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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(後編)
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看病(前編)


 朔夜を寝室のベッドに寝かせた。体温計が示したのは、三十八度五分だった。

「まったくもう、あの子は昔っからそう。自分が壊れるまで止まらないんだから」

 連絡を受けたリコが駆けつけてくれた。「ダイニング借りるわね」と言うと、粥を作りに寝室を後にした。

 蛍は枕元の椅子に腰を下ろし、濡らしたタオルを朔夜の額に乗せ直した。じわりと熱が布を通して伝わってくる。

 ベッドに横たえられた朔夜の顔は、普段の冷静さが完全に剥がれ落ちていた。熱に浮かされ、目は半開きのまま、時折苦しげに眉が歪む。

 馬場と鹿島も不安げに、朔夜を覗き込んでいた。

「……すまない」

 掠れた声だった。目を閉じたまま、朔夜はぽつりと言った。

「謝らないで。わたしの方こそ、もっと早く気づくべきでした」

「……お前は、悪くない」

 しばらくして、リコが盆を持って戻ってきた。出汁の香りが微かに漂ってくる。

「はい、卵粥。食べられそう?」

 朔夜は目を開けたが、体を起こす気配がない。

「……わたしが、食べさせます」

「あら」

 リコがにやりと笑ったが、何も言わずに匙と粥を蛍に渡した。

 朔夜は天井を睨んでいたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。

「……頼む」

 恐る恐る匙を朔夜の口元に運ぶ。朔夜が素直に口を開けて粥を含んだ瞬間、蛍の視線はどこを見ていいか分からず泳ぎ回った。

 馬場と鹿島は両手を口に押さえて、「はわわ」と言いながら、その光景を見ていた。弱っている朔夜を見るのは新鮮なようだった。

「いいわねぇ。あたしも朔ちゃんに『あーん』やってあげたかったわ」

「リコさんは少し黙っててください」

 リコは相変わらず腰をくねらせていた。


 ◇


 粥は少し残ったが、概ね食べられた。朔夜の目は、ぼんやりと蛍を見上げていた。

「お薬、取ってきます」

 薬を取りに立ち上がりかけた時、袖を掴まれた。朔夜の手が、蛍の服の裾を弱々しく握っていた。

「……行くな」

 ほとんど寝言のような声だった。自覚があるのかすら怪しい。けれど、その手は確かに蛍を引き留めていた。

 リコが空気を読んで、馬場と鹿島を連れて、そっと部屋を出た。ドアが静かに閉まる。

 部屋には、二人きりの静けさだけが残された。

 蛍はベッドの縁に座り直した。掴まれたままの袖をそのままに、空いた手で朔夜の前髪をそっと払う。汗で額に張り付いた黒髪の下に、いつもは冷たく光る瞳が今は見えない。

 やがて、裾を握る力がふっと緩んだ。疲れたのか、静かな寝息に変わっていた。

 蛍はその寝顔を、しばらく見ていた。

 ——いつもの険しい顔はなく、まるで中学生か、高校生くらいの少年に見えた。


 ◇


 深夜。

 朔夜の寝顔が、不意に歪んだ。

 眉間に深い皺が刻まれ、握り締めた拳がシーツを引き攣らせる。

「うぅ……。はぁっ……はぁっ……!」

 喉の奥から、押し殺したような呻きが漏れた。

 ——夢の中の朔夜は、八歳くらいだった。

 施設の白い廊下。品定めをするような視線。成績表。結果だけが問われる、感情の入り込む余地のない場所。俺が一番を保たなければ——そういう強迫が、空気のように染み込んでいた場所。

 場面が変わる。十四歳。田舎の葬儀。呆気ない式の後、黒塗りの車に押し込まれる。振り返ってはいけない、と誰かが言った。それでも、車の開いた窓から、聞こえてくる声があった。

