↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(後編)
PR
19/71

看病(後編)

 翌朝も、熱は下がりきらなかった。

「今日は、和田興業との打ち合わせがある」

 朔夜は天井を見たまま言った。昨日より、声ははっきりしていた。

「……どんな打ち合わせ?」

「……契約内容の、単純な条件確認だ」

「それなら、わたしが出ます」

「ま、待て」

 朔夜の制止も聞かず、蛍は寝室を出た。ドアを閉める直前、背後で、小さく朔夜が息を吐く音が聞こえた気がした。


 ――午前10時。黒崎ビル8階、会議室。中からは話し声が聞こえた。

 扉を開けた瞬間、煙草の煙が顔を撫でた。

 長テーブルの向こうに陣取るのは、和田興業の重役たち。全員が50代後半から60代。スーツは着ているがネクタイは緩み、靴は汚れ、態度だけは一丁前という顔ぶれだった。テーブルには資料が乱雑に置かれ、ペットボトルと菓子の袋が並んでいる。

「おや。あんたは? 黒崎の坊ちゃんはどうした?」

「今日、社長は不在ですので、代わりに秘書のわたしが、ご対応させていただきます」

 専務が下卑た笑みを浮かべたまま、蛍の名札をまじまじと見た。

「黒崎蛍。ほーん。君が噂で聞いた妹か。まさか大事な会議に、こんな若い秘書をよこすとは。随分舐められたもんだな」

「まあまあ、専務。どういう『ご対応』をしてくれるか、拝見しようじゃないですか」

 その声には、何か含みが混じっていた。

 蛍は黙って着席した。

 会議が始まって15分。提示された取引条件は、こちらの利益がほぼゼロに等しかった。原材料の供給価格を一方的に吊り上げ、納品条件は厳しく、受けるメリットは薄利多売の強要だけ。およそまともな商談とは呼べない代物だった。

