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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
1章 水辺での出会い
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水辺での出会い

全話執筆済み。11月11日、エピローグまで毎日更新します。

 血は、選べない。

 生まれた瞬間から決まっていて、誰に望まれたかも、誰に厭われたかも、血の色一つでは分からない。

 気づけば、私は、独りだった。

 ――何をした、というのだろう。誰も、私の言葉に、耳を貸さなくなっていた。


 例えば、今もそうだ。

 黒服の男たちに半ば強引に車へ押し込まれたわたしは、自分の育った田舎町――朝霧町を後にしていた。

 もう、あの町へ戻ることはないだろう。

 山々が次第にビル群へと変わっていく景色を、わたしは、ただ無気力に眺めていた。


 ◇


 幼い頃、引き取られたのは、祖父母の家だった。

 祖母は優しい人だった。何も聞かず、ただ隣に座っていてくれた。夕飯の後、一緒に他愛のない話をするひとときだけが、蛍にとって唯一安らげる時間だった。

 その祖母が死んだのは、中学に上がって間もない頃だった。

 祖母がいなくなってから、祖父は、変わってしまった。

 最初は、物忘れが、増えただけだった。同じ話を、何度も繰り返す。昨日のことを、覚えていない。それだけなら、まだ、良かった。

 やがて、苛立ちが、目立つようになった。理由もなく、怒鳴る。誰かに何かを奪われたと、思い込んでいるようだった。祖母がいなくなったことすら、正しく、理解できていないようだった。

 蛍はそれでも、祖父と二人で暮らし続けるしかなかった。

 蛍はいつからか、あまり喋らなくなった。目を伏せることが増えた。笑い方を忘れたような顔で、学校では教室の隅に座るようになった。

 彼女が虐められるようになるまでに、時間はかからなかった。暗い顔をして言い返さないうちにエスカレートしていき、揶揄われることが当たり前になった。

 祖父の叱咤。学校の虐め。それを繰り返す日々が、17歳のある夕暮れまでの、彼女の日常だった。


◇


 朝霧町のアパートに住む蛍の朝は、祖父の叫び声から始まる。その声に飛び起き、祖父をなだめようとするが、かえって火に油を注ぐような行為で、余計に怒らせてしまうことが多々あり、これが日常だった。

 机の上の食器や酒の缶は飛び散り、床にごみと一緒に散乱していた。祖父はひととおり暴れると、疲れたのかその場に座り込み、今度は急に祖母の名前を呼びながら、早く帰ってこい、と泣いていた。

 蛍はその様子を疲れた顔で見ながら、カバンを背負い、アパートの家を出た。ちょうど隣人の男性も出勤する時間のようで、鉢合わせてしまった。

「お隣さん、頼むよ……。君のおじいちゃんの声、毎日あれ聞くの、ほんと勘弁して。何とかならない?」

 蛍は「すみません」とだけ言って、逃げるようにアパートを離れた。


 ◇


 教室に一歩入った瞬間から、空気が変わるのが分かった。

「あ、害虫来た」

 誰かが囁く。くすくすという笑い声が、波紋のように広がっていく。蛍は、何も聞こえなかったふりをして、自分の席へと向かった。

 机は相変わらず汚れていて、よくある罵倒の言葉に加え、『黒虫』や『害虫』などのあだ名で埋め尽くされていた。机の中は、ボロボロの教科書に混ざって、画鋲が入っていた。刺さらないように抜き取る。これが朝の教室のルーチンになっていた。

 昼休み、上履きに履き替えようとして、指先が濡れたものに触れた。雑巾だった。誰かの、使い古した、酸っぱい臭いのする雑巾。それが、丁寧に、上履きの形に押し込まれていた。

「――黒虫さん、今日も一人?」

 背後から、笑いを含んだ声がした。振り返らなかった。振り返れば、余計に面白がられるだけだと、もう知っていた。

「教室にいるのに、いないみたいだよね、あの子」

「虫だからな」

「いや虫のほうが、飛び回るし、まだ存在感あるかも」

 くすくすという笑い声。蛍は、雑巾を黙って拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。手が、少しだけ震えていた。それを、誰にも気づかれないように、そっと握りしめた。


