桐生商事(1)
窓の外は、真夏の日差しで白く霞んでいた。冷房の効いた社長室にいても、ガラス越しの熱気が、肌にじんわりと伝わってくる。
秘書室の内線が鳴った。蛍が受話器を取る。
「社長室です」
「経理です。……桐生商事の広告宣伝費、まだ回収できていなくて。値引きにも応じて、瓶とラベルのデザイン案も御社の持ち出しで作られたと聞いていますが……それでも、去年の秋に一部入っただけで、それきりです。年を越して、もう半年以上になります」
受話器を置き、蛍は隣の社長室の扉を開けた。パソコンの画面から顔も上げない。
「兄さん。桐生商事の広告宣伝費、まだ回収できてないそうです。うちの持ち出しで試作の瓶やラベルまで作ってあげて、値引きもしてあげたのに、それでも払えていないって」
朔夜は、キーボードを打つ手を止めた。
「……わかった」
それだけ言うと、内線を切った。そのまま、卓上の電話に手を伸ばす。
呼び出し音は、二回で止まった。
「はい、桐生商事です」
「黒崎です。桐生さん、いらっしゃいますか」
少しの間があって、しわがれた声に代わる。
「……黒崎の、社長さん。お世話になっております」
「請求の件で、お電話しました」
それだけで、桐生には十分伝わったようだった。
「……申し訳ございません。支払いが滞っていること、重々承知しております。少し、猶予をいただければ——」
「昨年から、同じ話を伺っています」
朔夜の声に、感情の起伏はなかった。淡々と、事実だけを、積み上げるような話し方だった。
「試供品の件も、値引きの件も、こちらで飲み込んできました。ですが——」
電話口の向こうで、息を呑む気配がした。
「……これ以上は、難しいと判断しました。今月末をもって、お取引を停止させていただきます」
「ま、待って!」
蛍の声が、割り込んだ。朔夜が、受話器から口を離す間もなく、電話の向こうに、届いてしまっていた。
「……蛍」
朔夜の声が、低くなる。だが、蛍は、構わず続けた。
「相手の人と、会って話もしてないのに、切るの?」
電話の向こうで、桐生が、戸惑ったような気配を見せた。
「……あの、黒崎さん?」
朔夜は片手で、軽く目元を覆った。それから受話器に向き直る。
「……失礼しました。少々、お待ちいただけますか」
保留のボタンを押す。電話の向こうの音が、途切れた。
朔夜が、蛍を見た。
「……何のつもりだ」
「向こうの話も、聞いてないのに。電話で切るんですか?」
「そうだ」
「……向こうにも、事情があるはずです」
「事情があったとしても、債務を守れないところとは、付き合えない」
「でも……」
朔夜は保留のボタンへ、指を伸ばす。
「桐生さん。お待たせしました」
「あ……いえ。あの、お嬢さんが、何か……」
「こちらの都合です。……先ほどの件、改めてご連絡いたします」
「……はい。失礼いたします」
通話を切った。
通話が切れた後も、しばらく社長室は静かだった。
朔夜は受話器を置くと、何事もなかったように書類へ視線を戻した。蛍はその横顔を見ていた。
「……兄さんはいつもそうです」
朔夜は顔を上げなかった。
「先週の京都出張だって、当日の朝に言われました。予定なんて聞かれたこともない。今日の桐生さんの件も同じです。話も聞かずに一人で決めて」
「業務に支障はなかった」
「そういう話じゃありません」
朔夜はようやくペンを置いた。
「なら、どういう話だ」
「……わたしの意見を聞く気がないってことです。予定のことも桐生さんのことも。決めてから報告するだけ」
朔夜は束の間黙った。それから静かに言った。
「経営判断に、逐一意見を求める必要はない」
「経営判断の話じゃなくて——」
蛍は、手を握り締めた。何か張りつめていたものが、一気に押し寄せてきた。
「そもそも、ここに来た時から、全部そうでした。何も聞かれないまま話が進んで。今ここで働いてることだって別に嫌とかじゃないけど、秘書として働かなきゃいけないなんて、知らなかった。決まってから言われただけで」
蛍の声が少しずつ速くなっていく。
「……東京に連れてこられた時も、そうでした。勝手に車に押し込まれて。陽人くんに、何も言えないまま、何も知らないまま……」
「……あれは」
「今も同じです。相手の都合も事情も聞かずに、こうだって決めて押しつける。桐生さんのことも、わたしのことも——」
「聞く時間なんてなかった」
朔夜の声が、初めて感情を帯びた。
「……待っていられないことだってあるだろう。例えばお前のことだ。お前は、あの朝霧で、あの環境で、全部終わらせようとか考えてたんじゃないのか? そこに『たまたま』陽人がいたから、死ななかっただけだ。あいつが『たまたまいい人間』で、お前を気にかけてくれたから、死ななかった。あいつがいなかったら。それ以外の人間だったら。そもそも誰もいなかったら——」