 ——お兄ちゃん、連れて行かないで‼ 嫌だ‼ お兄ちゃんっ‼

 六歳の声が、遠ざかっていく。

 黒崎ビル。居並ぶ大人たちの視線。嘲り、疑念、哀れみ。十代の若造に何ができる。そんな空気が重力のように肩を押しつけ、宗玄の目だけが静かに、値踏みし続けていた。

 先の見えない暗闘の中で、ふいに何か温かいものが額を撫でた。

 柔らかく、ぎこちなく。けれど、確かに温かく、優しい手つき。それは記憶の底に沈んでいた温もりと、同じだった。

 朔夜の体から、強張りが解けていった。呼吸が、落ち着いていく。

 手の主は、ベッドの縁で眠っていた。

 椅子から半分ずり落ちかけた不格好な姿勢で、それでも朔夜の傍を離れまいとするように。無意識のうちに手を伸ばして、朔夜の頭に触れていた。

 窓の外では、夜が最も深い時間を迎えていた。月光が薄いカーテン越しに差し込み、眠る二人の輪郭を淡く照らしていた。


 ◇


 翌朝。

 朔夜は、まだ熱があった。三十八度二分。何か、流行り病にでもかかったのかもしれない。

「兄さん。今日は寝ててください」

「……いや、起きる。溜まってる」

「一日寝てても、会社は止まりませんよ」

 蛍は朔夜を安心させたくて、にっこり笑った。朔夜は何か言い返そうとしたが、体を起こしかけた途端に眩暈がしたのか、枕に頭を戻した。

「……分かった」

 その笑顔に負けたのか、思いのほか、あっさりと折れた。よほど辛いのだろう。

 蛍は、寝室を出ると藤堂と馬場、鹿島を廊下に集めた。

「兄さんは今日一日、絶対安静です。三人で見ててください。何かあったらすぐ呼んでください」

「……蛍様は?」

「わたしが代わりに社長の仕事をしてきます」

 藤堂が、少し驚いた顔をした。

「お一人で、ですか」

「もう秘書やって長いですし。だいたいの流れは分かるので」

 この一年で、簿記もPLも読めるようになった。稟議の流れも把握している。今更、社長室に一人で座るくらい、どうということはない。そう思っていた。

「あと、兄さんのパソコン、使っていいですか」

 寝室に戻って聞くと、朔夜は薄目を開けて、少し考える仕草を見せた。

「……パスワードは、藤堂が知ってる」

「使っていいってことですね」

「……ああ」

 蛍は、社長室へ向かった。


 ◇


 誰もいない社長室は、いつもより広く感じた。

 蛍は、朔夜の椅子に座った。座り慣れない硬さだった。パソコンを開き、藤堂に教わったパスワードを打ち込む。

 メールソフトが立ち上がった瞬間、画面に、未読メールのタイトルが並んだ。

 未読、123件。

「……え」

 昨日、朔夜が退出したのは二十一時ごろ。そこから今日の九時までで、未読123件……。

 それだけの時間で、これだけの数が積み上がっている。

 業務フローシステムを開くと、ログイン画面の向こうに、赤い丸の通知バッジが表示された。

 78。

「……嘘でしょ」

 声が、誰もいない部屋に落ちた。承認待ち、78件。

 もし、これが一週間続いたら。

 ひやりとする間もなく、内線が鳴った。

「——社長室です」

「あ、経営企画部ですけど、社長いますか。昨日の件で確認したいことが」

「申し訳ありません、社長は本日体調不良でお休みしております」

「……え、マジすか。いや、これ結構急ぎで……」

「恐れ入りますが、明日以降、改めてご連絡いただけますか」

「……分かりました、じゃあまた」

 切れた電話を見つめる間もなく、数秒後、また内線が鳴った。

 似たようなやり取りを、何度か繰り返した。取り次げる話はほとんどなく、そのたびに「不在」「体調不良」「後日」と繰り返す。電話が鳴っている間、メールを見る余裕はなかった。

 何件か内線を取った後、ようやく電話が止んだ。今のうちに、と蛍はメールに戻った。中身のない社内周知やお礼メールは削除し、蛍でも判断できそうな簡単な確認事項だけ、手早く返信していく。

