巡る星(後編)
テラスへ続くガラス扉を押し開けると、夜風が頬を撫でた。東京の夜景が眼下に広がっている。ビル群の灯りが煌々と夜を照らしていた。
手すりに指をかけて、息をつく。ここには誰もいない。会場内の熱気とは対照的な、静けさだけがあった。
ふと夜空を見上げると、この都会でも眩しく光る星があった。……ベガ。一等星。少し離れたところに、図鑑で読んだ光がもう一つ。確か、アルタイルだったか。
星を掴もうと、手を伸ばしてみる。届かない。宙をさまよった手を下ろしたとき、背後で扉が開く音がした。
「……こんばんは」
聞き間違えようのない声に、息が止まった。
「あっ――……」
ネクタイを緩めながら、白石――御影陽人はテラスに出てきた。ひとり分、離れた位置で手すりに肘をつき、夜景に目を向ける。
「……風、気持ちいいね。僕もちょっと、風に当たりたくて」
「……」
言葉が出てこなかった。
隣にいる青年の顔を見られないまま、視線だけが夜空とビルの間を泳いでいた。
車の走る音が、遠く聞こえる。眼下を、ライトが流れていく。風が、二人の髪を揺らして通り過ぎていく。
やがて、声がそっと降りてきた。
「……久しぶり、だね」
当たり障りのない、ひと言。けれど、少し震えていた陽人の声に、蛍はほっと肩の力が抜けた。
あの夜、ホタルの水辺で「一緒に見よう」と誘ってくれた時と同じ穏やかさ。蛍が言葉を見つけるまで、頷くまで静かに待ってくれているところも。
3年前と、変わっていなかった。
「う、うん。……えっと、元気……?」
それを聞いて、陽人は安心したように小さく笑った。その笑い方は、御影グループの御曹司のものではなく、蛍がよく知っている白石陽人のものだった。
「うん、元気だよ。君も……顔色は悪くないみたいで安心した」
二人の空気だけが、あの頃に巻き戻っている。
自分だけだと思っていた。そうじゃなかった。……忘れようとしたあの夏を、忘れられなかったのは。
「……本当に、本物の、あの白石陽人くんなの?」
「そうだよ。……あ、今は御影だけど」
夜景を眺めるその青年の横顔を、蛍は見つめる。
――3年経って。名字が変わっていて。キラキラした少年だった彼が、大人びて見える。
蛍は、言いたいことがいろいろあるはずなのに、うまく言葉にできなかった。隣に目を向けると、陽人もこちらを見て、困ったように笑っていた。
ふと空を見上げた陽人が、指をさす。
「あれって、ベガかな?」
蛍がついさっき見つけた星を、陽人がなぞる。
「一等星、だよね。君が教えてくれた。それであっちが、アルタイル」
「うん」
「ベガは変わらずに、明るく光ってるね」
遠い星を見つめながら、陽人が呟く。蛍も、朝霧町の天の川駅で見た満天の星を思い浮かべた。
「……君は、その、少し変わったよね」
視線は、夜空に向いたままだった。
「え? それは、陽人くんだよ。次期後継者なんて、すごいよ」
「すごくないよ。必死だっただけ。それに、君こそ――」
陽人は、蛍をまっすぐ見つめた。
「――綺麗になった」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ねた。
陽人は目を逸らさなかった。ビル群の灯りを映して、瞳が輝いて見えた。
やがて、その視線は夜景の方へ逃げた。自分が口にした言葉に照れたのか、耳の先が赤い。
「……ありがとう」
蛍の頬も熱くなった。心臓がうるさい。
「「……あの」」
二人が何か言いかけた時、背後で扉が開いた。陽人の護衛らしき男が静かに声をかける。
「陽人様、お時間です。次のご挨拶回りに、そろそろ……」
「……ごめん。行かなきゃ」
護衛の声に振り返り、頷いた。それから蛍に視線を戻して、名残惜しそうに微笑みながら、室内に入っていった。
◇
テラスへ続くガラス扉の前。閉め切られていないカーテンの隙間から、馬場と鹿島は息を殺して外を覗いていた。
護衛として会場内に控えているはずが、蛍がテラスへ向かうのを見て、こっそりついてきてしまった。職業的な反射だった。少なくとも、最初は。
柱の陰からテラスの方を窺っていると、白いスーツの青年が同じ扉へ向かっていくのが見えた。
気づけば二人そろって、ガラス扉に張り付いていた。
「お、おい鹿島……見ろ、あれ……」
馬場がカーテンの隙間からテラスを指さし、鹿島に囁いた。
「さっき入って行ったの、御影の御曹司だよな?」
鹿島が目を凝らす。
「あっ! 蛍様、赤くなっておられるぞ、今!」
「しかもあいつ、よく見るとイケメンじゃねぇか。サプライズ登場といい、反則だろ……」
二人は顔を見合わせた。
「……これは、見てていいやつか?」
「……職務上、蛍様の安全確認は、必要かと」
「そ、そうだな。安全確認だな」
二人は再び、ガラス扉に目を向けた。職務である。断じて野次馬ではない。
ふいに、風に乗って、扉の隙間から青年の声が漏れてきた。
『――君こそ、綺麗になった』
馬場と鹿島の動きが止まった。
「い、い、今の!! 聞いたか!?」
「聞いた!! 聞こえた!!」
「御影の御曹司が、蛍様に……」
「き、綺麗になったと!!」
馬場が両手で顔を覆った。指の間から覗く目が、ギラギラ光っている。
「待て待て待て。整理しよう。社長の妹君が、テラスでイケメン御曹司と二人きり。しかもあの空気感。『綺麗になった』。え? 知り合いか? 昔の恋人か? 禁断の再会ってやつか?」
「ひゃーーー!!」
