桐生商事(2)
案内されたのは、ビルから少し歩いた先の、桐生商事直営の小さな居酒屋だった。暖簾をくぐると、カウンターの奥から威勢のいい声が飛んでくる。壁には、桐生商事の酒瓶が、ずらりと並んでいた。
「せっかくだし、飲んでみな」
運ばれてきたのは、細い瓶だった。栓を抜くと、しゅわ、と小さな音が立つ。グラスに注ぐと、細かい泡が立ち上った。
「……シャンパンみたいですね」
蛍が驚いて言うと、桐生は、にやりと笑った。
「スパークリング日本酒だ。若い客や女性に人気でな」
進められるがまま、二人は日本酒を口に含む。
「……あ」
「美味しい……」
思わず、声が漏れた。炭酸の爽やかさと、ほのかな甘みが、舌に心地よく広がる。日本酒特有の重さは、ほとんど感じなかった。
「だろ?……うちはな、玄人受けの酒をずっと作ってたんだけど、酒をいろんな人に楽しんでもらうために、こういった初心者向けの酒も考えてるんだ。誰が飲んでも美味いと思える酒を作ろうと思ってな」
グラスを傾けながら、桐生は続けた。
「日本酒って、こだわりだすとキリがない。米の品種、精米歩合、酵母、水。……語り出したら朝まで止まらない奴らもいる。でも、それを知らなくても、一口飲んで『美味い』って思えることの方が、よっぽど大事だと俺は思ってる」
「……なるほど」
「じいさんの代は、玄人向けの酒しか作ってなかった。それで、蔵が傾いた。……酒は、知識で飲むもんじゃない。舌で飲むもんだ。俺はそう思ってる」
桐生の声には、熱がこもっていた。数字の話をしていた時とは、また違う顔だった。
「ちなみに普通の辛口の日本酒は魚とか和食に合うんだが、今飲んでる炭酸系はチーズとか洋風料理に合う。日本酒一つにしても、幅が出ていいだろ?」
蛍は桐生の言うとおりチーズと合わせて日本酒を飲みながら、桐生の話を聞いていた。
「あと、忘れちゃいけないのが水だ。……うちは、朝霧の山手から流れてくる水を仕込みに使ってる。これがなけりゃ、この味は出ない。米も酵母も、いくら腕を尽くしても、水が変われば、まるで別の酒になる」
「朝霧?」
蛍が小さく、声を上げた。
「朝霧って、あの、山陰地方の朝霧町ですか?」
陽人が、確かめるように尋ねた。
「ん? ……ああ、そうだ。よく知ってるな」
桐生が、少し、意外そうな顔をした。
「昔から、あの山手の水は、いいと評判でな。うちだけじゃなく、あの辺りの店も、色々世話になってるって話だ」
蛍と陽人は、一瞬、顔を見合わせた。
「わたしたち、昔、朝霧に住んでいました」
「なに?」
「確かに、ホタルが住んでるくらいだから、水は綺麗なのかも……」
蛍がぽつりとそう呟くと、そういえば、と桐生が彼女を覗き込む。
「あんたの名前も、『蛍』だな」
「……はい」
「いい名前じゃねえか」
桐生は、それだけ言うと、また、グラスに口をつけた。
「ホタルみたいに、今の暗い経営を明るく照らしてくれたらいいんだけどな。日本酒の良さを一人でも多くの人に届けたかったが、実際それだけじゃ無理なことはわかってる。儲からないことには、数字がないことには、何もできやしない」
蛍はもう一度、日本酒を口に含み、味わいながら呟いた。
「……わたし、今日桐生さんにお会いしていなければ、日本酒が美味しいってことを、知らずに生きていたかもしれません」
「え?」
蛍は、グラスをことりと置いた。酔いの回った赤い顔が、それでも真剣な色を帯びる。
「会社を大きくすることや、数字のことばかり考えてました。……でも、本当にその企業が望んでいることを考えることこそ、大事なんじゃないかって。利益って、会社の売上だけじゃなくて。世界に役立つ技術とか、誰かの生活を支えるものとか。そういうのも、利益なのかと……」
「……あんた」
「僕も、そう思います」
蛍の意見に陽人が続いた。
