巡る星(前編)
黒崎ビルで働き始めてから、3年半。蛍は20歳になっていた。
思えば、最初の頃は覚えることばかりで、一日が終わるとくたくただった。何一つできなかった蛍が、今では書類作成や会議への参加など、付き添いや指示が無くとも一人でこなせるようになっていた。
朔夜から任せられる仕事も増えていった。例えば、承認申請の業務。重要な申請は今も社長まで上がってくるが、その手前に蛍が入り、承認か差し戻しかを見極めるようになっていた。
成瀬とは月次会議に出るようになってから顔なじみになり、廊下ですれ違えば自然と軽い世間話が出る。園田や生駒には、未だに朔夜の話でからかわれる。エントランスでは、朝夕の警備に立つ黒服や、清掃係のおタキが挨拶をしてくれる。……それが、蛍の日常になっていた。
そんなある日。
「御影との協力関係を検討したい」
窓の景色を眺めながら、朔夜はそう切り出した。医療系大手との連携は黒崎グループにとっても意味のある話だ。
「そういえば来週の7月頭に、御影のレセプションがあるらしい」
総務部から回ってきた招待状を見ながら、朔夜が言った。招待状には『御影グループ創立記念レセプションパーティのご案内』とだけ書かれている。
「パーティの3日後に御影と打ち合わせをする予定なのだが、話を進める足がかりにはちょうどいい。蛍、お前も来い」
「わたしも行くんですか?」
「黒崎の人間として顔を覚えてもらえ。それに、こういう場に出たことがないだろう。慣れておけ」
朔夜は淡々とそれだけ言った。
◇
パーティ当日、定刻の1時間半前。17時。
蛍はレセプションパーティのために、化粧室で身なりを整えていた。女性の黒服たちが、用意された黒のイブニングドレスを蛍に着せていた。
着替えが終わったところで、扉の外から声がした。
「入っていいかしら~?」
入ってきたのはリコだった。化粧道具の箱を抱えている。
「髪とお化粧は、アタシに任せて?」
蛍は椅子に座らされ、なされるがままだった。リコの手が、迷いなく動いていく。
――30分後。
「はい、できあがり」
鏡を見た瞬間、蛍は言葉を失った。
見慣れない顔が映っている。
背中が少し開いた、しかし露出を抑えたシンプルで品のあるドレス。胸元にはさりげなくダイヤのネックレスが添えられている。黒いドレスが白い肌を際立たせていた。普段の幼さが消え、20歳の女性らしい大人な色が滲んでいる。
あの田舎町で画鋲や雑巾を詰められ、虐められていた『黒虫』が、今この鏡の中の人間と同一人物だとは、自分でも信じがたかった。
「……きれいじゃない!」
リコが満足そうに、両手を腰に当てた。
「元がいいんだから、もっと早くちゃんとお化粧してあげればよかったわ」
「……」
「蛍ちゃん?」
「ほんとに、わたし……?」
鏡に近づいて、そこに映った自分をまじまじと見つめる。
「な~に言ってるの、あんたに決まってるでしょ! 昔とは違うんだから、自信持ちなさいよ!」
「……リコさんのお陰です。ありがとうございます」
蛍は熱くなった頬を、指先でそっと押さえた。
「緊張してる?」
「……少し」
「そりゃそうよ。でも大丈夫。胸張って行きなさい」
化粧室を出ると、タキシード姿の朔夜が廊下で待っていた。
「……」
蛍をちらりと見た。そしてすぐに視線を逸らす。
「ちょっと朔ちゃん。女性がおめかしして出てきたら、紳士はなんて言うか分かる?」
「……」
「褒めるのよ。これ基本」
朔夜はもう一度、蛍を一瞥だけした。
「……悪くない」
「はぁ? それだけぇ? 相手が妹でもちゃんと褒めなさいよ!」
ぷりぷり怒るリコを見て、朔夜は煩わしそうに目をそむけた。
――もうちょっとなんか言ってくれてもいいのに……。
◇
会場は都内の高層ホテルの最上階だった。
エレベーターの扉が開いた瞬間、眩い光と、絶え間ない話し声と、グラスの触れ合う音が押し寄せてきた。
数百人規模の招待客。財界、医療界、政界。黒崎の名前で招かれた蛍は、朔夜の半歩後ろという定位置を歩き、付いていく。後ろに護衛の馬場と鹿島を添えて。
「……緊張しているのか?」
「し、してません」
「嘘をつくな。手が震えている」
蛍は自分の手を見られていたことに気づかなかった。
「……少しだけ」
「今夜は挨拶だけしていればいい。余計なことは言わなくていい」
「分かりました」
受付でプログラムを受け取り、会場に入った。黒崎朔夜に気付いた招待客たちが、すぐに周りへ集まってきた。順番に挨拶していく朔夜の横で、見様見真似で蛍も挨拶を交わす。
挨拶の列が途切れた頃、ウェイターが二人の元へやってきて、シャンパンを差し出した。
「……そこに。それと、後ろの二人には水を」
朔夜が目の前の丸いテーブルを示すと、ウェイターはシャンパンを二つと水のグラスを二つ置いて、頭を下げた。
