月次会議(後編)
それから2週間ほど過ぎた。朔夜の抱える業務のうち、簡単なものを蛍は少し引き受けることにした。
秘書室の扉がノックされた。
「はい」
ドアを開けると、この前の月次会議にいた総務課長が立っていた。
「これ、次の月次資料です」
資料を差し出す。総務課長の名前は成瀬という。蛍が資料を受け取ると、成瀬が口を開く。
「この前の会議、申し訳なかった。君たちが責められている時、何もできなくて……」
成瀬が頭を下げた。蛍は首を振る。
「成瀬課長は会議を切り上げてくれました。正直助かりました。むしろありがとうございます」
「いや。お礼を言われることは……。明後日、また月次会議だね。黒崎さんも出席するよね?」
「はい。……でも、質問は控えようかと」
「そうなるよね……」
資料を渡し終えた成瀬は、「また園田や生駒とも仲良くしてやって」と言い、総務部に戻っていった。蛍は資料を社長室に届けに行く。
部屋に入ると、朔夜がちょうど内線電話を切ったところだった。険しい表情をしている。
「……また何かあったんですか?」
朔夜は顔を上げた。
「父さん、が……」
「え?」
「……明後日の月次会議だが、会長も出席される、とのことだ」
蛍は目を見開いた。思わず資料を持った手に力がこもった。
社長室内は、しばらく沈黙が続いていた。
◇
2日後の月次会議に、会長・黒崎宗玄が現れた。
朔夜は事前に、宗玄の出席を各部課長に伝えていた。それでも会議室の空気は、緊迫感で凍りついていた。部長たちは表情こそ笑っていたが、いつも朔夜や蛍に向ける、嘲るような目はどこにもなかった。宗玄に一礼してから、一人ずつ席に着いていく。
蛍は今日も記録係として、入口近くの隅に座っていた。ノートパソコンを開く指先が、少し冷たかった。
宗玄は悠然と、一番奥の正面に当たる上座に腰を下ろした。朔夜は、そのすぐ脇に座っている。
全員が着席したのを確かめてから、朔夜は成瀬に目で合図を送った。成瀬が頷き、口を開く。
「それでは、定刻になりましたので、月次会議を始めます。まずは経営企画部から、お願いします」
経営企画部長が立ち上がる。先月と同じように、資料の数字を読み上げていく。ただ、その声は先月より幾分硬かった。
「……以上でございます」
部長は資料を閉じ、腰を下ろしかけた。
「――待て」
部長の体が止まった。
「売上が予算を下回っているのは、なぜだ」
宗玄が、すぐ隣にいる経営企画部長を見据える。
「は、はい。商談が、少々遅れておりまして……」
「なぜ遅れている。どの程度。いつ終わる」
部長の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「え、……あ、その、それは……」
続く言葉は、出てこなかった。しどろもどろになる部長を、宗玄は値踏みするような目で見つめていた。
「――朔夜」
「はい」
「なぜ遅れている? それから、費用が増えているのは?」
朔夜は資料に目を落とした。
「……先月から、育成のために若手だけで商談に行っております。条件の詰めに時間がかかり、二社が来月に期ずれする見込みです。予算との差は、ほぼこの二社分です。費用増は、その商談に伴う交際費と、烏丸・赤城方面への視察――」
宗玄が片手を軽く上げ、遮った。その目はずっと、脇に立つ経営企画部長を捉えている。
部長の額に、じわりと汗が浮かんだ。
「……聞いたか。社長は答えられる。お前は、なぜ答えられない?」
部長は、汗を垂らしながら俯くことしかできなかった。
「……逆に聞くが、朔夜」
鋭い視線が、隣の朔夜へ流れた。
「なぜお前が、そこまで説明できる?」
「――っ」
今度は朔夜が、言葉に詰まる。入口の隅にいる蛍も、その眼光の鋭さに、思わず身をすくめた。
「……自分で、調べたからです」
「……ふむ」
宗玄は小さくため息をついて、月次資料に目を落とす。
「広報部長」
呼ばれて、広報部長の肩が跳ねた。
「広報部も同様に、費用が増えているのはなぜだ?」
広報部長は、唇を湿らせてから口を開いた。
「ぶ、物品を、少々多く購入いたしまして……」
「何のために、何を、どの程度」
「それ、は……」
広報部長の視線が、資料の上をさまよった。
「物を買うのは、必要だからだろう」
「……」
「まさか、理由もなしに会社の……黒崎の金を使っているわけではあるまい?」
宗玄は、ゆっくりと部長たちを見渡した。
「私も、お前たちを『買った』。それなりの値をつけてな」
一拍、置いた。
「ペンを買って、インクが出なければ、使い物にならん。書けないペンを、持ち続ける理由は、ない」
会議室に、沈黙が落ちた。
宗玄はちらりと、経営企画部長に視線を流した。その一瞥だけで、部長の手から資料が滑りかけた。
「……王が替わっても、飛車は飛車のはずだ。だが、この者たちは、役割を分かっていないようだ。飛車が使えないなら、使える香車に替えればよい。そして――」
その目は、隣の朔夜へ移った。
「朔夜。お前の仕事はそれだ。使える駒を選び、死に駒は捨てる。……お前には、その権限がある」
部長たちの視線が、一斉に朔夜へ向いた。広報部長の喉が、ごくりと鳴った。
その様子に、宗玄は口元をわずかに緩めた。
