看病(前編)
朔夜を寝室のベッドに寝かせた。体温計が示したのは、三十八度五分だった。
「まったくもう、あの子は昔っからそう。自分が壊れるまで止まらないんだから」
連絡を受けたリコが駆けつけてくれた。「ダイニング借りるわね」と言うと、粥を作りに寝室を後にした。
蛍は枕元の椅子に腰を下ろし、濡らしたタオルを朔夜の額に乗せ直した。じわりと熱が布を通して伝わってくる。
ベッドに横たえられた朔夜の顔は、普段の冷静さが完全に剥がれ落ちていた。熱に浮かされ、目は半開きのまま、時折苦しげに眉が歪む。
馬場と鹿島も不安げに、朔夜を覗き込んでいた。
「……すまない」
掠れた声だった。目を閉じたまま、朔夜はぽつりと言った。
「謝らないで。わたしの方こそ、もっと早く気づくべきでした」
「……お前は、悪くない」
しばらくして、リコが盆を持って戻ってきた。出汁の香りが微かに漂ってくる。
「はい、卵粥。食べられそう?」
朔夜は目を開けたが、体を起こす気配がない。
「……わたしが、食べさせます」
「あら」
リコがにやりと笑ったが、何も言わずに匙と粥を蛍に渡した。
朔夜は天井を睨んでいたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……頼む」
恐る恐る匙を朔夜の口元に運ぶ。朔夜が素直に口を開けて粥を含んだ瞬間、蛍の視線はどこを見ていいか分からず泳ぎ回った。
馬場と鹿島は両手を口に押さえて、「はわわ」と言いながら、その光景を見ていた。弱っている朔夜を見るのは新鮮なようだった。
「いいわねぇ。あたしも朔ちゃんに『あーん』やってあげたかったわ」
「リコさんは少し黙っててください」
リコは相変わらず腰をくねらせていた。
◇
粥は少し残ったが、概ね食べられた。朔夜の目は、ぼんやりと蛍を見上げていた。
「お薬、取ってきます」
薬を取りに立ち上がりかけた時、袖を掴まれた。朔夜の手が、蛍の服の裾を弱々しく握っていた。
「……行くな」
ほとんど寝言のような声だった。自覚があるのかすら怪しい。けれど、その手は確かに蛍を引き留めていた。
リコが空気を読んで、馬場と鹿島を連れて、そっと部屋を出た。ドアが静かに閉まる。
部屋には、二人きりの静けさだけが残された。
蛍はベッドの縁に座り直した。掴まれたままの袖をそのままに、空いた手で朔夜の前髪をそっと払う。汗で額に張り付いた黒髪の下に、いつもは冷たく光る瞳が今は見えない。
やがて、裾を握る力がふっと緩んだ。疲れたのか、静かな寝息に変わっていた。
蛍はその寝顔を、しばらく見ていた。
——いつもの険しい顔はなく、まるで中学生か、高校生くらいの少年に見えた。
◇
深夜。
朔夜の寝顔が、不意に歪んだ。
眉間に深い皺が刻まれ、握り締めた拳がシーツを引き攣らせる。
「うぅ……。はぁっ……はぁっ……!」
喉の奥から、押し殺したような呻きが漏れた。
——夢の中の朔夜は、八歳くらいだった。
施設の白い廊下。品定めをするような視線。成績表。結果だけが問われる、感情の入り込む余地のない場所。俺が一番を保たなければ——そういう強迫が、空気のように染み込んでいた場所。
場面が変わる。十四歳。田舎の葬儀。呆気ない式の後、黒塗りの車に押し込まれる。振り返ってはいけない、と誰かが言った。それでも、車の開いた窓から、聞こえてくる声があった。
——お兄ちゃん、連れて行かないで‼ 嫌だ‼ お兄ちゃんっ‼
六歳の声が、遠ざかっていく。
黒崎ビル。居並ぶ大人たちの視線。嘲り、疑念、哀れみ。十代の若造に何ができる。そんな空気が重力のように肩を押しつけ、宗玄の目だけが静かに、値踏みし続けていた。
先の見えない暗闘の中で、ふいに何か温かいものが額を撫でた。
