月次会議(前編)
季節は9月。夏の暑さが、まだ少し残っていた。
蛍は東京に来て2年ほど経ち、19歳になっていた。
蛍は毎月送られてくる損益計算書と貸借対照表に、必ず目を通すようになっていた。最初は数字の羅列にしか見えなかったものが、今ではどの費目が膨らんでいるか、どこにお金が流れているか、少しずつ読み取れるようになっていた。
「社長。この販管費が先月より増えているのはなぜですか?」
「広告費、消耗品費、手数料など、いくつかの費用が増えているからだ」
朔夜は資料ではなく、パソコンを見ながら答えると、ふと蛍に目をやった。
「蛍。もうPL――損益計算書がある程度読めるなら、来週の月次会議に出てもらうか」
「え?」
「月次会議。月に一度、各部門の実績と課題を報告する場だ。……議事録も板についてきたし。会議の準備からやるんだ。いいな?」
「わかりました」
◇
当日、用意された会議室は社長室よりも一回り広かった。蛍は会議の1時間前に長方形の机の各座席に資料を置いて、モニターなどの準備をした。議事録を取る蛍の席は、入口側の隅に用意した。
10時少し前、各部門の部長・課長クラスが十名ほど、会議室に入ってくる。管理職たちは秘書である蛍をちらちら見ながら、席に着き始めた。蛍は通り過ぎる管理職たちに、軽く頭を下げた。貫禄のある顔ぶれに、少し緊張していた。
右手には、奥から経営企画、広報、経理の部長が並ぶ。椅子に深くもたれ、隣同士で何か言っては低く笑っていた。左手は、奥の一席を空けて、総務、人事の部長が続く。総務を除く各部の課長は、それぞれの部長の隣に座った。手前の端には、進行役の総務課長。そして入口の隅に、蛍。
――定刻になると、朔夜が入ってきた。左手の一番奥、空けてあった席に腰を下ろす。
部屋の空気が、一段、張り詰めた。
「時間になりましたので、会議を始めます。その前に――」
朔夜は蛍を一瞥した。
「今日から、月次会議に記録係として、黒崎秘書が同席します。黒崎秘書」
朔夜は名前を呼んだ。軽く挨拶しろと、目配せする。
「……社長秘書の、黒崎です。本日、議事録を担当いたします」
軽く会釈をして、席に座った。
蛍が挨拶をし終えると、朔夜は進行役の総務課長に目配せした。課長は頷き、進行を始める。
「まず、経営企画部から。お願いします」
そう言われた40代の小太りの男は、少し嫌な顔をしながら、手元の資料を雑に読み上げる。
「……以上です。何か、質問は」
会議室に、数秒、沈黙が落ちた。
「では、これで――」
「あ、あの」
早々に切り上げようとした経営企画部長の声を、蛍が遮った。部長は、煩わしそうに目を細めた。
「――黒崎秘書。どうぞ」
総務課長が質問するよう促す。
「はい。えっと、交際費が増えているのはなぜですか?」
「……それは会議や視察の回数が増えているからだ」
「どこに、視察されたんですか?」
経営企画部長は、はあ~と長い溜息をついた。
「別にどこだっていいだろう! 数字の話と何か関係あるのか?」
「そ、それは……」
言い返せず黙り込んでしまった蛍を見て、朔夜は経営企画部長に目を向けた。
「――部長。経費が掛かっていることなので、お答え願えますか?」
経営企画部長は舌打ちをした。
「烏丸財閥周辺と赤城グループ傘下の視察だよ! ……これで満足か?」
「……」
朔夜がしばらく黙った後、口を開く。
「……政治情勢やそれによる不動産事業の動きの確認による視察、ということですか?」
「そうだ!」
「それによりどのような成果を得られたのかご報告願えますか」
「それは取りまとめ中だ」
部長が鋭く朔夜を睨む。
「……わかりました。では、次回の月次会議の時に、成果と今後の方針をご報告ください」
経営企画の報告が終わり、次は広報部の番になった。
「質問はありますか?」
広報部長が終えようと資料を机の上に置く。
「はい」
蛍が手を挙げた。広報部長だけでなく、他の部長も「またか」といった様子で呆れた溜息をつく。
「あの、消耗品費が、増えてて……」
「……そんな微々たる増加が気になるのか?」
「……」
突き刺さる言葉と乾いた笑いに、蛍は口を閉ざした。
