桐生商事(3)
ダイニングテーブルに、朝の光が差し込んでいた。
蛍が席に着くと、藤堂が、いつも通り、湯気の立つ味噌汁を運んできた。向かいの席には、既に朔夜が座っていた。書類に目を通しながら、コーヒーを飲んでいる。
「……おはようございます」
「……おはよう」
それだけだった。昨夜のことには、どちらも触れなかった。
藤堂が、二人の間に流れる空気に気づいたのか、いつもより控えめに、静かに給仕を済ませて下がっていった。
蛍は、味噌汁に口をつけながら、少し迷ってから、切り出した。
「……桐生さんの件、もう決断されましたか?」
朔夜の手が、止まった。
「……まだ、先方に正式には伝えていない。……改めて連絡すると言っただけだ」
「……じゃあ」
「まだ、決めていない」
短い沈黙があった。蛍は、その答えに、少しだけ、安堵した。
「……兄さん。今日の夜、少し時間ありますか?」
「ん?」
「桐生商事のことで、話したいことが……」
朔夜が書類を机に置いて、軽く頷いた。
「……わかった。早めに退社するようにする」
「ありがとう!」
◇
夕方5時前。黒崎ビルのロビーの一角に、簡易的なテーブルが並べられていた。
「お疲れさまです、少しだけお時間よろしいですか」
蛍が、通りかかる社員一人一人に、声をかけていく。テーブルの上には、桐生の酒が、何本も並んでいた。酒瓶には若者受けしそうな、隅に試作と書かれたお洒落なデザインのラベルが貼られている。
「これ、スパークリングの日本酒なんです。……よかったら、一口だけ」
「え、いいんですか?」
「はい。……感想、聞かせてもらえたら嬉しいです」
5時を過ぎた頃には、テーブルの周りに、ちらほらと人だかりができていた。総務の園田と生駒たちの姿もあった。
「おお、これ美味いね。……女子受けしそうだ」
「わたし、日本酒苦手なんですけど、これなら飲めます!」
蛍はその反応の一つ一つを、手元のノートに書き留めていった。
その賑わいの中、一人の男がテーブルに置いてある酒瓶を手に取った。
「これ……」
「あ! 経企の松崎さん!」
「……松岡だ!!」
松岡の後ろから取り巻き二人も寄ってくる。
「あ、これ。松岡さんが提案した試供品のやつじゃないっすか?」
「居候——じゃなくて、黒崎さん。この日本酒どうしたの?」
居候と呼ばれて蛍は後ろの二人を睨んだ。
「桐生さんのところの日本酒で、スパークリングで飲みやすいんですよ。よかったら飲みますか?」
蛍は酒の入った紙コップを手渡す。
「松岡さんの試作ラベルだったんですね。……もしかして昔、わたしが承認した案件ですか?」
「……よく覚えてんな、あんた」
松岡は差し出された紙コップを少しぶっきらぼうに受け取った。
「あ……松岡さんが!」
「黒崎さんから、受け取ってる……」
「うるせえぞ、竹内、梅野!」
松岡はテーブルに置いてある紙コップを取り、二人に飲め、と突きつけた。
「お前の兄ちゃん厳しくて、予算が30万しか下りなくて、こんなんしかできなかったぜ」
「いいデザインだと思いますけど」
「お前、本気で言ってんのか? センスなさすぎだろ」
松岡は日本酒をゴクッと飲んだ。
「あ、松岡さん照れてんじゃね?」
「ちょっと耳赤くなってる!」
「てめえら、殺すぞ」
松岡が竹内と梅野を睨む。
「日本酒の感想は?」
「……」
蛍が松岡をじっと見る。
「……うまいし、飲みやすい」
「でしょ?」
「なんでお前が得意げなんだよ」
してやったり、と笑う蛍を見て、松岡が少し笑った。
「お?」
「松っちゃん!」
「てめえらも早く感想言えよ!」
松岡が二人の頭を叩いた。
その時、仕事終わりの朔夜がセキュリティゲートを通過してロビーに出てきた。人だかりのある場所に目が留まる。……蛍が酒を振る舞っているのが見えた。
「……何をしている」
声をかけると、蛍がはっと朔夜に気づいた。
「あ、兄さん。……試飲会です。桐生さんのお酒を、みなさんに」
差し出された紙コップを、朔夜はその場で口にした。