 蛍が条件を確認したのち、努めて冷静な声で答えた。

「この条件は難しいです」

 蛍が言った瞬間、会議室が静まった。

「……は?」

 専務の目が細くなった。

「難しい? お嬢ちゃん、難しいってのはできませんって意味じゃないんですよ。やるんです」

「数字を見る限り、弊社側のメリットが見当たりません。すぐにはお答えできません。検討させてください」

「あのね」

 専務が身を乗り出した。

「うちは長年、黒崎さんとこを支えてきたわけ。あなたのお兄さんがCEOになる前からね。それを、こんな小娘に条件がどうとか言われてもねぇ」

「それは……。過去のご縁と、今日の条件は、別の話だと思いますが――」

「うるさい!」

 専務がテーブルに拳を叩きつけた。資料が跳ね、ペンが転がる。立ち上がって、つかつかと蛍の前まで歩み寄る。

「土下座しろよ。そうすりゃ契約内容も考えてやる」

「……」

「それとも、君の『ご対応』で我々を満足させてくれるのか? ああ?」

 蛍は黙って専務を見た。他の重役たちもニヤニヤしながらこちらを見ている。

「その……持ち帰らせていただきたく――」

「だーかーらー、あんたの『対応』次第で条件を変えるって言ってるだろ!? おつむの弱いお嬢ちゃんだな!」

 その時、後ろにいた重役の一人が手を挙げた。

「……専務。ここは慈悲深く、具体的に教えて差し上げるのはいかがでしょうか?」

 その発言を皮切りに、他の重役も面白そうに続ける。

「何も知らないまっさらな子に、一から教えるのもいいものではないですか?」

「後から知った時の、黒崎社長の反応を見るのも、また一興ですよ、専務」

「なるほど?」

 専務の口元が緩んだ。

「では、あらためて聞くが――」

 その時、会議室の扉が開いた。

 朔夜が立っていた。皺なく仕立てられたスーツ、隙のない姿勢。鋭い目と威圧感だけで、その場の空気を変質させるには、十分だった。ただ、額にうっすらと汗が滲んでいた。

「……あ?」

 専務が扉に目を向けながら、たじろいだ。後ろの重役も朔夜を見て、少し冷や汗が出る。

「お、おお、CEO殿のお出ましか。随分と遅いじゃないか」

 朔夜は専務の挑発には一切反応せず、まっすぐ蛍の横まで歩いた。そして、役員たちに向かって深く頭を下げた。

「申し訳ございません。部下の非礼は、すべて私の責任です」

 その声には、静かな重みがあった。専務たちは謝罪されるとは思っておらず、一瞬困惑したが、すぐさま得意げな顔になった。

「つまりあれか? この小娘にまともな教育もせずに会議に出して、うちを舐めてたってことだろ?」

「そもそもな、30歳にも満たないお前が社長やってること自体がおかしいんだよ。会長が息子可愛さに贔屓してるのか知らんが」

 役員たちが、口々に朔夜への罵倒を並べ始めた。

「……それは、関係ないのでは――っ」

 立ち上がりかけた蛍の腕を、朔夜が掴んで引いた。力任せではないが、有無を言わさぬ制止だった。

「土下座しろよ。そうすりゃ今回の件は水に流してやってもいいぞ」

 朔夜は無言のまま、微動だにしない。

「……私も、専務のおっしゃる通り、秘書一人に今回の会議を任せるのは不安がありました。後で内容を確認しようと思った次第です」

「……あ?」

「ですので、予め秘書の内ポケットに、小型レコーダーを入れて録音させていただきました」

「お、おい……っ!」

 専務たちの顔から血の気が引いた。他の重役たちも、さっきまでの余裕が嘘のように青ざめていた。

「て、てめぇ……汚ないぞ!! 盗聴じゃないか!!」

「盗聴ではありません。会議における記録の保全です。ビジネスマナーの範疇かと」

 朔夜の声は氷のように平坦だった。

「……それで、うちの秘書に、何をさせようとしてましたか?」

 朔夜の目が、鋭く専務を射抜いた。その目に睨まれると、専務は震えあがり、いそいそと資料を鞄に片付けだした。

 和田興業の面々が、足音も荒く会議室を飛び出していった。専務は「覚えてろ小僧!」と捨て台詞を残し、常務は資料をぶちまけながら転がり出た。

 扉が閉まるのを見届けてから、蛍は上着の内ポケットに手を入れた。

 何も入っていなかった。

 はったりだった。朔夜は、扉の向こうで、ずっと聞いていたのだ。

 ――と、その瞬間、朔夜の体が崩れた。

 糸が切れたように膝から落ち、そのまま前のめりに床へ沈む。

「兄さんっ!!」

 外で待機していた黒服の馬場と鹿島が同時に駆け寄った。一人が朔夜の肩を支え、もう一人が周囲を見回す。

「社長、とりあえず医務室に行きましょう! 蛍様も手伝ってください!」

 二人は朔夜の両脇を抱えるようにして、廊下を進んだ。エレベーターに乗り込み、9階へ向かう。


 ◇


 9階に辿り着いた。目の前の白い扉には『医務室』と控えめなプレートが掲げられている。

 この部屋は体調不良時に社員が使用する場所のようだ。救急セットや看護セットなど、最低限のものが置いてある。