「盤の上で、手を抜くな、と言ったはずだ。……お前はいつまで私に、それからこの者たちに、忖度し続けるつもりだ?」
静まり返った部屋の空気が、震えた。
「……忖度するな。情を捨てろ。盤上を、常に掌握しろ」
その声は、重く、静かだった。
「――孤独に耐えられる者だけが、王になる」
◇
「――次回に、期待する」
部屋の去り際、宗玄はひとつ言葉を残した。
扉が閉まった。
しばらく、誰もその場から動かなかった。動けなかった。
最初に口を開いたのは、成瀬課長だった。
「……皆様に、ご提案が。おそらく、もうお疲れのようだと思いますので、会議は明日、仕切り直しませんか?」
「賛成です」
経理部長が間髪入れずに賛同した。他の部長たちも頷いて、了承した。
部課長たちが重い腰を上げ、次々に立ち上がり、会議室を後にする。
残ったのは、蛍と朔夜、そして成瀬の三人だった。
「……すまなかった」
成瀬は朔夜に頭を下げて謝罪した。
「成瀬課長、何のことですか?」
成瀬は顔を上げた。
「ずっと、おかしいと思っていた。意見を言うくらい、できたはずなのに」
「あなたは悪くありません。……俺が悪いんです」
それから朔夜は俯いて、続けた。
「父さんの言うとおりだと思いました。王は指示しないといけないのに……俺にはまだ社長という肩書は、早すぎるんだと思います」
「そんなことはない。宗玄さんは、君に期待しているんだと思うよ」
成瀬は、ふうっと疲れたように息を吐いた。
「あんまり、無理するなよ。私にできることは少ないが、何かあれば、言ってほしい」
その目は社長ではなく、28歳の青年を労わる目だった。
成瀬は蛍にも視線を向けた。何かあれば彼の気持ちを代弁してほしい、そういった思いを込めて。
◇
「では、経営企画部から」
翌日。予定通り月次会議は仕切り直された。
「……以上です」
「経営企画部長、ありがとうございます。……何か質問はございますか?」
「……」
管理職たちが、どうしようかと互いを見る。
「……では、私から」
成瀬が小さく手を挙げた。
「昨日の件について。若手だけで商談に行かせているとのことでしたが、来月以降、挽回の見込みはあるんでしょうか?」
経営企画部長が面倒くさげな目をした。だが、正面にいる朔夜の鋭い視線に気付き、慌てて資料に目をやった。
「……は、はい。来月からは課長を同行させます。期ずれの二社も、今月中に条件を固める予定です」
「ありがとうございます。他に、質問は――」
「はい」
「では、総務部長」
その後も会議は、経営企画、広報、経理……と順に報告があり、所々質問が入る形で、資料説明は終わった。1時間以内で終わっていた普段の会議は何だったのか、気付けば2時間も経っていた。
「部長の皆様。ご報告ありがとうございました。では、社長、総括を」
成瀬に促され、朔夜は立ち上がった。
「……総括ですが」
手元の資料を広げた。
「今期は、全体的に数字が下がっています。経営企画部の方針通りに進め、収益増を確保したいと思います。それと――」
資料を、静かに閉じる。
「今まで、忖度していたこと。私が皆様に指示を出さず、仕事を引き受けてしまっていたこと。深く、お詫び申し上げます」
「……」
「私は、自分をもう一度見つめ直して、皆様の、そして父の期待に応えられるよう、役割を果たしてみせます。なので、皆様もどうか力を貸していただきたい」
部課長を見渡す。
「……私が、その『決断』をしないように」
部長たちは、息を呑んだ。
たった一言で。あの高圧的な態度だった部長たちが、いとも簡単に怯んでいる。
「あ、あの、社長……」
正面にいる経営企画部長が手を挙げる。
「なんでしょうか」
「……承認フローを、見直します。うちの部で完結できる案件は、今後、社長まで上げません」
会議室が、微かにざわついた。経理部長も、それに続いた。
「経理も……部長決裁で完結できる金額の基準を、見直す方向で検討します」
朔夜は、それを、黙って聞いていた。
「社長」
次は広報部長が声を出した。
「先日は、リグレットのご対応、ありがとうございました。『メゾン・クレール』の件、完全に失念しておりました」
「……」
「次回からは、このようなことがないよう、努めさせていただきます」
朔夜は、低い声で応えた。
「……そうですね、お願いします。クレームについても、まずは部でご対応を、お願いします」
会議室を出た時には、昼を回っていた。
管理職が部屋を出るその背を、朔夜は静かに見つめていた。
――こんなにも呆気なく、部課長の態度が変わるなんて。
蛍が声をかけるまで、朔夜は呆然と立ち尽くしていた。
◇
それから、数日。
朔夜のデスクに積まれていた決裁書類は、徐々に減っていった。内線の数も、以前の半分ほどになった。
夜。ダイニングで蛍と向かい合って夕食を取りながら、朔夜は、ふと箸を止めた。
今まで、ノートパソコンを家に持ち帰り、仕事をすることもあった。今では、それも減ってきている。
――父さんの言った通りだった。
忖度も、遠慮も、必要なかった。強く出るだけで、組織は変わる。
「……兄さん?」
「ん。なんでもない……」
社長という肩書を、そしてその役割と力を、忘れてはならない。
――孤独に耐えられる者だけが、王になる。
朔夜はその言葉を反芻しながら、ただ静かに箸を進めた。