「……何か、案があるのか」
「はい。……それは今夜、兄さんにお話ししようと思ってます」
朔夜は周りに集まった社員たちを、見渡した。楽しそうに酒を飲み、感想を言い合っている。松岡が蛍の隣で、周り社員にラベルの説明を熱心にしていた。
「……お前の案。黒崎邸じゃなく、今ここで、皆に聞いてもらった方がいい」
「え?」
蛍は少し驚いた顔をした。
「……お前は、人を巻き込める。それは、俺にはできないことだ」
朔夜の声は、いつも通り抑揚に乏しかった。それでも、その一言には、確かな響きがあった。
蛍はしばらく、朔夜の顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「……わかりました。では、聞いてください」
「……ああ」
朔夜は酒を、もう一度、口に運んだ。
テーブルの周りの声は、その後も、しばらく、賑やかに続いていた。
◇
数日後、蛍は経営企画部のフロアに、直接足を運んだ。
「松岡さん」
声をかけると、松岡が少し身構えたように振り返った。
「……なんだよ、いそ——じゃなかった、黒崎さん」
「桐生さんのお酒のことで。昨日わたし、若い世代や女性をターゲットにして広めたいって言ったじゃないですか。そこで……何か、いい案ないですか?」
松岡は一瞬、ぽかんとした顔をした。
「……は? なんで俺に」
「酒瓶とラベルのデザイン案。……松岡さんが起案したものだったから、協力してくれたらいいなと思いまして」
「……」
「……企画、得意でしょう?」
松岡は少しの間、黙っていた。それから隣の竹内と梅野に、目配せをした。
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
「おっ、松岡さん!」
「黒崎さんに絆されている!」
「お前らも考えるんだよ」
「「え?」」
◇
一週間後。社長室に、松岡・竹内・梅野の三人が、資料を抱えてやってきた。朔夜と蛍が、並んで座っている。
「……失礼します」
松岡が少し緊張した面持ちで、資料を配った。
「桐生商事の日本酒、若年層・女性層向けの販促案です。パッケージは、瓶のラベルを、季節限定のデザインに変更。バレンタインや年末年始に合わせて、色違いを展開します。それと——」
竹内が、続けた。
「市場データを調べたところ、スパークリング系の日本酒は、ここ数年、20代女性の消費が伸びています。SNSでの見え方も重要になるので、瓶のデザインは、写真映えを意識した形に」
梅野が、締めくくった。
「社員への福利厚生での導入ももちろんですが、黒崎の贈答品にも展開できます。……段階的に、販路を広げていく形で」
朔夜は、資料を最後まで、黙って読んでいた。
「……悪くない」
「……ほんとですか」
「数字の根拠も、しっかりしている。……この案で進めろ」
松岡たちは、思わず顔を見合わせた。
「……ありがとうございます!」
資料を片付けながら、松岡が、ふと蛍の方を見た。
「……あのさ、黒崎さん」
「うん?」
「……前に。色々、言っただろ」
蛍は少し、驚いた顔をした。
「なんの、ことですか?」
「あんたがずっと前、ロビーで挨拶してた時のことだよ」
「……」
「昨日ロビーで囲まれてるあんたを見て、思い出したんだよ……」
松岡は目をそらしながら、小さな声で言った。
「……悪かったな、蛍」
「……」
蛍はしばらく、松岡を見ていた。それから静かに言った。
「……わたしだけじゃなくて。兄にも、謝ってください」
松岡の顔が、固まった。
朔夜が腕を組んだまま、静かに口を挟んだ。
「……蛍」
「はい」
「お前、こいつらに、何か言われてたのか?」
蛍は少し、言い淀んだ。
「……わたしの名前、蛍じゃないですか。だから、虫みたいだって。……Gが居候してる、とか。害虫だから駆除した方がいい、とか」
朔夜の眉が、わずかに動いた。
「それで、兄さんのことも。……害虫を飼ってる社長も、ヤバいよな、って……」
