看病(後編)
翌朝も、熱は下がりきらなかった。
「今日は、和田興業との打ち合わせがある」
朔夜は天井を見たまま言った。昨日より、声ははっきりしていた。
「……どんな打ち合わせ?」
「……契約内容の、単純な条件確認だ」
「それなら、わたしが出ます」
「ま、待て」
朔夜の制止も聞かず、蛍は寝室を出た。ドアを閉める直前、背後で、小さく朔夜が息を吐く音が聞こえた気がした。
――午前10時。黒崎ビル8階、会議室。中からは話し声が聞こえた。
扉を開けた瞬間、煙草の煙が顔を撫でた。
長テーブルの向こうに陣取るのは、和田興業の重役たち。全員が50代後半から60代。スーツは着ているがネクタイは緩み、靴は汚れ、態度だけは一丁前という顔ぶれだった。テーブルには資料が乱雑に置かれ、ペットボトルと菓子の袋が並んでいる。
「おや。あんたは? 黒崎の坊ちゃんはどうした?」
「今日、社長は不在ですので、代わりに秘書のわたしが、ご対応させていただきます」
専務が下卑た笑みを浮かべたまま、蛍の名札をまじまじと見た。
「黒崎蛍。ほーん。君が噂で聞いた妹か。まさか大事な会議に、こんな若い秘書をよこすとは。随分舐められたもんだな」
「まあまあ、専務。どういう『ご対応』をしてくれるか、拝見しようじゃないですか」
その声には、何か含みが混じっていた。
蛍は黙って着席した。
会議が始まって15分。提示された取引条件は、こちらの利益がほぼゼロに等しかった。原材料の供給価格を一方的に吊り上げ、納品条件は厳しく、受けるメリットは薄利多売の強要だけ。およそまともな商談とは呼べない代物だった。
蛍が条件を確認したのち、努めて冷静な声で答えた。
「この条件は難しいです」
蛍が言った瞬間、会議室が静まった。
「……は?」
専務の目が細くなった。
「難しい? お嬢ちゃん、難しいってのはできませんって意味じゃないんですよ。やるんです」
「数字を見る限り、弊社側のメリットが見当たりません。すぐにはお答えできません。検討させてください」
「あのね」
専務が身を乗り出した。
「うちは長年、黒崎さんとこを支えてきたわけ。あなたのお兄さんがCEOになる前からね。それを、こんな小娘に条件がどうとか言われてもねぇ」
「それは……。過去のご縁と、今日の条件は、別の話だと思いますが――」
「うるさい!」
専務がテーブルに拳を叩きつけた。資料が跳ね、ペンが転がる。立ち上がって、つかつかと蛍の前まで歩み寄る。
「土下座しろよ。そうすりゃ契約内容も考えてやる」
「……」
「それとも、君の『ご対応』で我々を満足させてくれるのか? ああ?」
蛍は黙って専務を見た。他の重役たちもニヤニヤしながらこちらを見ている。
「その……持ち帰らせていただきたく――」
「だーかーらー、あんたの『対応』次第で条件を変えるって言ってるだろ!? おつむの弱いお嬢ちゃんだな!」
その時、後ろにいた重役の一人が手を挙げた。
「……専務。ここは慈悲深く、具体的に教えて差し上げるのはいかがでしょうか?」
その発言を皮切りに、他の重役も面白そうに続ける。
「何も知らないまっさらな子に、一から教えるのもいいものではないですか?」
「後から知った時の、黒崎社長の反応を見るのも、また一興ですよ、専務」
「なるほど?」
専務の口元が緩んだ。
「では、あらためて聞くが――」
その時、会議室の扉が開いた。
朔夜が立っていた。皺なく仕立てられたスーツ、隙のない姿勢。鋭い目と威圧感だけで、その場の空気を変質させるには、十分だった。ただ、額にうっすらと汗が滲んでいた。
「……あ?」
専務が扉に目を向けながら、たじろいだ。後ろの重役も朔夜を見て、少し冷や汗が出る。
「お、おお、CEO殿のお出ましか。随分と遅いじゃないか」