「……コピー用紙の物価高と、広報資料を多く印刷したから、その増加です」
朔夜が代わりに答えるや否や、広報部長が声を上げた。
「いちいち下らん質問をするなぁ。お兄さんが答えられるなら、家帰ってから訊けばいいでしょう」
それに便乗するように経営企画部長も乗っかる。
「そもそも黒崎君が答えられる時点で、質問とか要らんだろう!」
「……それは、違います。私は経営企画部長の視察の目的を把握しておりません」
「お前も五月蠅いなぁ! 最近の若者ってのは、こうも物分かりが悪いのか? そこの秘書も妹だか何だか知らないが、身内だからってコネ使って入社させて。それにこの場に呼ぶなら、ちゃんと躾してから連れてこないと」
「……経企部長、躾も何もないでしょう」
広報部長が、鼻で笑った。
「そうだった。……うちの部署の若いのが言ってたな。虫だって」
蛍は息を呑んだ。背中に、冷たい汗が滲む。喉元までせり上がった言葉を、必死に呑み込んだ。
目の前では、部長たちが薄笑いを浮かべている。
「経営企画部長。それに、広報部長も。……今の発言は撤回してください」
朔夜の声は、低かった。
「あ?」
経営企画部長の声に、鋭さが混じった。隣の広報部長も、無言で朔夜を睨んでいる。
「お前、社長だからって調子に乗るなよ。親の七光りのくせに! 会長も会長だ。こんな若造に会社を任せるなんて、頭がおかしいんじゃないか?」
「部長! 私はいいですが、会長ならびに秘書への侮辱はやめてください!」
朔夜が声を荒げた。
「おい、小僧! 身内を庇うなんて、私情が入ってるんじゃないのか!? ここは会社だぞ!?」
「そんなことは――」
「まあまあ! 落ち着いてください、部長!」
立ち上がった経営企画部長を、経理部長が肩を押さえて席に座らせた。広報部長は腕を組んだまま、口の端だけで笑っている。総務部長の額には、うっすらと冷や汗が浮かんでいた。
総務部長が、端の席にいる総務課長に目配せする。課長が、静かに手を上げた。
「――黒崎社長。今日はこの辺りにしませんか」
総務課長の声には、焦りが滲んでいた。
朔夜は部長たちを見渡した。これ以上続けても、まともな議論にはならない。
「……分かりました。本日の会議はここまでとします。各部、未報告の事項については、改めて提出してください」
部課長たちが次々に席を立ち、会議室を後にする。経営企画部長、広報部長は蛍と朔夜を一瞥しながら出て行った。
「黒崎君。あの二人をなだめるのも大変なんだからさ。秘書の面倒、頼むよ?」
わざとか。経理部長は、蛍に聞こえる声で囁き、出て行った。
会議室に、二人だけが残った。
「……蛍」
朔夜が心配そうに声をかけると、蛍の目から涙が落ちた。
「あ……」
蛍は咄嗟に朔夜に背を向けて、目を手で擦った。
「ご、ごめんなさい……」
「お前は何も悪くない」
「でも……」
「先に、話しておくべきだった。……ああいう人たちだと」
蛍は首を振った。朔夜は机に目を落としている。
「……会議に呼んで、悪かった」
「兄さんは何も悪くない!」
そう言いながらも、胸の苦しさは消えなかった。
自分が質問しなければ、兄があんなふうに侮辱されることもなかったのではないか。そんな考えが、頭から離れなかった。
「……とりあえず今は部屋を片付けよう。蛍、落ち着いたら手伝ってくれ」
朔夜は会議室の資料を回収し始めた。蛍も少し気持ちを落ち着けてから、机を元の位置に戻し始めた。
◇
その日の夜。蛍は久しぶりにリコに会いに、バー『月光』に足を運んだ。愚痴でも聞いてもらおうかと思っていた。
今日の月次会議の出来事を話す。リコは小鉢や唐揚げを出しながら、相槌を打っていた。
「ひどい連中ね。蛍ちゃんもつらかったろうけど、朔ちゃんもよく耐えたわね~」
「兄さん。ずっとああいう人たちの侮辱を受けてたんでしょうか……」
「受けてたんじゃない? あの子、結構耐えちゃう子だから」
「どこにでもいるんですね、ああいう人は」
カクテルを作るリコを眺めながら、蛍は小さく溜息をついた。
「会議での質問も、ちゃんと返ってこなくて。……兄さんの方が的確でした」
「あら~」
リコが突然腰をくねらせ始めた。
