西大寺綾(前半)
それは、何気ない書類整理の途中だった。
社長室の応接テーブルに、宅配便の箱が届いていた。差出人は、財界の重鎮として名の知れた旧家。中身の確認は秘書の仕事だったから、蛍はいつも通りに開封した。
出てきたのは、和紙の立派な台紙だった。
開くと、着物姿の若い女性の写真が、丁寧に貼られていた。添えられた毛筆の経歴書。家柄、学歴、趣味、家族構成。
「……え」
見合い写真、だった。
蛍は少しの間、固まった。それから、箱の中を確かめた。同じような台紙が、あと二つ、入っていた。別の家からのものが、まとめて仲介者経由で届いたらしい。
三人の女性が、写真の中で、上品に微笑んでいた。
——兄さんの、縁談。
考えてみれば、当たり前のことだった。黒崎グループのCEO、二十八歳、独身。家柄を求める旧家から見れば、これ以上ない相手だ。おまけに、実は兄は女性から人気で顔が良いことも判明した。引く手あまたに、決まっている。
陽人くんが、パーティー会場で、女性に囲まれていたのと同じで。
兄さんにも、こういう相手がいる。話が来る。
「……当たり前、だよね」
呟いてから、自分の声が思ったより小さかったことに、気づいた。
写真の女性たちは、みんな綺麗だった。育ちが良くて、経歴も申し分なくて、着物の着こなしも完璧で。この人たちの誰かが、いつか、あの家に来るのかもしれない。朝の玄関で「いってらっしゃいませ」と言うのは、自分ではなくなるのかもしれない。夕飯を作って、待っているのも、一緒に食べるのも……。
それどころか、もしかしたら、今働いている黒崎ビルの秘書も、このうちの誰かになって……。
そしたら、自分は。自分の居場所は。
胸の奥が少しだけ、ざわついた。
——なにこれ。
自分でも、よく分からなかった。兄の縁談だ。妹として、喜ぶところだ。あの不器用な人に、家庭ができるなら、いいことのはずだ。リコさんだって、藤堂さんだって、兄にそういう人ができたら、きっと喜ぶし安心する。
なのに、写真を閉じる指が妙に、重かった。
ふと、今までのことが、頭をよぎった。仕事の合間を縫って教えてくれた経理の勉強。仕事のこと。熱を出してるのに、揶揄ってくる外部の専務や役員たちから、わたしを助けてくれた。よくやった、と躊躇いながら、頭を撫でてくれた。喧嘩もしたけど、少し仲良くなれた。夕飯も、いつも何も言わないけど、全部食べてくれる。たまに目が合うと、鋭い目が少し穏やかになって……。
「……何を、見ている」
背後から声がして、蛍は、跳ね上がりそうになった。
朔夜がいつの間にか、後ろに立っていた。
「あ……こ、これ、届いてました。……お見合いの、写真みたいです」
蛍は、台紙を差し出した。声が少しだけ、上ずった。
朔夜は台紙を受け取って、開いた。数秒、眺めた。それから興味を失ったように閉じて、デスクの端に置いた。
「……藤堂に、断りの返事を出させろ」
「……見なくて、いいんですか」
「見た」
「三秒くらいでしたけど」
「十分だ」
朔夜はそれだけ言って、自分のデスクに戻った。いつも通りの、平坦な声だった。
蛍は台紙を箱に戻しながら、胸の奥のざわつきが、少しだけ静かになったのを感じた。
——断るんだ。
そのことに、ほっとしている自分がいた。
ほっとしている理由は、考えないことにした。
◇
その日の午後、蛍の机の内線が鳴った。
「はい。社長室です」
『黒崎社長‼ 社長はいらっしゃいますか‼』
黒服からだった。何やら、かなり焦っているようだった。
「落ち着いてください。どうされました?」
『落ち着いてられません‼ 西大寺様が、アポなしでこちらに来ているのですが‼ その、無理やりセキュリティゲートを通って、社長室に乗り込もうとしております‼』
——西大寺。そういえば、さっきの見合い写真の中に、その家の名前もあったような。写真で見た美人が、ここに来ている?