 ◇


 その日の午後の生物の授業は、6月という季節にちなんで夏の虫を取り上げた。

 教師が黒板に、カブトムシ、クワガタ、セミなど虫の名前を羅列して書いていく。そして、『ホタル』の文字を書いた直後、後ろの席からクスクスと笑い声が漏れ始め、それは瞬く間に教卓の方まで波及した。

 教科書に虫の写真が載っていた。それを見ながら、誰かが言った。

「きも。マジ害虫じゃん」

 ホタルに向けて言った言葉だったろうが、まるで自分が言われているみたいに、蛍は感じた。

 教師は生徒の笑い声に気づきつつも、そのまま虫のホタルの説明を簡単にし始めた。

 ホタルは成虫になると繁殖のために夜に光るという。成虫になったホタルの寿命は1週間から2週間程度らしい。

「ホタルって交尾するために光るの?きも~」

「じゃあ黒虫蛍も光るの?」

 教室がどっと沸いた。「蛍ちゃん光ってるところ見てえわ」と誰かが笑いながら言った。

「せんせー。『ホタル』の寿命ってあと何日っすか?」

「さっき言っただろ。1週間とかだから、今からだと6月の――」

 それ以上は、聞こえないふりをした。

 ――ホタルを、見たこと、ないくせに。何も、知らないくせに。

 放課後、誰もいなくなった教室で、蛍は一人、鞄に荷物を詰めた。もう、いいか、とすべて諦めようかと思って、窓の外を見た。空はもう橙色に染まり始めていた。


 ◇


 校舎入口の下駄箱に詰められた土や虫を払いながら、蛍はもう、何もかもを諦めていた。ただ最後に、いつものお気に入りの場所に行こうと思い、真っ直ぐ帰らず、寄り道することにした。

 住宅街を抜け、街灯もまばらになっていく。舗装もされていない、細い道を30分ほど、歩く。

 やがて、木々が生い茂る場所に出た。昼間でもこの辺りは薄暗い。誰もこんな場所まで来はしない。

 この奥には小さな水辺があり、今の季節はホタルが生息していて、蛍が時々ひとりになりたい時に足を運ぶ場所であった。彼女にとって唯一、誰にも邪魔されず、落ち着いていられる場所だった。

 ホタルは、夜に光ると幻想的で綺麗で、それと同じ自分の名前も好きだった。だけどいつからか、黒崎から黒虫、害虫などと呼ばれるようになり、虫と同じ自分の名前も嫌になっていった。

 ――でも、もう、そう思うのも、今日で終わりにしようか。

 そんなことを考えながら、いつもの、小さな水辺の近くの場所へ、足を向けた。

 ……先客が、いた。

 男子高校生らしき人影が、一人、水辺の石に腰掛けていた。

 蛍は思わず、足を止めた。今日は、誰にも会いたくなかった。今日、だけは。

 静かに、踵を返しかけた。

 その時、ぱきっ、と足元で乾いた小枝が割れる音がした。

 人影が、こちらを振り返った。逃げようとする蛍に気づく。

「……あ、待って!」

 少年の声が飛んできた。

 蛍は驚いて体が止まった。振り返らないまま、しばらく、動けなかった。

「君もここ、知ってたんだ」

 少年が意外そうに言った。

「僕、去年、朝霧に来たんだけど。……ここ、お気に入りなんだ」

 蛍はしばらく黙っていた。それから、おずおずと振り返り、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

「……え?」

「見ておこうと、思って……」

 それだけ言うと、蛍はまた黙り込んだ。

 少年は少しの間、何も言わなかった。ただ水辺の石に腰掛けたまま、こちらに顔を向けている。

「……そっか。じゃあ、一緒に見よう」

 そう言って、少年はまた水辺の方へ視線を移した。

「……」

 蛍は気まずくなって、帰るべきか悩んでいた。

 少年は水辺を見たまま、自分の隣をぽんぽんと叩いている。

 やがて、ひとり分、離れたところにそっと腰を下ろした。

 しばらく二人は静かに、ホタルが飛んでいる水辺の方を眺めていた。

 幾つもの黄色く淡い光が、ふわふわと漂いながら、灯っては消え、また灯った。そのうちのひとつの光が、揺れながら蛍に向かって飛んできて、手の甲に止まった。まるで何か語り掛けてくるように、点灯を繰り返したのち、ゆっくりと水辺の方へ向かっていく。