柔らかく、ぎこちなく。けれど、確かに温かく、優しい手つき。それは記憶の底に沈んでいた温もりと、同じだった。
朔夜の体から、強張りが解けていった。呼吸が、落ち着いていく。
手の主は、ベッドの縁で眠っていた。
椅子から半分ずり落ちかけた不格好な姿勢で、それでも朔夜の傍を離れまいとするように。無意識のうちに手を伸ばして、朔夜の頭に触れていた。
窓の外では、夜が最も深い時間を迎えていた。月光が薄いカーテン越しに差し込み、眠る二人の輪郭を淡く照らしていた。
◇
翌朝。
朔夜は、まだ熱があった。三十八度二分。何か、流行り病にでもかかったのかもしれない。
「兄さん。今日は寝ててください」
「……いや、起きる。溜まってる」
「一日寝てても、会社は止まりませんよ」
蛍は朔夜を安心させたくて、にっこり笑った。朔夜は何か言い返そうとしたが、体を起こしかけた途端に眩暈がしたのか、枕に頭を戻した。
「……分かった」
その笑顔に負けたのか、思いのほか、あっさりと折れた。よほど辛いのだろう。
蛍は、寝室を出ると藤堂と馬場、鹿島を廊下に集めた。
「兄さんは今日一日、絶対安静です。三人で見ててください。何かあったらすぐ呼んでください」
「……蛍様は?」
「わたしが代わりに社長の仕事をしてきます」
藤堂が、少し驚いた顔をした。
「お一人で、ですか」
「もう秘書やって長いですし。だいたいの流れは分かるので」
この一年で、簿記もPLも読めるようになった。稟議の流れも把握している。今更、社長室に一人で座るくらい、どうということはない。そう思っていた。
「あと、兄さんのパソコン、使っていいですか」
寝室に戻って聞くと、朔夜は薄目を開けて、少し考える仕草を見せた。
「……パスワードは、藤堂が知ってる」
「使っていいってことですね」
「……ああ」
蛍は、社長室へ向かった。
◇
誰もいない社長室は、いつもより広く感じた。
蛍は、朔夜の椅子に座った。座り慣れない硬さだった。パソコンを開き、藤堂に教わったパスワードを打ち込む。
メールソフトが立ち上がった瞬間、画面に、未読メールのタイトルが並んだ。
未読、123件。
「……え」
昨日、朔夜が退出したのは二十一時ごろ。そこから今日の九時までで、未読123件……。
それだけの時間で、これだけの数が積み上がっている。
業務フローシステムを開くと、ログイン画面の向こうに、赤い丸の通知バッジが表示された。
78。
「……嘘でしょ」
声が、誰もいない部屋に落ちた。承認待ち、78件。
もし、これが一週間続いたら。
ひやりとする間もなく、内線が鳴った。
「——社長室です」
「あ、経営企画部ですけど、社長いますか。昨日の件で確認したいことが」
「申し訳ありません、社長は本日体調不良でお休みしております」
「……え、マジすか。いや、これ結構急ぎで……」
「恐れ入りますが、明日以降、改めてご連絡いただけますか」
「……分かりました、じゃあまた」
切れた電話を見つめる間もなく、数秒後、また内線が鳴った。
似たようなやり取りを、何度か繰り返した。取り次げる話はほとんどなく、そのたびに「不在」「体調不良」「後日」と繰り返す。電話が鳴っている間、メールを見る余裕はなかった。
何件か内線を取った後、ようやく電話が止んだ。今のうちに、と蛍はメールに戻った。中身のない社内周知やお礼メールは削除し、蛍でも判断できそうな簡単な確認事項だけ、手早く返信していく。
また内線が鳴った。
「——社長室です」
「あ、居候さんか」
声は聞き覚えのある、経営企画の例の三人組のリーダー格、茶髪男からだった。
「……何か御用ですか?」
無意識のうちに、声が低くなる。
「社長は?」
「今日は不在です。……それでは」
切ろうとしたら、「待て待て」と止められた。
