悪戯っぽく目を細めた。
「朔夜のこと、本当にただの兄だと思ってるかしら?」
「え? ど、どういうことですか?」
「だって、蛍ちゃんからしたら、この三年間しか一緒にいないようなものでしょ? 私だったらあの男と一緒にいるだけで、うずうずして、毎日眠れないわ」
「……綾さんと一緒にしないでください! わたしは朔夜兄さんのこと、そんな目で見てませんから!」
語気強めに否定する蛍だったが、
「ふうん?」
意味深に、しかし面白げに、綾はコーヒーカップに口を付けながら、蛍を見ていた。