蛍は内線を保留にし、社長室の朔夜に尋ねた。
「に、兄さん。西大寺という方が、セキュリティゲートを無理やり通って、どうやら社長室に来ようとしておりますが……」
「代われ」
朔夜は自分の机の受話器を取った。
「黒服。お前たちは何をしている。警備が仕事だろう。……止めろ」
そうは言うが、電話口の向こうで、黒服たちが困惑した声を上げているのが、受話器を手にしていない蛍の耳まで聞こえた。
『申し訳ございません、CEO!! 止められません……‼』
内線の向こう側では、黒服のほか、社員たちも「お待ちください‼」「お帰りください‼」と叫んでいるが、完全に無視されている。
「……」
「兄さん、どうしよう?」
「厄介な客が来た。黒服でもどうもできないようだ。……追い返してくる」
朔夜がフロントに向かおうとして、慌てて蛍もついていった。
◇
フロントは人だかりができていた。厄介な客を抑える黒服たちと、「何があったんだ」と気にする野次馬社員たちが集まっていた。
その中心で、黒服たちに制されながら立っていたのは、あの見合い写真の中の一枚にあった女だった。いや、写真よりも遥かに、存在感がある。
「——朔夜」
凛とした声が、辺りに響いた。声の主は朔夜を見つけたとたん、黒服たちを素早く振り切り、まっすぐに、こちらへ向かって歩いてきた。社長の名前が聞こえたからか、社員たちは反射的に道を開ける。
艶やかな長い髪を、一つにきっちりと束ねている。仕立ての良い和装に身を包んだ、長身の美女。黒服たちをいなしたとは思えないほど、乱れがなかった。
「朔夜、会いに来たわ」
挨拶も、前置きもなかった。距離を詰める女に対して、朔夜が一歩後ろに下がった。
「……アポも無しに来るなと言ったはずだが、綾」
——こいつには、常識がないのか。
心の中で、そう思いながら。
「あら。あなたはいつも私のアポだけ無視するじゃない?」
「仕事とは関係ないからな」
「関係あるわよ!——あら」
綾がようやく蛍の存在に気づき、顔を向けた。朔夜のすぐ隣に立つ蛍を、上から下まで、無遠慮に眺め回す。
ひとしきり見ると、切れ長の目の奥に、動揺が走った。
「朔夜……まさか、私の知らない間に……けっ、結婚したの……!?」
綾の声が震えている。
刹那。朔夜は思いつく。——この勘違い、使えるか。
「……ああ。そうだ」
「な——」
短い肯定に、綾は固まった。だがこの場の空気を決めるには、十分すぎた。
「え!? 兄さん!?」
反射的に、蛍がそう口走ってしまった。
瞬間、朔夜が蛍を横目で見た。
その、少し残念な色を含んだ目を見て、兄の意図を汲み取り、失言したことに気がついた。
「あ、朔夜さん……」
言い直したが、もう遅い。
「いやさっき『兄さん』って言ったでしょ」
綾の声が、真顔に変わった。
「……い、いや、あの……」
「やっぱり、嫁なんかじゃなくて、妹なんでしょ!?」
「……ちっ」
朔夜が舌打ちをする。それから、諦めたように説明した。
「妹で、秘書の蛍だ」
綾は、しばらく蛍と朔夜を交互に見つめていたが、やがて、ぷはっと噴き出した。
「な、なによそれ! 結婚したなんて言うから、本気で焦ったじゃない!」
「そのまま勘違いしてくれればいいものを……」
「何ですって!? 未来の嫁に何を言うのよ!?」
綾は朔夜の腕をぺしりと叩いた。それから気を取り直したように、蛍のほうへ向き直る。
「……蛍ちゃん、だっけ? 変な冗談のとばっちり受けさせて、ごめんなさいね」
「い、いえ……」
「まあでも、妹なら妹で、良かったわ」
「……蛍。こいつは西大寺綾。西大寺財閥の、一応、令嬢で——」
綾が、さっと朔夜の腕にしがみついた。
「——朔夜の、未来のお嫁さんです」
社員たちの視線が、一斉にこちらへ集まった。
「……違う」
すぐさま否定した。だが綾は、まったく動じずに腕にしがみついたまま、周囲へ向けて軽く一礼をした。
——受付の辺りで、小さくどよめきが起きた。「今の、社長の……」「お嫁さんって……」という囁きが、ちらほらと聞こえてくる。
蛍は、状況が飲み込めないまま、ただ立ち尽くしていた。
「え、えっと……」
「綾。離れろ」
朔夜は、つかまれた綾の腕を、無理やり引き剥がした。
「……何の用だ」
「用がなきゃ来ちゃだめ? ひどいわ」
「用がなくても、いつもアポは取れ」
「取ったところで、どうせ断るじゃない。だから取らないの」
