桐生商事(4)
一週間後。
桐生商事の応接室に、蛍と陽人は再び通された。
「おう、また来たか」
桐生は以前より、幾分か顔色が良くなっていた。
「先日は、ありがとうございました。……日本酒、社内で試飲会をしまして。反応、かなり良かったです」
蛍は、資料をテーブルに広げた。
「若い世代・女性向けの販促案です。瓶のラベルを季節限定デザインに変更して、バレンタインや年末年始に合わせて展開します。市場データも、うちの経営企画部で調べてもらいました」
桐生は資料に、じっと目を通した。
「……こんな細かいとこまで、調べてくれたのか」
「はい。それと——」
蛍は、続けた。
「黒崎と取引のあるホテル、レストランへの卸売りも、進めます。あと、リコさんのお店にも、卸してもらえないか、頼んでみようと思ってます」
「リコさん?」
「たまに通うバーのママです。……姉妹店も、いくつか持ってて。まずはそこから、口コミを広げていけたらと」
桐生は少し、感心したように頷いた。
「……お嬢さん、バー通ってんの?」
「実は、家のマンションの地下にバーがありまして……」
「は? マンションの地下に?」
桐生が目を丸くした。隣で聞いてる陽人は驚きながらも、クスクス笑っていた。
「看板も出してない、隠れ家みたいなお店なんですけど。ママが顔の広い人で。姉妹店もいくつかあって」
「……そんな店、あるのか」
「はい。そこと、あと大衆向けの居酒屋にも、話を通せると思います」
桐生は少し感心したように、腕を組んだ。
「……財閥の会社の地下に、そんな店があるとはな。世の中、知らないことばっかりだ」
「わたしも、最初、驚きました」
蛍が小さく、笑った。
「すげえな。……じゃあ販路の方は、あんたに任せて、良さそうだな」
満足げに頷く桐生の様子を見て、陽人が手を挙げた。
「僕の方からも、一つ、提案があります」
「おお、お前も?」
「はい。……桐生さん。酒粕や余った麹はいつもどうされてますか?」
「ん? ……そりゃ酒にならないから捨ててるが……」
「その廃棄物、御影の研究部門で、買い取らせてもらえませんか」
桐生は、目を丸くした。
「……廃棄するものをか? そんなもんに、価値なんて——」
「あります」
陽人は、はっきりと言った。
「酒造りの発酵技術は、微生物を扱うバイオ技術そのものです。……うちは今、再生医療や創薬の研究を進めていて、酵母や麹菌の培養データが必要なんです。桐生さんの蔵には、何十年分もの、発酵の知見がある。それは、研究資材として、正式に価値がつくものです」
桐生は、しばらく、言葉を失っていた。
「……捨てるもんに、金を払うってのか」
「はい。……研究材料の、継続的な取引として、契約させてください」
桐生は少しの間、黙っていた。それから、ゆっくりと笑った。
「……あんたら、揃いも揃って、すげえな」
「そうですか?」
「普通は酒だけ見て、酒だけの話をする。出来そうなことだけを話す。……あんたらは、ターゲット層広げたり、試飲してくれたり、販路広げたり、廃棄物にまで、目を付ける。可能性を広げてくれる……」
桐生は、湯呑みを、両手で包んだ。
「……分かった。研究資材の件も、正式に頼む」
「ありがとうございます」
陽人が、頭を下げた。
「それで——」
蛍が少し、居住まいを正した。
「桐生さん。改めて、確認させてください。設備投資と、雇用の維持に、必要な額は」
桐生は少し、間を置いて、答えた。
「……3億あれば、何とかなる」
「分かりました」
蛍はその数字を、手元のノートに書き留めた。
「それと、御影への長期卸契約。……この二つを、正式な条件として、社長に提案します」
桐生は、蛍と陽人を交互に見た。
「……頼んだよ、二人とも」
「はい」
蛍は、資料を閉じた。数字と条件は、揃った。あとはこれを、朔夜にどう伝えるかだった。
◇
社長室に、蛍が資料を抱えて入ってきた。陽人も、一緒だった。
「兄さん。桐生商事の件。正式に提案があります」
朔夜は、パソコンから顔を上げた。陽人の姿を見て、わずかに目を細めた。
「……御影も、同席か」
「はい。今回は、うちにも関わる話なので」
陽人が、静かに答えた。朔夜はそれ以上何も言わず、二人に座るよう促した。
蛍は資料を、机に広げた。
「桐生商事から、正式に要望が出ました。設備投資と雇用の維持に、3億円」
朔夜の表情は、変わらなかった。ただ、資料をめくる指先だけが、止まった。
「3億、か」
「はい。……回収の試算も、出しています」
蛍は、資料を指さす。
「若年層・女性向けの販促は、経営企画部の松岡さんたちが担当してくれています。季節限定デザイン、SNS展開。……黒崎の贈答品にも、展開していく計画です」
「……」
「販路は、黒崎と取引のあるホテル、レストラン、それから、リコさんの店とその姉妹店。まずはそこから、口コミを広げます」
朔夜は黙って、資料をめくっていた。
「それと、僕からも」
陽人が口を開いた。
「御影は前から、桐生商事の商品を、社員への福利厚生として仕入れていて、取引先としてずっとお世話になっています。今回、桐生さんの酒粕・麹を、研究資材として買い取る契約を結びます。発酵技術は、微生物研究にも応用できるので。……これは、御影単体で継続的に発生する取引になります」
朔夜は資料から顔を上げ、陽人を見た。
「……御影に、あまり利益になるとは思えないが?」
「桐生さんの『技術』に価値があり、未来の医療として『利益』が発生すると判断したからです」
陽人は真っ直ぐ、朔夜を見返した。揺るがない目だった。
朔夜は、しばらく陽人を見ていた。それから、視線を資料に戻した。
「……4年での回収を、見込んでいるのか」
「……はい。4年です」
「甘い」
朔夜は資料の数字を、指でなぞった。
「販促費と、設備の減価償却を考えれば、5年は見た方がいい。……それでも」
一拍、間を置いて。
「悪くない数字だ」
蛍は思わず、陽人と顔を見合わせた。
「承認する」
「……ほんとですか」
「数字は、通っている。……それに」
朔夜は、蛍を見た。
「お前が一人で決めたことじゃない。……経企の松岡たちも、桐生本人も、御影も、それぞれの言い分を、ちゃんと、聞いた上での提案だ。……文句のつけようがない」
蛍はしばらく、朔夜の顔を見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
陽人が隣で、蛍に小さく耳打ちした。
「……通ったね」
「うん」
蛍は頷いた。胸の奥に、静かな達成感が広がっていた。
「——少し話が変わるんだけど」
陽人が、思い出したように言った。
「研究繫がりになるんだけど。今度、プレゼンをすることになりまして。新しい医療技術の、研究費を募るプレゼンになります。……外部の出資者向けで、少し大きな場になる」
「プレゼン?」
「うん。……もしよかったら、お二人、見に来られますか?」
少し照れたような、それでいて、どこか誇らしげな声だった。
「陽人くんがプレゼンするの?」
「うん」
「行きたいです」
蛍は即答した。そのまま朔夜の方を見た。
「……いつだ?」
「一か月後になります」
「いいだろう。予定を空けておく」
「ありがとうございます」
陽人は、ほっとしたように、笑った。
「朔夜さんには、来てほしかったんです」
「俺? 蛍ではなく?」
「……はい」
その声には、いつもの落ち着き以外にも、何か含まれた感情が混じっていたが、蛍と朔夜は知る由もない。




