夏祭り(前編)
季節は夏の盛りだった。窓を開ければ生ぬるい風が入り込み、外からは夏祭りの告知ポスターが風に揺れるのが見える。来週末、町の神社で夏祭りがあるらしい。子供向けの小規模なものだが、屋台が並び、田舎が賑わう貴重なイベントのひとつだった。
夕方、図書館入り口のパンフレット入れに入ってたチラシを手に取り、蛍と陽人は机で眺めていた。
「――蛍、知ってる? 来週の土曜」
チラシには提灯のイラストと「第四十二回 夏祭り」の文字が踊っていた。
「……もしよかったら、一緒に行かない?」
さらりと出た誘いだった。けれど陽人は、チラシに目を落としたまま、その端を指で折っては伸ばしながら、蛍の返事を待っていた。
「……いいの? でも……」
蛍は、言葉を濁した。
――夏祭り。田舎からしたら一大イベントになる。図書館や水辺、天の川は誰も来ない秘密の場所であったが、町の中心にある河川敷付近で行う夏祭りは、周辺に住む人が一気に集まる。同級生に会うかもしれない。一人ならいい。でも、陽人くんと一緒にいるところを見られたら――
「……何か心配事、ある?」
「誰かに……見られたら」
「見られたら、何か困る?」
陽人は、ふっと笑みを浮かべた。
「もし嫌なこと言う奴がいたら、僕が隣にいるから大丈夫だよ」
窓から入る風がカーテンを膨らませた。
「……浴衣とか、持ってる?」
話を切り替えるタイミングが絶妙だった。重くなりかけた空気に、ふわりと夏の色を差し込む。
「そ、そんなの、持ってない」
「浴衣着たら、普段と格好が違うし、みんなにバレにくいと思うんだけど」
なるほど、と蛍は思った。確かに、私服で行くよりは目立たないかもしれない。しかし、浴衣を持っていないのは変わらない。
「……じゃあ、今から見に行こうか」
「え?」
「商店街にきもの屋さんがある。ここから近いよ」
言うが早いか、陽人は机にある本を片付けだした。蛍も急かされるように机の上を片付け始めた。
◇
二人が向かったのは、商店街の中ほどにある小さな呉服屋だった。「きもののみやび」と書かれた看板の下に、色とりどりの浴衣が吊るされている。店先には風鈴が下がり、風が吹くたびに涼しげな音を奏でていた。
「すいませーん」
暖簾をくぐると、畳の匂いと着物の糊の香りが混ざった独特の空気が出迎えた。奥から腰の曲がった小柄な老婦人が、ぱたぱたと出てくる。
「あらあら。こんにちは」
おばあちゃんは、二人を見てしわくちゃの顔をくしゃっとさせて笑った。
「おやおや。これは、お二人さん、お似合いね」
「あ、あの! 友達同士です!」
陽人の声が、裏返った。おばあちゃんはからからと笑って、「はいはい」と流した。
「それで、浴衣? お祭り用かしら」
「はい。この子に似合うの、選んでもらえますか。予算は……あんまり高くなければ大丈夫です」
「任せなさいな」
おばあちゃんの目が、きらりと光った。職人の目だった。蛍の前にすたすたと歩み寄り、顔をじっと見つめると、手慣れた動きで吊るされた浴衣の中から数着を選び始めた。
「あなた、色白だから淡い色が映えるわねえ。肌が綺麗だから、大胆な柄より品のあるものがいいわ」
次々と浴衣がハンガーごと運ばれてくる。白地に朝顔、薄紫の撫子、水色に金魚柄。どれも、蛍が普段手に取ることのない品々だった。
「これなんかどうかしら。ちょっと当ててみましょうね」
白地に、藍色の朝顔が描かれた浴衣を、蛍の胸元にあてがった。
「ほら、やっぱり。あなたの雰囲気にぴったり」
鏡の前に立たされた蛍は息を呑んだ。鈍い色のワンピースやジャージしか着たことのない自分に、こんな白地の上品な浴衣が似合うなんて、思ってもみなかった。
「……あ」
後ろで見ていた陽人が、小さく声を漏らした。口を開けたまま、固まっている。
「ほらほら、彼氏さんも見惚れてるわよ」
「だから彼氏じゃ……いや、うん。すごくいいと思う。似合ってる」
否定しかけて、結局、素直な感想に落ち着いた。耳が赤い。
「帯はこの白の兵児帯で合わせて、下駄は……サイズいくつ?」
おばあちゃんの手際は、恐ろしく速かった。次から次へと小物を合わせ、帯の結び方まで実演してみせる。まるで蛍のために最初から用意されていたかのように、すべてがしっくりと収まっていった。
「浴衣だけど、持って帰らずに、お祭りの当日ここに寄ってくれたら、着付けとか全部してあげるけど、どう?」
「え……いいんですか?」
「いいのいいの。当日は、夕方4時半くらいにいらっしゃい。髪も少し整えてあげるから」
にっこりと笑って、蛍の手をぽんぽんと叩いた。
「可愛い子の支度をするの、大好きなのよ。週末、楽しみね」