一拍、間を置いて。
「……お前は死んでいた」
蛍が息を呑んだ。
朔夜の声は少し震えていた。そのまま、止まらなかった。
「失ってからでは遅い。手遅れになってからでは遅いんだ。……今判断しないといけないことだってある。それが文字通り命取りになることだって」
「それとこれとは——」
「同じだ」
朔夜が遮った。
「今回も同じだ。桐生も、これ以上待てば傷が広がるだけだ。判断が遅れて取り返しがつかなくなるくらいなら——」
「だからって、話も聞かずに切り捨てていいことにはならないでしょう!」
蛍も声を張り上げた。蛍の声も震えていた。
「もういい! わたしが桐生さんの話、聞いてきますから!」
蛍はそう言い放つと踵を返した。
「……待て!」
蛍はそのままドアへ向かった。ノブに手をかけたところで一瞬足が止まった。
振り返らないまま言った。
「……あの時、ちゃんと聞いてほしかった。わたしは陽人くんと一緒にいたかった。離れたくなかった。それだけだったのに」
声が掠れていた。それ以上は何も言わずにドアが閉まった。
社長室に朔夜一人が残された。
しばらく動けなかった。
蛍の泣き声と「離れたくない」という言葉が、胸の奥にある古い記憶を呼び起こしていた。
——お兄ちゃん、連れて行かないで!! 嫌だぁぁ!! お兄ちゃんっ!!
黒い車の窓越しに遠ざかっていく声。泣き叫んでいた6歳の妹。
あの日、自分も同じように泣いていた。離れたくない、蛍と一緒にいたい。そう訴えた。宗玄は聞く耳を持たなかった。何を言っても意味がなかった。決まったことだ、それだけだった。
——同じ、だ。
気づいた瞬間、喉の奥が冷たくなった。
自分は今、あの時の父と同じことをしていた。蛍の意思を聞かず、事情も聞かず、決めてから従わせていた。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこなかった。桐生への態度も蛍への態度も、正しいと信じてやってきたことだった。
朔夜は、閉ざされた部屋の扉を見つめたまま、動けなかった。
◇
桐生商事のビルに着くと、ロビーのソファに、一人の青年が座っていた。
「えっ……」
見覚えのある、柔らかい横顔。カジュアルなジャケットを羽織った出で立ちで、手元の資料に目を落としている。
「陽人くん?」
声をかけると、青年——御影陽人が立ち上がった。
「蛍? どうしてここに?」
「あ……ちょっと、話を聞きに……」
半ば兄と喧嘩をして飛び出してきており、アポなど取っていなかったが。
「陽人くんは?」
自分の話からそらそうと、質問した。
「桐生さんから、相談を受けてたんだ。うちの福利厚生で、前から桐生さんのお酒を仕入れてるんだけど……ちょっと経営がしんどいと聞いて」
「そう、なんだ……。朝、うちの会社で、桐生さんの未収金が回収できてないって……」
「……深刻かもしれないね。僕一人で話を聞くつもりだったけど、君が来てくれて、ちょうどよかった。一緒に話を聞きに行こうか」
蛍は頷いた。二人は受付でやり取りをすると、そのまま応接室に通された。
◇
しばらくすると、社長の桐生が応接室に入室した。40代前半の、精悍な男だった。ただ、その顔には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「……お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
陽人と桐生が挨拶すると、桐生は「で、こちらの人は?」と蛍の方を不思議そうに見た。
「あの、黒崎蛍と申します」
名刺を渡しながら、頭を下げる。
「今朝の電話の件、申し訳ございませんでした。桐生さんの話も聞かないまま、一方的に……」
「いや、悪いのはこっちだよ。黒崎さんには、無理言ってかなり譲歩していただいてたのに、こっちが何度も約束破ったから……」
桐生の声に活力は無かった。とりあえず座ってくださいと、手で促した。
「結論言うとさ、もう蔵を、畳もうかと思ってる」
「桐生さん」
「もう利益が見込めないし、支払いもできてない。これ以上迷惑かけられない」
陽人が、身を乗り出した。
「畳む前に、聞かせてください。……何がどうなれば、続けられそうですか」
桐生は、少し驚いたように、陽人を見た。
「……そんなこと、聞かれたのは、久しぶりだな」
蛍も、頷いた。
「わたしも、聞きたいです。数字だけじゃなくて、桐生さんが、この蔵をどうしたいのか」
桐生は、しばらく黙っていた。それから、ふっと、表情を緩めた。
「……ここじゃ、堅苦しいな。少し、歩くか」