「あんたが朔ちゃん褒めるなんて~。仲良くなったのね♡ ちょうど2年前くらいまでは朔ちゃんのことムカつくだの大嫌いだの、最低だの言ってたのに~」
「そんなに仲良くないです!」
「照れなくていいのよ?」
「照れてないです!!」
「もお~! ムキになっちゃって~!」
リコが笑いながら蛍の目の前にカクテルを差し出した。
深い藍色に、無数の気泡がぱちぱちと弾けては消える。薄暗いバーの店内で見たそれは、まるで星空のようだった。
「あの、まだわたし……」
「ノンアルコール、ただのソーダよ」
リコが飲んでみなさいと顎でしゃくった。蛍がグラスに口を付ける。
口の中でしゅわしゅわと弾けながら、甘いソーダが広がった。
「甘くておいしい……」
「ふふっ。……唐揚げの横にレモンあるでしょ?」
リコが器の中に入ったくし切りのレモンを指さす。
「それちょっと貸してみて」
器の中のレモンをリコに渡す。リコがカウンターの向こうから手を伸ばし、グラス上でレモンを少し搾った。果汁がソーダ水に落ちる。そこから、薄紫が広がっていく。
「わあ……」
「飲んでみて」
「甘酸っぱい……おいしい!」
「……作ってあげるって言ったでしょ。ずいぶん待たせちゃったけど」
リコはそのレモンを、グラスの縁に挿した。
「今日のカクテルは、店の名前にちなんで『月の光』よ。そのレモンは好きなだけ搾って、自分で完成させるのよ?」
グラスの中で淡い薄紫が藍色を包んでいく様子を眺めながら、蛍は残りの唐揚げを頬張った。
◇
翌週の水曜日の朝。
「そういえば、兄さんって水曜日はいつもいないですね」
最近は朝食をダイニングで共にすることも増えたが、水曜日だけは、朔夜の席がいつも空いていた。
「はい。坊ちゃまは毎週水曜日、朝早くからご出勤なさっています」
藤堂が、蛍の前にコーヒーを置きながら答えた。
「早くって……何時ですか?」
「爺も早起きなのですが、あの方は毎週水曜、朝の6時前にはお出になります」
「6時!?」
飲みかけたコーヒーを、吹き出しそうになった。自分がまだすやすや眠っている間に、あの人はもう仕事をしているということだ。
そういえば、兄が高熱で倒れていた時、承認申請やメールが恐ろしい件数溜まっていたことを思い出す。
「坊ちゃまは若くして社長を務めておられます。年功序列が残っている会社ではやりにくいこともございましょう。自分で引き受けてしまっている業務もあるようです。中でも部長クラスにはなかなか手を焼いておられるかと……」
先日の月次会議が頭をよぎる。
「細かな業務から、資料作成、見直しまで。自分が行ったほうが早いのか、隙なく手を回しておられる様子です」
それを聞き終えた後、蛍は立ち上がった。
「……藤堂さん、ちょっとわたし、もう出勤します」
「お嬢様、まだコーヒーが残っております。……あ」
蛍は藤堂の制止も聞かず、黒崎邸を飛び出した。
「――何かあったんですか?」
廊下ですれ違った鹿島が呑気な声で、藤堂に聞いていた。
◇
――黒崎ビルに入った蛍は最上階へ向かい、社長室のドアを開けた。
「……蛍!?」
朔夜は驚いて声を上げた。眼鏡の奥の目には、隠しきれない疲労の色があった。
蛍はそのままデスクを回り込み、朔夜のパソコン画面を覗いた。
「な、何だ?」
承認待ちの通知が、画面いっぱいに並んでいた。
ふと、デスクの上を見渡す。書類の束。よく見ると会議用の資料がずらりと並んでいる。
資料には付箋が多々貼ってある。達筆な字で簡単なメモ書き。この前の月次会議の増減説明まで。
――この会社で、ずっと、こんな日々を……。
「兄さん、わたしに何かもっとできることはないですか?」
「いや、お前はもう十分――」
その時、内線が鳴った。
「はい、黒崎です」
朔夜が受話器を取る。
「……ああ。わかった、俺が行く」
短い会話をしたのち、内線を切る。
「何かあったんですか?」
「取引先からのクレームだ。……ロビーに来ているらしい」
蛍は怪訝そうな顔をした。
「え!? 兄さん――社長が行くんですか?」
「広報を呼んだが、内線が繋がらなかったようだ。取引先を待たせるわけにはいかない」
朔夜はそれだけ言って、上着を羽織り、社長室を出ていく。蛍も慌ててその後を追った。