「ありがとうございます。じゃあ、当日よろしくお願いします」
陽人はぺこりと頭を下げて、支払いを済ませた。終始顔が赤い蛍を、おばあちゃんはほほえましく眺めていた。
◇
1週間は、長かった。
月曜から金曜までの5日間、学校での状況は改善するどころか、悪化した。机に花瓶が置かれていた日もあった。上履きがなくなり、裸足で過ごした日もあった。それでも、蛍は登校し続けた。あの浴衣のことを思い出しながら。
家での扱いも一段と酷かった。最近夜遅くに帰っているせいで、祖父は理由なく苛立っていた。男のところに行っている尻軽、淫売など、罵声も悪化していたが、蛍は一貫して勉強しているとだけ答えていた。
◇
そして迎えた土曜日。夏祭り当日。
朝から雲ひとつない快晴だった。蝉の声がうるさいほどに響き、真夏の日差しがアスファルトを焦がしている。夕方にはまだ時間があるが、町の中央からは、既に祭囃子の練習の音色が、風に乗って聞こえてきていた。
午後4時半。「きもののみやび」を訪ねた蛍を、店のおばあちゃんが満面の笑みで迎え入れた。
「来た来た! さあさあ、こっちいらっしゃい!」
奥の座敷に通され、てきぱきと準備された浴衣一式が広げられる。白地に、藍色の朝顔。1週間前、鏡越しに見たあの浴衣だったが、改めて間近で見ると、息が止まるほど美しかった。
そこからは、怒涛の着付けだった。おばあちゃんの皺だらけの指は、驚くほど正確で速い。朝顔の浴衣に白の兵児帯を締め、帯揚げでふわりと華やかさを出す。薄化粧まで施され、最後に黒髪を少しだけ編み込みにされた。
「はい、できあがり」
姿見の前に立たされる。そこに映っているのは、見知らぬ少女だった。
「これ、わたしですか……?」
「当たり前じゃない。ほら、自信持って」
背中をぽんと押して、もう一度鏡を見るよう促した。
白い浴衣が、蛍の色白の肌を際立たせ、薄化粧は地味だった顔を柔らかく整えている。編み込まれた黒髪がうなじを見せ、普段隠れていた首筋の細さが、浴衣の白に映えた。
「ちょっと、これ持っていきなさい」
小さな巾着と、下駄。巾着の中には、お祭り用の小銭が入っていた。
「何時に待ち合わせ?」
「5時に、神社の鳥居の前です」
「あら、あと少しじゃない。走れば間に合うわ。まあでも、転ばないようにね」
時刻は4時50分。おばあちゃんに見送られ、下駄をからころ鳴らしながら、蛍は神社へと向かった。慣れない下駄に何度かよろけながらも、胸の高鳴りが足を前へ前へと運んでいく。
神社に近づくにつれ、祭囃子と人混みが増えていった。屋台の明かりが夕暮れの空を赤く染め、焼きとうもろこしや綿菓子の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。提灯の列が参道を彩り、浴衣姿の人々が行き交っていた。
陽人はいつも通りの格好で、鳥居の前で待っていた。鳥居の朱色に背を預けて、スマホをいじっていた陽人が、ふと顔を上げる。待ち合わせの5分前。人の流れに目を走らせて蛍を探していると、参道の向こうから、からころと下駄の音が近づいてきた。
「あ、ほた――」
言葉が途切れた。
浴衣姿の蛍が、人混みの中から現れる。白地の朝顔柄が提灯の灯りに照らされて揺れ、編み上げた髪からのぞくうなじが、夕風にさらされていた。普段の制服姿とは別人のような佇まいに、陽人は数秒間、口を開けたまま固まった。
「……すごく、似合ってる」
それだけ絞り出して、慌てて視線を逸らす。耳の先が赤い。Tシャツにジーンズといういつも通りの格好の自分が、急に恥ずかしくなったのか、しきりに襟元を引っ張っていた。
「ごめん、なんか僕だけいつも通りで……もっとちゃんとした服着てくればよかった」
照れ隠しのように頭を掻いて、それから蛍に向き直った。
「うん。綺麗な着物、ありがとう。……陽人くん」
「どういたしまして。じゃあ――」
祭囃子がひときわ大きくなった。太鼓と笛の音が境内に響き渡り、参道には屋台の灯りがずらりと並んでいる。人の波が二人の横を流れ、祭りの熱気が渦を巻くように広がっていた。
「――行こうか。人多いから、はぐれないように」
そう言って、自然に手を差し出した。「手を繋ごう」とは言わず、ただ手のひらを上にして、蛍の前に差し出している。
「あ……」
顔が赤くなりながら、おずおずと、手をちょんと乗せる。乗せられた指先を、陽人は壊れ物を扱うように、そっと包み込んだ。
「よし、行こう」
人波に紛れて、参道を歩き出す。すれ違う浴衣姿のカップルたちに混ざって、浴衣の少女とTシャツの少年は、手を繋いで、祭りの中へと溶け込んでいった。