 また内線が鳴った。

「——社長室です」

「あ、居候さんか」

 声は聞き覚えのある、経営企画の例の三人組のリーダー格、茶髪男からだった。

「……何か御用ですか?」

 無意識のうちに、声が低くなる。

「社長は?」

「今日は不在です。……それでは」

 切ろうとしたら、「待て待て」と止められた。

「承認まだか⁉ 稟議申請をしてるんだが、あれが降りないとまずいんだよ!」

「承認って、承認フローシステム見ればいいんですか?」

「あんた触ったことないの?……ほんとにそこに居候してるだけかよ‼」

「では、失礼します」

「待てって‼ 冗談だろうが‼」

 茶髪男も焦っているようだった。

「そこに俺が起案者の申請があるだろ?とりあえず承認してくれ!先方に渡す資料のやつなんだ!」

「えっと……」

 そこで初めて、蛍はハッとした。

「あなたのお名前、知りません」

「ざけんなよ‼ いい身分だな秘書ってのは‼ 松岡だよ‼ 探せ‼」

 蛍は名前検索で該当の申請を探した。企画内容の資料で、経営企画部長まで承認済みで進んでいた。

 中身を見る間もなく、松岡に促されるまま、承認を押してしまった。

「頼むぜ、秘書も社長も‼ こっちはあんたらと違って時間との勝負なんだから‼」

 そう吐き捨てると、内線は乱暴に切られた。

 ふうっと、蛍はため息をつき、先ほど承認した内容を改めて見た。

 企画のうちの一部で、先方への試供品提供とのことで、三十万円の金額が上がっているものだった。

 ——これ、承認してよかったのかな。

 そう思っても時既に遅し。蛍は、他の申請内容も確認していった。

 申請内容は十万円を超える購入申請から、報告書の確定であったり、契約書などの申請など、幅広かった。画面を見ている間にも、新たな申請が2件ほど追加された。

 蛍は、どれを承認すべきか、わからなかった。

 ——兄さんに、聞けたら……。

 寝ている朔夜を思い浮かべたが、すぐに首を振った。聞きに行けば、起き上がってしまう。

 また内線が鳴った。

「子会社への追加発注の承認、まだですか」

「……申し訳ありません、確認中です。今しばらくお待ちください」

 昼を過ぎても、仕事が終わる気配はなかった。このままでは休憩を取り損ねると判断した蛍は、コンビニでおにぎりだけ買い、席に座ったまま口に押し込んで、すぐにまたパソコンに向き直った。

 その頃には、デスクの端に、紙の決裁書類も溜まり始めていた。総務が「電子化されていない古い取引先のものです」と届けに来た束だった。蛍はそれも仕分けに加えた。金額、種類、緊急度——付箋を貼りながら、一枚ずつ分類していく。

 処理しても、処理しても、終わらなかった。メールは減ったかと思えば、また増える。承認待ちの件数は増えるばかりで、内線は鳴り止まない。

 気がつくと、十八時を回っていた。

 ——終わらない。

 蛍は、画面の向こうの数字を見つめたまま、しばらく、動けなかった。


 ◇


 黒崎邸に戻ると、もう夜だった。玄関で靴を脱ぐ手にも、力が入らなかった。

「蛍様、お疲れさまでした」

 藤堂が出迎えてくれたが、労いの言葉さえ、今は重く感じた。

「兄さんは……」

「先ほどまでお休みでしたが、先ほどお目覚めになって。……熱は、あまり下がっておりません」

 蛍は、鞄を置く間も惜しんで、寝室へ向かった。

 朔夜は、ベッドの上で、天井を見つめていた。顔色は、朝よりいくらかましに見えたが、それでも本調子とは程遠かった。

「……戻ったか」

「はい。……ちゃんと寝てました?」

「……ああ」

 嘘くさい返事だった。枕元には誰が持ってきたのか、開きかけたノートパソコンが置かれていた。蛍は、それを見なかったふりをして、閉じた。

「今日はもう、いいですから。寝ててください」

 体温計を額に当てる。三十七度八分。昼間より、わずかに下がっていたが、平熱にはまだ遠い。

 その夜も蛍は枕元に座り、タオルを取り替えながら、うとうとと眠る朔夜の様子を見ていた。呻くことはなかった。ただ時折、眉間に薄く皺が寄る。

 蛍自身も椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていた。


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