天の川駅と星の図鑑
季節は7月に差し掛かっていた。蛍の日常は相変わらず、家では認知症の祖父からの叱咤、学校では虐めが続いていたものの、白石陽人との出会いによって耐えられる日々を送っていた。
学校の生徒は飽きもせず、蛍の名前を弄ったあだ名で呼んでいたが、蛍はあまり気にしないようにした。生徒は蛍のその無視する様子に、つまらなさを覚えた。
――「蛍さん」と。わたしの名前をちゃんと呼んでくれる人がいる。『黒虫』でも、『光らない虫』でも『害虫』でもなく。それだけで、大嫌いだった自分の名前が、「蛍」という名前が、少し好きになれるような気がした。
その日の放課後、鳥よしで陽人がくれた言葉を思い出していた。
――蛍さんが、まだ知らない美味しいものとか、綺麗な景色とか。……色んな人にも、これから、出会えると思うよ。
ふと、電車でどこかいい場所がないか、最寄りの朝霧駅で路線図の看板を見ていた。この路線は単線のローカル電車で、都会側・中央方面へ出る上りと、より深い山の方へ行く下りがあるが、蛍はこの朝霧町に来た日に都会方面から乗車しただけで、それ以降、利用したことがなかった。
どの駅に何があるのかわからないまま、路線図を見ていると、ふと声をかけられた。
「お嬢さん、どこ行きたいの?」
制帽を被った男性が声をかけてきた。どうやら運転手のようだった。
「えっと。……何か面白い場所、素敵な場所に行きたいんですが、穴場スポット、とか」
それを聞いた運転手は嬉しそうに答えた。
「遊びたいなら、無難に上り線に乗って中央方面に出たほうがいいけど、穴場なら反対、下りの、終点駅に行くといい。今の時期、夜になったら満天の星がよく見える」
「星、ですか?」
「あ、ごめんね。興味ない?」
「いえ――」
蛍は一拍おいた。好奇心からか、心臓が大きくドクンと鳴った。
「――近日中に、見に行きます!」
蛍はその日、水辺からの帰り道で、陽人に今度電車で終点駅に行って星を見に行かないかと声をかけた。
「星が見えるの?いいね、行こう!」
即答だった。翌日の夜に行くことになった。
◇
二人は朝霧駅から下り電車に乗りこんだ。電車に乗る際、ホームで蛍を見かけた運転手が声をかけてくれた。隣にいる少年を見て、そういうことか、と一人で納得したような、満足そうな顔をしていた。
終点の駅も寂れた無人駅だった。簡易な明かりだけが灯り、隅の方に木で立て、手書きで施された駅名看板が建ててあった。『天の川駅』と書いてある。おそらく、運転手の手で作った看板なのだろう。
「気をつけて行ってきな。ここを真っ直ぐだ。……ゆっくりしておいで、って言いたいところだけど、終電早いから、あまり遅くならないようにね」
二人はお礼を言って手を振った。運転手は終始ニコニコしていた。
奥に続く山道を真っ直ぐ進むと、開けた場所に出た。
「わあ……」
二人して息を飲んだ。
『天の川駅』の名に恥じぬ、満天の星が夜空に輝いていた。いつもいる朝霧の町中でも見ることのできない、無数の光の粒。ひとつひとつの星が鮮明に強く瞬き、大きなものも小さなものも、こぼれ落ちそうなほど密集している。中心には、白い霧のような帯が横たわり、その帯自体が、無数の小さな光の集合体でできていることが、目を凝らすとわかった。
ホタルの淡い光とは違った、静かな輝きがそこにあった。
「すごい、綺麗だ。こんな場所あったんだね!」
「うん……」
見上げるほどに、目が慣れていく。最初は見えなかった、薄い光の星々が、次々と輪郭を現していった。まるで、夜空そのものが、少しずつ蛍たちに心を開いていくようだった。
「本当に天の川だ……」
駅名の通り、たくさんの星でできた川が、空に流れているようだった。
「……蛍さん、誘ってくれてありがとう」
陽人はすぐにお礼を言った。
「誘ってくれて、嬉しかった」