綾は、悪びれもせずに言い切った。堂々とした立ち振る舞いに、蛍は気圧されながらも、なんとか声を絞り出した。
「綾さん、兄さんと仲がいいんですね……」
「あら、妬いてるの? まあなんせ昔一緒に住んでたから」
「⁉」
その発言は蛍だけでなく、周囲も動揺を隠せなかった。
「誤解するな、蛍。……昔、児童施設で一緒だっただけだ」
「施設……?」
初めて聞く言葉だった。
——そういえば、幼い頃の兄の記憶は、朧げだ。兄がどこで、どんなふうに育ったのかも、ほとんど何も知らない。
「あら、妹ちゃんに話してないの? 水臭いのね」
綾は、くすりと笑って、それ以上は深く触れなかった。周りの視線を十分に集めたことに満足したのか、着物の裾を軽く整える。
「まあ、いいわ。今日のところは、ご挨拶だけ。私が朔夜のお嫁さんであるという、既成事実も作れたし。……じゃあ蛍ちゃん。未来のお姉ちゃんと、また改めて、ゆっくりお話ししましょうね」
綾は、くすりと笑うと、着物の裾を翻し、颯爽とエントランスの玄関口へ向かって歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、蛍は、まだ状況を整理しきれずに立ち尽くしていた。
周りにいる女性社員たちも、突然の美女の登場に混乱しており、朔夜を見つめながら、わなわなと震えていた。
◇
騒動が去った後のフロント。馬場と鹿島は、まだ呆然と、綾が去っていった入口付近を見つめていた。
「……なあ」
「……ああ」
「今の、聞いたよな」
「聞いた。……『未来のお嫁さん』」
二人は、顔を見合わせた。
「いや待て。社長は『違う』って否定してたぞ」
「否定するやつに限って、本当は……ってパターン、ドラマで見たことある」
「あるな。……あるある」
馬場は、顎に手を当てて、深刻な顔で唸った。
「着物の似合う財閥令嬢で美人。しかも施設時代からの知り合いという、幼馴染ポジション……」
「幼馴染に、押しかけ女房気質。……鉄板の組み合わせだぞ、これは」
「で、蛍様は、あわあわしながら蚊帳の外で立ち尽くしてらした」
「……あれ、これって、もしかして」
鹿島が、ハッとしたように、声を潜めた。
「三角関係どころじゃないぞ、これ」
「……ああ。四角関係だ」
「もはや、図形として複雑すぎる」
馬場が、真顔で頷いた。
「社長回りも複雑だったとは……。蛍様はイケメン御曹司といい感じ、社長は社長で幼馴染に言い寄られてる……俺たち、この行方、見届ける義務があると思わないか」
「思う。……いや、これは職務だ。お嬢様たち兄妹の恋路を見守るのも、黒服の——」
「——お前ら、何を油売ってる」
背後から、地の底を這うような声がした。振り返ると、朔夜が、冷めた目でこちらを見ていた。
「「——っ、失礼しました!!」」
二人は、弾かれたように直立し、脱兎のごとく持ち場へ駆け戻っていった。
◇
夕方近く、書類を運んできた蛍は、思い切って、聞いた。
「……兄さん。さっき『施設』って言ってましたけど」
朔夜は、書類から顔を上げた。
「……ああ」
「初めて知りました」
朔夜は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「俺は、物心ついた頃には施設にいた。父さんの方針で、そこで教育を受けていた。……綾も、そこにいた一人だ」
「そう、なんですね」
「……今、赤城グループにいる次期社長の、赤城律という男がいる。そいつと綾と、三人でよくつるんでいた」
赤城グループ。名前だけは知っている。黒崎と同等くらいの大企業であるが、蛍が直接やり取りしたことはまだない。
「昔から、仲が良かったんですね……」
「ああ」
蛍のその声は、少し沈んでいた。自分の知らない兄がいることに対してか。はたまた、朔夜と兄妹であるのに、昔の記憶を思い出せず、兄と昔を懐かしむことすらできないことへの、寂しさからだろうか。
「……わたしも、施設にいたんでしょうか?」
「いや、お前は……」
朔夜の声は少し歯切れが悪かった。
「……お前は施設にはいなかった。東京の、黒崎の……別邸にいた。俺は父さんのいる本邸で暮らしていて、たまにお前に会いに行っていた」
「……」
「今は、仕事の時間だ。まだ残っているだろう」
朔夜は総務部宛の書類を、蛍に渡した。それを受け取った蛍は、静かに社長室を出た。