しばらくすると、本パーティの主催者である社長の御影聖治が、主催者挨拶を終え、歩み寄ってきた。
「おお、黒崎君。お忙しい中、わざわざありがとうございます」
「ご招待いただき感謝します。……会場、さすがの規模ですね」
「はっはっは。まあ、見栄を張っただけですよ」
御影聖治は、蛍にも目を向け穏やかに会釈した。
「確かお嬢さんは、3年前くらいの秘書見習いの時に、御社のビルでお会いしたかな」
「……覚えてくださってたんですか!?」
「覚えているよ。いつも一人で対応する黒崎君に、珍しく女性の付き添いがいたから――」
と、そこまで言って、聖治がちらりと朔夜を見た。朔夜は小さく咳払いをした。
「御影社長……」
「ごめん、からかうつもりはないよ。それにしても、あの頃から見違えたものだ。黒崎君のご指導が良かったんだろうね。ドレスもよく似合っている」
「ありがとうございます」
蛍は頭を下げた。
ステージではちょうど、司会者がマイクの前に立ち、御影グループの創業からの歩みと、今後の展望について語っていた。よく練られた言葉が、広い会場に響く。
蛍は司会者に目を向けながら、その雄弁なスピーチを聞いていた。
と、その時、会場の照明がゆっくりと落とされた。
談笑の声が静まり、招待客たちの視線が、一斉にステージへと集まる。
司会者がマイクを握り直した。
「――さて、本日のプログラムには記載がございませんが」
会場に、小さなどよめきが走る。
「実は、皆様にご紹介したい方がいらっしゃいます。急遽のことで、資料には間に合いませんでした。どうぞ、悪しからずご了承ください」
蛍は思わず、手元のプログラムに視線を落とした。主催者挨拶、来賓紹介、乾杯の挨拶――見慣れた項目が並ぶだけで、それらしき記載はどこにもない。
「皆様を、混乱させてしまい申し訳ございません。実は本日、聖治様のご意向で、皆様を驚かせたくて……いえ、楽しませたくて、サプライズをご用意させていただきました」
朔夜が訝しげに視線を向けると、聖治が悪戯っぽく舌をぺろりと出す。
「さあ、準備が整ったようですので、登場してもらいましょう」
司会者が一呼吸置いて。
「御影グループの次代を担う、御影聖治の後継者――陽人様、御影陽人様です!」
――陽人?
その瞬間、蛍の思考が止まった。
聞き間違いかと思った。でもまさか。いや、同じ名前の他人、だろう。
隣にいた朔夜も、息を呑んだのが分かった。
スポットライトが、ステージ中央を白く照らし出す。
壇上に、ひとりの青年が姿を現した。
柔らかな髪。整った顔立ち。オフホワイトのスーツに身を包み、襟元にはシルバーのブローチを飾る。控えめでありながら、自然と目を引く品格をまとっていた。穏やかで眩しい少年の面影を残しつつ、しかし3年という歳月が、その輪郭を確かに大人のものへと変えていた。
――白石陽人。
見間違えるはずがなかった。6月のホタルの水辺。天の川駅の天体。夏祭りの夜。祭りの後、河川敷で……。
朝霧町にいるはずの、あの人が。
青年は、壇上で一礼し、マイクに向かった。
「御影陽人と申します。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。この度、御影グループの後継者として、皆様の前でご挨拶させていただく、機会をいただきました」
その声には、若さに似合わぬ落ち着きがあった。
陽人は決して長々と話さなかった。短く、しかし誠実に。御影グループへの感謝、これからの展望、そして集まった人々への素朴な謝辞。
「未熟な身ではありますが、一日も早く父の背中に追いつけるよう、精進してまいります。……どうかよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げると、会場から温かい拍手が湧いた。若い女性客の何人かが、壇上の青年を見ながら、ひそひそと囁き合っている。
「ね? 悪くないでしょう?」
聖治は満足げに頷いた。朔夜は腕を組んだまま微動だにしなかったが、その目はステージ上の陽人に向けられたままだった。
「……ああ。……大したものだ」
誰に向けるでもなく、低く呟いた。
壇上を降りた陽人の周りに、すぐに人が集まり始めた。次々と挨拶の輪が広がっていく。
蛍はその光景を、遠くから見ていた。
経済を学んだ。財務を覚えた。社外の人と関わる場も増え、黙るだけでなく意見を言えるようになった。この3年間で確かに変わったと思っていた。
なのに今、頭の中が真っ白だった。
あの『白石陽人』が、『御影陽人』として、あの場所に立っている。
……遠い人のようだと思った。あの図書館で一緒に勉強してた距離とは、全然違う場所にいる人のようだ。
「……兄さん、ごめんなさい。少しテラスで、風に当たってきてもいい?」
「一人で行くな」
「大丈夫。すぐ戻るから」
朔夜が何か言いかけたが、すでに蛍は踵を返していた。