「……違うよ。白石くんが、見たことない景色がまだあるよって教えてくれたから――」
夜空を見ていた蛍は、隣にいる陽人を見た。
「――ありがとう」
陽人は照れくさそうにしながら笑い、誤魔化すように空を見上げた。
「あ、あの星!すごく光ってるね。なんていうんだろう?」
陽人が指さす方。無数の星が密集する天の川の帯、その付近に、ひときわ明るく青白い星を見上げた。
「……あれ、ベガじゃないかな?」
「ベガ?」
「うん。たしか、一等星、だったと思う」
「蛍さん、詳しいんだね」
蛍は、あまり星を見上げたことがなかったが、昔の知識からか、なぜかわかる気がした。
――ベガ。一等星。
耳の奥で、誰かの声が、かすかに、こだましている気がした。
二人は、しばらく、光と、星の両方を、黙って、見上げていた。
◇
電車の終電は早く、8時半だった。
二人は名残惜しそうに電車に乗り、また見に来るかと相談していた。
「……それもいいけど、図書館とかで星の図鑑を見たら、もっと分かるかもしれない」
「図書館、いいね。僕、蛍さんのそういうとこ――」
陽人はそのあとに続く言葉を言おうとして、ハッとなり、思わず口を閉じた。
「うん?」
「いや、何も。……じゃあ明日の放課後、町の図書館で待ち合わせしよう」
陽人は慌てて誤魔化した。
◇
夕方。町の図書館は、古い二階建ての建物だった。
館内は、静かだった。天文コーナーは、隅の方に、ひっそりとあった。
「白石くん、見て。いろんな星が載ってある……」
「あ、あのさ」
「うん」
「陽人でいいよ」
「……え?」
本を読んでいた蛍が顔を上げた。
「……その、白石くんって、まだちょっと他人行儀な気がして」
陽人が蛍を見ると、蛍は本に伸ばしかけた手を止めたまま、固まっていた。
「仲良くなりたいから……。どうかな?」
「う、うん。じゃあ……」
蛍は俯きながら、小さい声で名前を呼んだ。
「……陽人、くん」
名前を呼ばれて、陽人は嬉しそうな顔をした。
「……じゃあ僕も。蛍さんのこと、蛍って呼んでいい?」
「あ……」
蛍は俯いたまま、静かに頷いた。
「ありがとう。……蛍」
『蛍』と、呼ばれて赤くなりながら、本を指さした。
「陽人くん。……この本にする?」
蛍は一冊の分厚い星座の図鑑を抜き出した。
二人は近くの机に座り、図鑑を開けた。
「……これ、見て」
陽人が、ページをめくりながら、言った。
「ほんとだ。ベガって、一等星なんだね」
「間違ってなくて、よかった……」
ほっと胸をなで下ろす蛍に、陽人はくすっと笑った。
「別に間違っててもいいよ」
そう言ってまた視線を落とす。ベガとアルタイル、二つの星を結ぶ天の川と、七夕の挿絵を眺めていた。
「あ、これは知ってる。七夕の……」
「織姫と彦星。年に一度しか、会えないんだよね」
蛍はそのページを、じっと見つめていた。二つの星の位置を指でなぞる。
「年に一度しか会えないのに、ずっと離れてるのに。それでも、想い合っている、運命の星……」
蛍は、そこで言葉を止めた。頬がじわりと熱くなるのを感じた。
陽人も何も言わなくなった。二人とも、ページの上の二つの星から目を逸らせなくなっていた。
「……あ、えっと……」
「う、うん。次のページめくろうか」
どちらからともなく、視線が逸れた。それでもしばらく、頬の熱は引かなかった。
「あ、こっちは、冬の星座だ。……一等星、シリウス。ふーん。ベガより、もっと明るいのか」
ページをめくり、冬の大三角を見ながら、陽人は図鑑の青白い星を指さした。
「……シリウス」
「冬も、また見に行こうか」
陽人が、当たり前のように、そう言った。
「……うん」
蛍は小さく頷いた。
それから二人は、この図書館に通うことも日常になった。星の図鑑だけでなく、他の本を並んで読むことも増えていった。
――ホタルの水辺。天の川駅。図書館。
誰にも知られない、二人だけの、静かな時間が増えた。