朔夜の表情が、すっと消えた。
「……残念だが、企画は廃案だ」
「「「え!?」」」
松岡たちが、同時に声を上げた。
「さて。……こいつらを、どう処分するか」
朔夜は、資料をぱたんと閉じた。目に明確な、冷たさが宿っていた。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
松岡が思わず、声を張り上げた。
「お、お前、めちゃくちゃ根に持ってんじゃねーか!」
「当たり前ですよ」
蛍が、間髪入れずに答えた。
「何、勝手に許されたと思ってるんですか」
「わ、悪かった……」
松岡の声が、みるみる小さくなっていく。竹内と梅野も、青ざめた顔で、視線を泳がせていた。
「それから——」
蛍は、松岡をじろりと見た。
「髪の毛を染めるのは、うちの社内規定ではアウトです」
「……は?」
「竹内さんも、梅野さんも」
蛍の視線が、二人にも、順番に、向けられた。
「シャツも、着崩して……。それが、お洒落だと思ってるんですか? それと、梅野さん。そのピンクのシャツ、派手すぎます」
「なっ……」
三人が次々と、言葉を失っていく。朔夜は腕を組んだまま、静かに口を挟んだ。
「……総務に、服務規程の再確認を、通達させる」
「ま、待ってください、社長!」
「あと——」
蛍が続けた。
「就業規則の、ハラスメント防止規定のところも、ちゃんと読んでおいてください」
蛍が、にっこりと笑った。松岡たちの顔が、一気に青ざめた。
朔夜が冷たい声のまま、続ける。
「今後、規定違反が見つかり次第、厳正に対処する。……もちろん、企画も、この態度が改まるまでは、預かりだ」
「そんな……!」
松岡たちが、がっくりと肩を落とした瞬間——
「……冗談だ」
「え?」
朔夜が、ぽつりと言った。
「企画は、通す。……お前らの態度が、少しは、まともになれば、の話だが」
松岡たちは、しばらく呆然と、朔夜を見ていた。
「……社長。そういう冗談、心臓に悪いですよ」
「お前らが何をしたか、忘れるな。……それだけだ」
朔夜の声は、あくまで淡々としていた。それでも、その一言には、確かな重みがあった。
蛍はその隣で、ようやく少しだけ口元を緩めた。
「……次から、気をつけてくださいね」
「は、はい……」
三人は、しおしおと頭を下げながら、社長室を後にした。
◇
三人が、社長室を出ていった後。
扉が閉まる音を聞きながら、しばらく、二人とも、何も言わなかった。
「……蛍」
朔夜が、先に、口を開いた。
「昨日のことだが——」
蛍は少し、身構えた。
「……お前の言う通りだった。話も聞かずに、決めていた。……桐生のことも、それ以外のことも」
「……」
「悪かった」
短い、けれど、確かな言葉だった。蛍はしばらく、朔夜の顔を見ていた。
「……わたしも」
蛍は小さく、息を吐いた。
「感情的に、なりすぎました。……陽人くんのことも、桐生さんのことも、混ぜて、ぶつけてしまって」
「……いや」
朔夜は静かに、首を振った。
「あれはお前が、ずっと抱えてきたことだったんだろう。……聞かせてくれて、良かった」
蛍は少し、目を伏せた。
「……これから少しは、聞いてくれますか」
「……善処する」
「その返事、この前も、聞いた気がします」
「……努力はしている」
蛍はそれを聞いて、小さく笑った。
「はい。それで、十分です。……ありがとう、朔夜兄さん」
朔夜の手が、止まった。
「……いま」
聞き間違いかと思った。名前を呼ばれることに、慣れていなかった。……いや、正確には、こんな風に、温度のある呼び方をされたことが、なかった。
蛍を見る。彼女も呼び慣れていないのか、少し耳が赤くなってる気がした。
「な、なんですか? 兄さん」
「いや……」
朔夜は、何も言わなかった。それから、何事もなかったかのように、書類に視線を戻した。
蛍も同じように、視線をデスクに移して、パソコンを叩き出した。
静かだったが、決して居心地の悪くない空気だったことを、二人は知っている。