 水面にもホタルの光が映りこんでいた。本物の光と、水に映る光。二重に瞬いている。風もないのに、水面がかすかに揺れるたび、その光の輪郭も、ゆらゆらと揺らいだ。

 昼とは違う、夏の虫の声と水のせせらぎが聞こえる、静かな夜だった。

「……ねえ」

 少年が、ふと声をかけた。

「明日も、一緒に見ない? また、ここに来ようと思ってて」

 蛍は目を丸くしながら少年を見つめた。

「……だめかな?」

 少年は少し首を傾けて、蛍を見ながら聞いた。

「えっと……。だめじゃ、ないけど……」

「じゃあ、決まり。明日夜7時ね!」

 蛍は、何も、答えなかった。ただ、小さく、頷いただけだった。


 帰り道。蛍は少年と途中まで一緒に帰ることになった。コンビニに立ち寄った少年は、おにぎりを一つ蛍に渡した。

「……はい」

「いや、でも……」

「晩ご飯、まだでしょ。それと、今日一緒に見てくれたお礼」

 蛍は、戸惑いながらも、それを、受け取った。おにぎりを渡すと少年は「じゃあ、明日ね」と言いながら、彼の家の方へ歩いて行った。

 蛍はしばらく少年の背中を見つめていた。ただのコンビニのおにぎりを、やたら大事そうに両手で包みながら。


 ◇


 翌日、蛍は、約束通り、水辺に向かった。少年は、既に、そこにいた。

「あ、来た」

 軽く、手を挙げる。蛍は、小さく、会釈を返した。

 昨日と同じように、水面の上を、いくつもの光が、ふわふわと、漂っていた。

「まだ名前言ってなかったよね。……僕、白石陽人(ようと)。よろしく」

 陽人が、先に、名乗った。名前を知りたそうに、蛍を見る。

「……わたしは、黒崎――」

 言いかけて止まった。そして、少し言いづらそうに続けた。

「……蛍」

 下の名前だけを、絞り出すように、名乗った。

「へえ、そうなんだ!」

 陽人は、その名前を聞いて、それから、目の前を漂う光へと、視線を移した。

「……ホタルと、一緒だ」

 陽人は、少し、笑った。

「綺麗な、名前だね」

「……わたしは、好きじゃなくて……」

 蛍は、ぽつりと、そう言った。

「そうなの?僕は好きだけど――」

 陽人はそう言った瞬間、ハッとなり慌てふためいた。

「あ、いや、今のは!君の名前が綺麗ってことで……」

「……ぷっ」

 蛍は、陽人の慌てる様子を見て、思わず吹き出してしまった。

「ふふっ。……笑ったね?」

「あ……」

「いいよ。ねえ、君のこと、蛍さんって呼んでもいいかな?」

「ん、っと……」

 蛍。学校では虐めのあだ名として扱われ、呼ばれたくない名前であったが。

「うん……」

 ただ、小さく頷いて、了承した。

 二人はしばらく、光の群れを並んで眺めていた。



 ◇


 それから数日、蛍は夜7時頃に、ホタルのいる水辺に足を運ぶようになった。

 陽人との会話は、多くはなかった。それでも、隣に、誰かがいるという時間が、少しずつ、当たり前になっていった。

「……白石くん。明日も、見に来る?」

 蛍が珍しく、自分からそう聞いた。

「あっ……。明日は、バイトがあって……」

 陽人が少し、申し訳なさそうに答えた。蛍はわずかに、肩を落とした。

「あ、そうだ」

 陽人が、思いついたように、続けた。

「よかったらバイトの店、来る? 焼き鳥屋なんだけど、おいしいよ」

「で、でも……」

「一回、食べてほしい。じゃあ明日夕方、コンビニのとこで待ち合わせしよう」

 陽人は半ば強引に約束したが、蛍はそれを拒絶できなかった。むしろ、どこかで嬉しいと思う自分がいたが、気づかないふりをした。


 ◇


 蛍は待ち合わせ場所のコンビニにいた。その後、陽人がコンビニに来て蛍と落ち合うと、陽人のバイト先の焼き鳥屋『鳥よし』に向かった。


 鳥よしの暖簾をくぐると、煙と、タレの香ばしい匂いが、一気に押し寄せてきた。

「――ん?陽人!」

 カウンターの奥から、40代の男が、顔を上げた。エプロンの胸ポケットに「店長」の名札があった。

「お前!何しばらくバイト休んで――」