◇
1階ロビー。受付の前でおしゃれな男が声を上げていた。
「広報の方が出てこないってどういうことや? お宅の会社、どうなってますねん?」
「す、すみません……!」
受付嬢が涙目で対応していた。セキュリティゲートから出てきた朔夜を見つけた途端、叫んだ。
「社長!!」
朔夜は派手な男に目を向けながら近づく。その男も、黒いスーツの朔夜と後ろから追ってきた蛍を、交互に見据えた。
「あなたが、リグレットの――」
「はい。神代、言います。あー、あなたが噂の……いやぁ、写真で見るより色男やなぁ!――ってちゃうちゃう!」
関西弁の男――神代は、慌てて自分の頬を叩いた。
「俺、社長じゃなくて、広報部長さん呼んでんねんけど?」
「申し訳ありません。……広報部長は体調不良なので、私が対応します」
「はあ?」
神代は、訝しげに顔を歪めた。
「じゃあ、広報課長でもええで。話、聞いてくれる人おらんの?」
「……課長は……本日、休暇です」
「……」
神代は目を細めた。
「黒崎社長。それ、ほんまでっか?」
「……」
「まあ、ええわ。よその会社に口出すつもりはないけど」
神代は大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「それより今、黒崎の広報さんと一緒に、『メゾン・クレール』の新作フレグランスのPRの記事作ってて。写真は黒崎、記事はリグレットで上げるつもりやねんけど……写真、先週納期やのに、全然送られてこーへんくて。もうわざわざ本社来てしまいましたわ!」
「申し訳ございません」
「社長。写真ないなら、あんたをモデルにして写真を――いや」
神代は、横に並ぶ蛍に目を向けた。秘書の名札を見て、にやりと笑う。
「秘書の……あんたの奥さん、モデルに使いまっせ?」
「「――!?」」
「えっ!? 奥さん!? 蛍さんって、妹じゃなかったの!?」
受付嬢が声を上げる。
「妹だ!!」
「妹です!!」
朔夜と蛍が、同時に否定した。
「え? 妹? すいません。名字一緒であまりにお似合いやったんで、早とちりして夫婦かと思いましたわ〜」
神代は、悪びれない様子で舌をぺろりと出した。
「いや~、もしそうだったら黒崎グループのええネタやったんですけどねぇ~」
朔夜が咳払いしながら、話を戻した。
「神代さん。申し訳ありませんが、少し角のソファでお待ちいただけますか。秘書、案内してくれ」
蛍は神代を一角のソファに案内し、お茶を出した。
朔夜は受付横のゲートをくぐり、広報部に向かった。
程なくして、朔夜とノートパソコンを抱えた若い社員――おそらく広報部の社員が角のソファに歩み寄ってきた。
「神代さん、直接見てもらった方が早い」
朔夜はそう言うと、社員に写真のフォルダを開くよう指示した。
神代も身を乗り出し画面を覗く。
フォルダの中には、神代が依頼していたであろう写真データが、何十枚も入っていた。
「……あー、これやわ。モデル写ってるやつ」
神代があっさりと見つけた。
「……これ。もう撮影終わって、フォルダに保存済みやん。なんで、送られてこーへんかったんや?」
蛍はフォルダの日付を確認した。撮影日は2週間以上前だった。
朔夜の顔が静かに強張った。謝罪することしかできなかった。
「社長、ありがとうございました。……なんか、社長に対応してもらう案件やなかったんですけどねぇ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございませんでした。……今後とも、お取引いただけましたら」
神代が、軽く伸びをしてから、ふとにやりと笑みを浮かべた。
「……次は社長をモデルにする案件持ってきますわ! 楽しみにしとってください」
「勘弁してください」
「冗談ですやん……半分は。まあ社長、あまり抱え込みすぎず、気楽に行きましょうや」
それだけ言うと、元の調子に戻って片手を挙げた。
「……ほな、また飲みにでも行きましょ〜」
軽く手を振って、神代は、ビルを出ていった。
蛍はその背中を見送っていた。朔夜は何も言わずに、ゆっくり閉まっていく自動ドアを見つめていた。