「承認まだか⁉ 稟議申請をしてるんだが、あれが降りないとまずいんだよ!」
「承認って、承認フローシステム見ればいいんですか?」
「あんた触ったことないの?……ほんとにそこに居候してるだけかよ‼」
「では、失礼します」
「待てって‼ 冗談だろうが‼」
茶髪男も焦っているようだった。
「そこに俺が起案者の申請があるだろ?とりあえず承認してくれ!先方に渡す資料のやつなんだ!」
「えっと……」
そこで初めて、蛍はハッとした。
「あなたのお名前、知りません」
「ざけんなよ‼ いい身分だな秘書ってのは‼ 松岡だよ‼ 探せ‼」
蛍は名前検索で該当の申請を探した。企画内容の資料で、経営企画部長まで承認済みで進んでいた。
中身を見る間もなく、松岡に促されるまま、承認を押してしまった。
「頼むぜ、秘書も社長も‼ こっちはあんたらと違って時間との勝負なんだから‼」
そう吐き捨てると、内線は乱暴に切られた。
ふうっと、蛍はため息をつき、先ほど承認した内容を改めて見た。
企画のうちの一部で、先方への試供品提供とのことで、三十万円の金額が上がっているものだった。
——これ、承認してよかったのかな。
そう思っても時既に遅し。蛍は、他の申請内容も確認していった。
申請内容は十万円を超える購入申請から、報告書の確定であったり、契約書などの申請など、幅広かった。画面を見ている間にも、新たな申請が2件ほど追加された。
蛍は、どれを承認すべきか、わからなかった。
——兄さんに、聞けたら……。
寝ている朔夜を思い浮かべたが、すぐに首を振った。聞きに行けば、起き上がってしまう。
また内線が鳴った。
「子会社への追加発注の承認、まだですか」
「……申し訳ありません、確認中です。今しばらくお待ちください」
昼を過ぎても、仕事が終わる気配はなかった。このままでは休憩を取り損ねると判断した蛍は、コンビニでおにぎりだけ買い、席に座ったまま口に押し込んで、すぐにまたパソコンに向き直った。
その頃には、デスクの端に、紙の決裁書類も溜まり始めていた。総務が「電子化されていない古い取引先のものです」と届けに来た束だった。蛍はそれも仕分けに加えた。金額、種類、緊急度——付箋を貼りながら、一枚ずつ分類していく。
処理しても、処理しても、終わらなかった。メールは減ったかと思えば、また増える。承認待ちの件数は増えるばかりで、内線は鳴り止まない。
気がつくと、十八時を回っていた。
——終わらない。
蛍は、画面の向こうの数字を見つめたまま、しばらく、動けなかった。
◇
黒崎邸に戻ると、もう夜だった。玄関で靴を脱ぐ手にも、力が入らなかった。
「蛍様、お疲れさまでした」
藤堂が出迎えてくれたが、労いの言葉さえ、今は重く感じた。
「兄さんは……」
「先ほどまでお休みでしたが、先ほどお目覚めになって。……熱は、あまり下がっておりません」
蛍は、鞄を置く間も惜しんで、寝室へ向かった。
朔夜は、ベッドの上で、天井を見つめていた。顔色は、朝よりいくらかましに見えたが、それでも本調子とは程遠かった。
「……戻ったか」
「はい。……ちゃんと寝てました?」
「……ああ」
嘘くさい返事だった。枕元には誰が持ってきたのか、開きかけたノートパソコンが置かれていた。蛍は、それを見なかったふりをして、閉じた。
「今日はもう、いいですから。寝ててください」
体温計を額に当てる。三十七度八分。昼間より、わずかに下がっていたが、平熱にはまだ遠い。
その夜も蛍は枕元に座り、タオルを取り替えながら、うとうとと眠る朔夜の様子を見ていた。呻くことはなかった。ただ時折、眉間に薄く皺が寄る。
蛍自身も椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていた。