「御影は、桐生さんの商品を、社員の福利厚生で仕入れていますが、大概はご高齢の社員さんに選ばれてる品でした。でも、僕たち若い世代でも美味しいと感じられるこういった商品があるのなら、伸びしろがあります。こちらの商品を福利厚生で取り入れて、女性や若い世代をターゲットにすればいいかもしれません」
桐生は黙り込んで、二人の意見を聞いていた。
「それ、いいかも。日本酒じゃなくて、『スパークリング日本酒』だったら、若い人もとっつきやすいし、瓶もお洒落にしたら、女性でも購入しやすくなりそう」
「それでその人たちが日本酒の良さを分かって、飲めるようになってきたら、既存の商品とかももっと売れるようになるかもね」
「おいおい、盛り上がってるじゃねえか……」
蛍は、拳を、そっと握った。
「桐生さん」
「……ん?」
「諦めるのは、やっぱりまだ早いと思います。わたし、必ず社長に伝えます。数字だけじゃない話を」
桐生は少しの間、蛍を見つめた。陽人も続ける。
「僕の方でも、もっと拡充できないか、検討してみます」
桐生は二人に向かって頭を下げた。
「ありがとう、二人とも。……若いのに、こんなに真剣に聞いてくれて」
「……桐生さん、日本酒を何本か購入してもいいですか?」
「え?」
「黒崎の社員と、それから社長に、試飲してもらおうかと思いまして」
「そんなの……。だったらタダでやるよ」
「いえ!ここはちゃんと支払わせてください!」
蛍は財布から現金を出すと無理やり桐生に持たせた。桐生は堪忍したようで「わかった、わかった」と言って持ち帰り用のスパークリング日本酒を、数本渡した。
「……頼んだよ、お前さんたち」
桐生から日本酒を嬉しそうに受け取る蛍の横顔を、隣で陽人がじっと見ていた。
◇
店を出たのは、夜9時を過ぎた頃だった。秋の夜風が頬を撫で、街灯が歩道を橙色に照らしている。桐生は、「また、詳しい話をしよう」と言い残し、店の奥へ戻っていった。
駅への道を、蛍と陽人は、並んで歩いた。
「……今日は、君がいてくれて、良かった」
陽人が、ぽつりと言った。
「一人だったら、もっと、時間がかかってたし、いいアイデアも出なかったと思う」
「わたしも、陽人くんがいてくれて、助かった。桐生さんの本音、なかなか聞き出せなかったと思うから。あ、それと——」
蛍が陽人の顔を見て、ニコッと笑った。
「初めて日本酒を飲んだんだけど、こんなに美味しいなんて知らなかった。まだ知らない美味しいものに出会えたよ」
「蛍……」
陽人の足が、一瞬、止まった。
「陽人くん?」
「……あ、ごめん。……それって昔、僕が君に言った言葉だよね?」
「覚えてたの?」
「忘れるわけ、ないよ」
3年前の朝霧の鳥よしで。
——まだ知らない美味しいものとか、綺麗な景色とか、色んな人にも、これから出会えると思うよ。
蛍はしばらくその言葉を、頭の中で繰り返していた。それから静かに笑った。
「わたし、あなたに出会ってなかったら、今ここに、東京にいなかったかもしれない」
「蛍……」
「もしあなたと出会ってなかったら、わたしを止めてくれる人がいなかったら……黒崎ビルの社員の人たちや、リコさん、藤堂さんとか―—わたしを心配してくれる人がいるんだけど、その人たちにも出会ってなかったし、それに——」
一呼吸置いて。
「……陽人くんは、よく思ってないかもしれないけど……兄さんにも、出会えなかった」
「……」
「兄さんとは色々あったし、今も揉めてばっかりだけど。……それでも、わたしを心配してくれる人に出会えて良かったって、思ってる。だから——」
蛍は陽人の方を向いて、真っ直ぐ見た。
「ありがとう、陽人くん。あの日わたしと、出会ってくれて」
陽人は、しばらく何も言えなかった。それから、ゆっくりと目を伏せた。
「……こちらこそ。……僕と出会ってくれて、ありがとう」