 黒服たちは朔夜をベッドに座らせてから、水と薬を取ってくるため、部屋を出た。

 医務室に二人きりになった。

 朔夜はベッドの縁に腰を落とした状態で、動けずにいた。あの会議室で見せた冷徹なCEOの面影は消え失せ、そこにいるのは疲労した一人の人間だった。

「……ごめんなさい」

「謝るな」

 朔夜はジャケットを脱ごうとして、ボタンに指をかける。だが、うまくいかない様子だった。それを見かねた蛍が近寄り、外そうとする。

「……」

 ボタンに蛍の指がかかった。一つ、二つと外していく間、朔夜は抵抗しなかった。ただ天井を見上げたまま、呼吸を整えようとしている。触れてもいないのに、熱を感じた。

「和田興業は昔からああいう連中だ。俺が相手でもあの態度だ。気にするな」

「……でも」

「お前は何も悪くない」

 ジャケットが肩から滑り落ちた。シャツ姿になった朔夜が、ようやく視線を蛍に落とした。

「……一企業の、それも横柄な態度の専務と対話するのは、怖かっただろう」

「――っ!」

「……手が震えてるぞ」

 指摘されて初めて、蛍は自分の手が小刻みに震えているのに気づいた。怒りなのか恐怖の残滓なのか、自分でも判別がつかなかった。

 朔夜自身も立てないほど消耗しているくせに、妹の震えを見逃さない。そういう人間だった。

 不意に、朔夜の左手が宙に上がった。

 蛍の目の前で、一度止まる。迷うような間のあと、その手は頭の上に置かれた。それから少し、動いた。

「……よくやった」

 撫でられたのだと分かったのは、その声を聞いてからだった。朔夜のジャケットを握り締めたまま、蛍は固まっていた。

「に、兄さん……」

 朔夜の熱が移ったのか、頬が火照り、心臓の鼓動がやけに速く感じた。ジャケットを握った手に、思わず力がこもる。

 くぐもった声で発せられた短い褒め言葉は、彼なりの、精一杯の評価なのだろう。

 褒められ慣れていない蛍の目の奥が、じわりと熱くなった。


 ――医務室前の廊下。

 扉は、少し開いたままだった。

 水を調達して戻ってきた馬場と鹿島の目に、扉の隙間から、その光景が飛び込んできた。

「「――――!?!?!?!?」」

 馬場の手から、ペットボトルが滑り落ちそうになった。すんでのところで鹿島が受け止める。

「……見たか」

「……見た」

「社長が……蛍様の頭を……」

「……ああ」

 二人は扉に背を向け、陰に身を隠したまま、しばらく動けなかった。

「社長の、あの穏やかな目……」

「勉強を教えてらっしゃった夜と、同じだな……」

「水、どうしよう?」

「しばらく、お二人にしておいた方が……」

 その時、背後から声がかかった。

「あ、お二人とも戻ってらっしゃったんですね!」

「「蛍様!!」」

 馬場と鹿島が同時に声を上げ、慌てて背筋を伸ばした。

「水でございます!!」

「薬でございます!!」

「……あ、ありがとうございます。お二人も中へどうぞ!」

 蛍は二人から受け取ると、足早に先に中に入っていった。

「……見たか、鹿島」

「ああ」

「蛍様、少し顔が赤かったような……」

 それだけ言って、二人は口を噤んだ。二人は顔を見合わせて大きく頷いてから、室内に入った。


 ◇


 翌日には、朔夜の熱は引いていた。蛍は朔夜の業務を代理で行おうとしていたが、結局間に合わず、朔夜は寝室のノートパソコンでこっそり業務を処理していた。

 自分が代わりになれなかったことや、申請システムで勝手に承認してしまったことについて、蛍は謝罪をしたが、特に問題ない、助かったと朔夜は慰めていた。

 ふと、朔夜の頭に、ある考えがよぎった。

 ――もし自分が倒れたとき、代わりに業務を回してくれる人間がいなかったら。メールも、申請も、書類も、いったいどれだけ溜まっていただろう。

 少しぞっとした。できればもう少し、業務量が減るといいのだが……。

 ならば蛍に、業務を分け与えてもいいのかもしれない。

 朔夜は、そう思った。


 ◇


 年が明けて間もなく、社長室の隣の小部屋が片付けられた。予備の応接室として使われていた部屋だった。

「今日から、お前の席はそっちだ」

 朝、朔夜はそう言って、扉の横を顎で示した。『秘書室』と書かれた真新しいプレートが掛かっている。

「メールの一次対応と内線は、そっちで受けてくれ。俺が出る必要のあるものだけ回せばいい」

「……わたしが、決めていいんですか」

「迷ったら聞け。それでいい」

 蛍の机とパソコンは、黒服たちの手ですでに運び込まれていた。窓は社長室より一回り小さい。

 椅子に座ると、壁の向こうで電話が鳴った。受話器を取る朔夜の声が、くぐもって聞こえる。一年近く、すぐ横で聞いてきた声だった。

 ――なんだか、少し遠い。

 蛍は首を振って、パソコンの電源を入れた。

 一次対応を任されたのだ。遠くなったのではなく、任された分だけ近づいたのだと、そう思うことにした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。