朔夜は専務の挑発には一切反応せず、まっすぐ蛍の横まで歩いた。そして、役員たちに向かって深く頭を下げた。
「申し訳ございません。部下の非礼は、すべて私の責任です」
その声には、静かな重みがあった。専務たちは謝罪されるとは思っておらず、一瞬困惑したが、すぐさま得意げな顔になった。
「つまりあれか? この小娘にまともな教育もせずに会議に出して、うちを舐めてたってことだろ?」
「そもそもな、30歳にも満たないお前が社長やってること自体がおかしいんだよ。会長が息子可愛さに贔屓してるのか知らんが」
役員たちが、口々に朔夜への罵倒を並べ始めた。
「……それは、関係ないのでは――っ」
立ち上がりかけた蛍の腕を、朔夜が掴んで引いた。力任せではないが、有無を言わさぬ制止だった。
「土下座しろよ。そうすりゃ今回の件は水に流してやってもいいぞ」
朔夜は無言のまま、微動だにしない。
「……私も、専務のおっしゃる通り、秘書一人に今回の会議を任せるのは不安がありました。後で内容を確認しようと思った次第です」
「……あ?」
「ですので、予め秘書の内ポケットに、小型レコーダーを入れて録音させていただきました」
「お、おい……っ!」
専務たちの顔から血の気が引いた。他の重役たちも、さっきまでの余裕が嘘のように青ざめていた。
「て、てめぇ……汚ないぞ!! 盗聴じゃないか!!」
「盗聴ではありません。会議における記録の保全です。ビジネスマナーの範疇かと」
朔夜の声は氷のように平坦だった。
「……それで、うちの秘書に、何をさせようとしてましたか?」
朔夜の目が、鋭く専務を射抜いた。その目に睨まれると、専務は震えあがり、いそいそと資料を鞄に片付けだした。
和田興業の面々が、足音も荒く会議室を飛び出していった。専務は「覚えてろ小僧!」と捨て台詞を残し、常務は資料をぶちまけながら転がり出た。
扉が閉まるのを見届けてから、蛍は上着の内ポケットに手を入れた。
何も入っていなかった。
はったりだった。朔夜は、扉の向こうで、ずっと聞いていたのだ。
――と、その瞬間、朔夜の体が崩れた。
糸が切れたように膝から落ち、そのまま前のめりに床へ沈む。
「兄さんっ!!」
外で待機していた黒服の馬場と鹿島が同時に駆け寄った。一人が朔夜の肩を支え、もう一人が周囲を見回す。
「社長、とりあえず医務室に行きましょう! 蛍様も手伝ってください!」
二人は朔夜の両脇を抱えるようにして、廊下を進んだ。エレベーターに乗り込み、9階へ向かう。
◇
9階に辿り着いた。目の前の白い扉には『医務室』と控えめなプレートが掲げられている。
この部屋は体調不良時に社員が使用する場所のようだ。救急セットや看護セットなど、最低限のものが置いてある。
黒服たちは朔夜をベッドに座らせてから、水と薬を取ってくるため、部屋を出た。
医務室に二人きりになった。
朔夜はベッドの縁に腰を落とした状態で、動けずにいた。あの会議室で見せた冷徹なCEOの面影は消え失せ、そこにいるのは疲労した一人の人間だった。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
朔夜はジャケットを脱ごうとして、ボタンに指をかける。だが、うまくいかない様子だった。それを見かねた蛍が近寄り、外そうとする。
「……」
ボタンに蛍の指がかかった。一つ、二つと外していく間、朔夜は抵抗しなかった。ただ天井を見上げたまま、呼吸を整えようとしている。触れてもいないのに、熱を感じた。
「和田興業は昔からああいう連中だ。俺が相手でもあの態度だ。気にするな」
「……でも」
「お前は何も悪くない」
ジャケットが肩から滑り落ちた。シャツ姿になった朔夜が、ようやく視線を蛍に落とした。
「……一企業の、それも横柄な態度の専務と対話するのは、怖かっただろう」