 店長が陽人の後ろにいる少女をみて、言葉が途切れた。それから少しにやりと口角があがり――

「友達です!ここの焼き鳥を食べさせたくて!」

 店長が何か言う前に、陽人は先回りして説明した。

「……別に、まだ何も聞いてねえだろ」

 しかし店長の、何か言いたげな、にやけた顔はそのままで。

「……で?その子、彼女か?」

「だから、違いますって!」

 陽人は、しどろもどろになりながら、両手を振った。耳の先が、真っ赤になっている。

 蛍は、思わず、小さく、笑ってしまった。


 蛍は、店長に案内された窓際のテーブル席に座った。

 陽人は店の奥に入りエプロンをつけると、すぐさま接客をし始めた。

「あ、陽人くん!今日も、テキパキ動いてる~」

「今日のおすすめ、な~に?」

 カウンターに座る、常連らしき女性客たちが、明るく声をかける。

「もう、いい男に育っちゃって。……ねえ、うちの娘、紹介しようか?」

「そ、それは困りますよ」

「陽人くんがうちの娘の彼氏なら安心だし自慢なんだけどな~」

 陽人が、屈託なく笑って、器用に、串を並べていく。厨房のほうでも、誰かが、彼の名前を呼んでいた。

 その様子を見ていた蛍は、数メートル先にいる陽人が、なぜか物凄く遠い距離にいるように感じた。

 ――みんな、彼が、好きなんだ。

 当たり前のことなのに、なぜか、胸の奥が、少し、重くなった。

 自分にとって、陽人は、初めて、優しくしてくれた人だった。だから、勝手に、特別なことのように、思っていた。

 ――でも、違う。

 彼は、誰にでも、こうなのだ。誰からも、自然に、好かれる人なのだ。

 蛍は、俯いて、湯呑みの中の、お茶の水面を、見つめた。自分と彼とでは、住んでいる世界が、そもそも違うのかもしれない、と思った。

「お待たせ!」

 陽人が、焼き鳥の皿を持って、蛍の席まで、やってきた。

「これ、一番、美味しいやつ。……味、どう?」

 蛍は、一つ、口に運んだ。

「……美味しい」

「よかった」

 陽人は心底安心したように笑うと、また次の注文に呼ばれて、厨房のほうへ駆けていった。

 それから、しばらく、店は、忙しい時間が続いた。蛍は、その様子を、ただ、眺めていた。

 客が、少しずつ、減っていく。時計の針が、いつの間にか、随分、進んでいた。

「……そろそろ、帰るね」

 蛍が、席を立とうとした時、陽人が、ふと、隣に、来た。

「蛍さん。……今日来てくれてありがとう」

 そう言われて、蛍は「こちらこそ、焼き鳥美味しかったです。ありがとう」と返した。

「あの、さ……」

 陽人は何か、言葉を選ぶように、真剣な顔で蛍に言った。

「……蛍さんが、まだ知らない美味しいものとか、綺麗な景色とか。……色んな人にも、これから、出会えると思うよ」

 それだけ、言うと、陽人は、少し、照れたように、笑った。

 蛍は、しばらく、その言葉を、頭の中で、繰り返していた。

 ――死のうとしたこと、見透かされてたんだ。

 誰にも、言っていないはずなのに。誰にも、気づかれていないはずなのに。


 ◇


 アパートに帰宅すると、廊下で待ち伏せしていた祖父が、いきなり蛍の襟首を掴み、声を荒げた。

「どこほっつき歩いてた!? 最近ずっと遅いなぁ? 何しとる?」

「っ、あの――」

 蛍が答える前に、乱暴に突き飛ばした。

「男か? 男と遊んでんのか?」

「ち、違う!!」

「じゃあ、何してるんや!!」

 蛍は泣きそうになりながら、回らない頭で言い訳を考えた。

「べ、勉強してて……遅くなったの。ご、ごめんなさ――」

「家でもできるやろが!!」

 耐えていた涙腺が決壊した。泣きながら祖父に謝った。もう謝罪など、意味がないことを理解しながら。

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RTありがとうございます。 リアリティがあっていいですね。
今まで埋もれてたのが不思議なくらい良作。 続き読みますね
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