「ま、待て! このことは、社長は知ってるのか!?」
同時に、二人の脳裏にあの光景がフラッシュバックした。いつか朔夜が、38度を超える高熱を出した時。医務室で看病する蛍の頭を撫でていた、あの瞬間の朔夜の顔。その時の蛍の顔も、少し赤かったような……。
「……こ、これは、つまり」
「……修羅場なのでは?」
馬場と鹿島が、天を仰いだ。
鹿島が恐る恐る馬場に尋ねる。
「しゃ、社長に報告すべきか?」
「できるか!! そんなこと!!」
その後、背後から来たスーツの男に声をかけられた。御影の護衛だった。
二人は揃って背筋を伸ばし、逃げるように持ち場に戻っていった。
◇
蛍がテラスへ向かった、ちょうどその頃。会場の一角、朔夜と聖治が人混みから少し離れた場所で、話をしていた。
「……黒崎君、びっくりした? まだあいつ20歳なんですよ」
聖治がグラスに入ったシャンパンを飲みながら、機嫌よく話す。
「俺が言うのもなんだが。陽人、なかなかイケてるでしょ?」
「……」
3年前、東京まで蛍を追いかけてきた白石陽人。それを自分が追い返したこと。それで終わったと思っていた。まさか3年後、御影の次期社長として現れるとは。
「……引く手数多でしょうね。それにお若いのに、肝が据わっていらっしゃる」
「でしょ?」
陽気な声が、ふっと落ち着いた。聖治の顔から、いつもの笑みが引いていく。
「陽人のことなんだが」
「……はい」
「実はね。あの子、もともとは経営に全く興味がなかったんですよ」
聖治が朔夜を一瞥してから、続ける。
「御影グループは俺の代で終わらせようと、本気で思っていた時期があってね。あの子が望まないなら、無理強いする気もなかった。それこそあいつは東京を飛び出して、田舎町の朝霧っていうところに行ってたくらいだったから。赤の他人でも、本当に志のある人間に継がせた方がいいとすら思っていた」
「……そう、でしたか」
「ところがね」
聖治はグラスを回しながら、続けた。
「3年前の秋ぐらいかな。あの子に何気なく話したんです。とあるグループの若いCEOの話を。ちょうど陽人と同じ高校生くらいの歳で、大企業に入って、誰にも認められない中で、経営者まで上り詰めていったという話を」
グラスに口を付けようとした朔夜の手が止まった。
「そしたらね。あいつの目の色が変わった。それまでぼんやりと聞いていたのが、急に前のめりになって……」
「……」
「それからですよ。陽人が経営の勉強を始めたのは。俺は何も言っていない。あの子が自分で動き出した」
会場の喧騒が、遠くから聞こえてくる。朔夜はグラスを持ったまま、聖治の言葉を黙って受け取っていた。
「黒崎朔夜君」
聖治がまっすぐに朔夜を見た。
「陽人に、火を点けてくれたのは、あなただ。あなたは自分が思っている以上に、人を動かす力がある。……陽人を、経営者にしてくれたのは、あなたですよ」
朔夜は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。自分が誰かの背中を押したなどと、考えたこともなかった。自分が誰かに火を点けたなどと。……しかも、白石陽人の。
「……買いかぶりです」
やっと、それだけ言った。
聖治は首を振った。
「謙遜はいらない。……ただ一つだけ言わせてくれ」
今更気付いた。聖治のそのまっすぐな目が、陽人と似ていたことに。
「ありがとう。それから、陽人はまだ俺や君の足元には及ばないが、経営者になるからには、俺はあいつにすべてを叩き込む。君と一緒に並ぶ――いや、あるいはそれ以上になるために」
聖治は言い終えると、会場の人だかりができている方へ歩いて行った。
気付けば会場の中央に人が集まっていた。輪の中で、陽人が笑いながら挨拶をしている。その周囲には、にこやかに話しかける来賓たちの姿があった。自然な距離感。誰にでも親しまれるような笑顔。自分にはない、あるいは遠い昔に失ってしまった熱意や眩しさが、彼にはあった。
――あれが、蛍を救った人間か。
胸の奥で、何かが静かに疼いた。その痛みのようなものが何なのか、朔夜自身にはまだ名前がつけられなかった。
「……御影陽人。いい経営者に、なるだろうな」
それだけ言って、グラスの酒ごと、何かを飲み込んだ。
◇
テラスから戻った蛍を待っていたのは、グラスを片手に壁際に立つ朔夜だった。
会場の中央では、陽人が来賓たちと談笑していた。その中には複数の女性がいて、陽人に何か話している。陽人は困ったように笑いながらも、丁寧に対応していた。いつか見た、居酒屋『鳥よし』の時と同じように……。
どこにいても、彼は人気者なのだろう。胸の奥がチクっと痛んだ。その痛みを誤魔化そうと、蛍はシャンパンのグラスを手に取り、半分ほど煽った。喉を冷たい泡が滑り落ちる。
「……一気飲みするな」
「喉が渇いてたので」
「顔が赤い」
蛍が残りを飲もうとグラスを口に近づけた瞬間、それを朔夜に取り上げられた。グラスを、丸いテーブルに置いた。
「……もう遅い。帰るぞ」
「……はい」
振り返りざま、会場を一瞥して、部屋を出る。
黒服の車へ向かいながら、酔いの回った頭の中で、今日のことを思い返そうとして――
うまくできなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
白石陽人は、御影陽人になっていた。
そして、どんなに遠くに行っても――あの目は変わっていなかった。