「――っ!」
「……手が震えてるぞ」
指摘されて初めて、蛍は自分の手が小刻みに震えているのに気づいた。怒りなのか恐怖の残滓なのか、自分でも判別がつかなかった。
朔夜自身も立てないほど消耗しているくせに、妹の震えを見逃さない。そういう人間だった。
不意に、朔夜の左手が宙に上がった。
蛍の目の前で、一度止まる。迷うような間のあと、その手は頭の上に置かれた。それから少し、動いた。
「……よくやった」
撫でられたのだと分かったのは、その声を聞いてからだった。朔夜のジャケットを握り締めたまま、蛍は固まっていた。
「に、兄さん……」
朔夜の熱が移ったのか、頬が火照り、心臓の鼓動がやけに速く感じた。ジャケットを握った手に、思わず力がこもる。
くぐもった声で発せられた短い褒め言葉は、彼なりの、精一杯の評価なのだろう。
褒められ慣れていない蛍の目の奥が、じわりと熱くなった。
――医務室前の廊下。
扉は、少し開いたままだった。
水を調達して戻ってきた馬場と鹿島の目に、扉の隙間から、その光景が飛び込んできた。
「「――――!?!?!?!?」」
馬場の手から、ペットボトルが滑り落ちそうになった。すんでのところで鹿島が受け止める。
「……見たか」
「……見た」
「社長が……蛍様の頭を……」
「……ああ」
二人は扉に背を向け、陰に身を隠したまま、しばらく動けなかった。
「社長の、あの穏やかな目……」
「勉強を教えてらっしゃった夜と、同じだな……」
「水、どうしよう?」
「しばらく、お二人にしておいた方が……」
その時、背後から声がかかった。
「あ、お二人とも戻ってらっしゃったんですね!」
「「蛍様!!」」
馬場と鹿島が同時に声を上げ、慌てて背筋を伸ばした。
「水でございます!!」
「薬でございます!!」
「……あ、ありがとうございます。お二人も中へどうぞ!」
蛍は二人から受け取ると、足早に先に中に入っていった。
「……見たか、鹿島」
「ああ」
「蛍様、少し顔が赤かったような……」
それだけ言って、二人は口を噤んだ。二人は顔を見合わせて大きく頷いてから、室内に入った。
◇
翌日には、朔夜の熱は引いていた。蛍は朔夜の業務を代理で行おうとしていたが、結局間に合わず、朔夜は寝室のノートパソコンでこっそり業務を処理していた。
自分が代わりになれなかったことや、申請システムで勝手に承認してしまったことについて、蛍は謝罪をしたが、特に問題ない、助かったと朔夜は慰めていた。
ふと、朔夜の頭に、ある考えがよぎった。
――もし自分が倒れたとき、代わりに業務を回してくれる人間がいなかったら。メールも、申請も、書類も、いったいどれだけ溜まっていただろう。
少しぞっとした。できればもう少し、業務量が減るといいのだが……。
ならば蛍に、業務を分け与えてもいいのかもしれない。
朔夜は、そう思った。
◇
年が明けて間もなく、社長室の隣の小部屋が片付けられた。予備の応接室として使われていた部屋だった。
「今日から、お前の席はそっちだ」
朝、朔夜はそう言って、扉の横を顎で示した。『秘書室』と書かれた真新しいプレートが掛かっている。
「メールの一次対応と内線は、そっちで受けてくれ。俺が出る必要のあるものだけ回せばいい」
「……わたしが、決めていいんですか」
「迷ったら聞け。それでいい」
蛍の机とパソコンは、黒服たちの手ですでに運び込まれていた。窓は社長室より一回り小さい。
椅子に座ると、壁の向こうで電話が鳴った。受話器を取る朔夜の声が、くぐもって聞こえる。一年近く、すぐ横で聞いてきた声だった。
――なんだか、少し遠い。
蛍は首を振って、パソコンの電源を入れた。
一次対応を任されたのだ。遠くなったのではなく、任された分だけ近づいたのだと、そう思うことにした。




