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ペリヘリオンの夜  作者: よしなか
2章 新月が昇る(後編)
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17/70

雨の境内

 11月。街路樹の葉が色を変え、朝晩の空気に冬の匂いが混じり始めていた。

 その日の夕方、パソコンを閉じようとしていた蛍に、朔夜が声をかけた。

「蛍」

「はい」

 振り返ると、朔夜はデスクの書類を揃えているところだった。

「明日は、グループ経営会議がある」

「グループ経営会議……ですか?」

「父さんをはじめ、グループ各社の役員と管理職が集まる。俺も朝から出る」

 宗玄の名前を口にするとき、この人の声はいつも少しだけ平らになる。

「藤堂も、馬場と鹿島も、明日はそちらに付く」

 普段なら社長室の周りにいる黒服たちが、明日はほとんどいなくなるということだ。蛍がそれを察したのを見て、朔夜はわずかに間を置いた。

「明日は、社長室をお前一人に任せたい」

「わたし一人で……?」

 秘書として働き始めて、もうすぐ1年になる。けれど朔夜が不在のとき、傍にはいつも黒服の誰かがいた。電話を取るのも来客を通すのも、隣に誰かがいる前提でやってきたことだった。

「来客が一件と、俺宛ての連絡を受けるくらいだ。渡す資料は、俺のデスクの右の棚に置いておく。何かあれば電話しろ」

「……わかりました」

「大丈夫か」

「はい。任せてください」

 答えた声が、思ったよりはっきり出た。朔夜は目を細めて、また書類に視線を落とした。

 その夜、なかなか寝つけなかった。任された、という言葉が胸の中で何度も転がって、そのたびに体の奥が温かくなった。


 ◇


 翌朝、朔夜たちは早くから会場へ出払っていた。

 黒崎ビルの最上階は、驚くほど静かだった。いつもなら廊下のどこかに黒服が立っている。扉越しに朔夜の電話の声が聞こえてくる。今日はそのどちらもない。椅子を引く音が、広い部屋にやけに響いた。

 午前中は来客もなく、書類の整理と電話対応で過ぎていった。内線には「社長は終日、グループ経営会議のため不在です」と答え、用件を書き留める。

 昼を過ぎた頃、取引先の担当者が訪れた。

 右の棚から封筒を取り、応接室へ向かう。一人で来客を迎えるのは、これが初めてだった。

「こちらが、お渡しするよう伺っていた資料です」

 担当者は丁寧に礼を言い、封筒の中身を確かめることなく鞄にしまった。いくつか世間話を交わして、20分ほどで席を立つ。エレベーターの扉が閉まるまで、蛍は頭を下げていた。

 社長室入口の自分のデスクに戻って、ほっと息をついた。

 ――できた。

 誰の手も借りずに、来客を一件。たったそれだけのことが、少し誇らしかった。

 棚を整えようとして、手が止まった。

 封筒が、まだ一つ残っている。

 表に、赤い『社外』のスタンプ。中を覗くと、取引条件の概要と納期の一覧が入っていた。昨日、朔夜が言っていた資料そのものだった。

 では、さっき渡したのは。

 同じ段の、すぐ隣。そこに置かれていたものを思い出した。昨日の夕方に経営企画部から上がってきた、来期の価格改定案。表紙に『社内秘』と印字された、同じ大きさの封筒。

 血の気が、音を立てて引いていった。

「どうしよう……」

 頭の中が真っ白になる。黙っていれば、気づかれないかもしれない。先方は中身を見ていなかった。

 けれど、すぐに首を振った。そんなはずはない。価格改定案が取引先の手に渡れば、交渉の前提が崩れる。隠せば隠すほど、取り返しがつかなくなる。

 携帯を掴んだ。朔夜の番号を呼び出しかけて、指が止まる。

 会議の場にいる。だが、迷っている時間も無い。……朔夜の名前を押す。

 出ないかもしれない。そう思いながら、呼び出し音を数えた。……三回。……四回。

「……どうした」

 低い声がした。その向こうで、重い扉の閉まる音が聞こえた。

「兄さん、ごめんなさい。大変なことをしてしまいました」

 謝罪が先に出た。それから、誰に、何を、いつ渡したのか。一つずつ説明していくうちに、声の端が震えてくるのが自分でも分かった。

 電話の向こうは、しばらく黙っていた。

「……先方には、まだ連絡していないんだな」

「はい」

「分かった。俺から連絡する。回収できる段階だ。大事にはならない」

 いつもと変わらない声だった。それが、かえって胸に刺さった。

「……お前一人で行けるか」

「はい」

「電車で行け。住所は名刺にあるな」

「分かります」

「着いて話が済んだら、俺に連絡しろ」

 そこで、声の温度がわずかに変わった。

「隠さずに言ったのは、正しい。……それだけは覚えておけ」

「……はい」

 通話が切れた。

 蛍は一度だけ、深く息を吐いた。怖い。けれど、自分が起こしたことだ。

 『社外』の封筒を鞄に入れて、社長室を出た。


 ◇


 電車を乗り継ぐ間、膝の上の鞄を抱え続けた。

 中の封筒は何度も確かめたのに、また開けて確かめたくなる。窓の外を灰色の街が流れていく。朝は晴れていた空に、いつの間にか厚い雲がかかっていた。

 先方の受付で名乗ると、担当者がすぐに降りてきた。手には、昼に渡した封筒があった。

「この度は、資料の渡し間違いを……申し訳ございませんでした」

 深く頭を下げたまま、言うべきことを並べる。本来お渡しすべき資料であること。自分の確認不足であること。今後は、お渡しする前に必ず中身を確かめること。

 差し出した封筒の端が、わずかに揺れていた。

 担当者は二つの封筒を交換すると、困ったように笑った。

「いやいや。幸い、こちらもまだ何もしていませんから」

「……はい」

「私も似たような経験ありますよ。若い頃、見積書を別の会社に送ってしまって。上司と二人で菓子折りを抱えて走りました」

 その言葉で、ようやく肩から少し力が抜けた。

 先方を出る頃には、空はすっかり曇っていた。

 駅へ向かって歩きながら、携帯電話を取り出す。連絡しろ、と言われていた。朔夜の名前を探していると、背後から声がした。

「……蛍」

 振り返る。

 そこに、朔夜が立っていた。急いできた名残のように、上着の裾が揺れている。

「兄さん……?」

「大丈夫だったか」

「はい。先ほど、謝罪を終えました。資料も、交換していただきました」

「そうか」

 朔夜が息を吐いた。肩から、力が抜けた。

「……よかった」

 その一言を聞いて、蛍は朔夜の姿をまじまじと見た。そして、ふと気づく。

 今はまだ、夕方にもなっていない。

「……それより、経営会議は?」

「抜けてきた」

「……」

 蛍は、すぐには言葉が出なかった。

「抜けて……きたんですか?」

「ああ」

「でも、あの会議って……」

 グループ全体の役員や管理職が集まる、大きな会議だったはずだ。

「宗玄さんや、役員の方々も出席しているんですよね」

「そうだ」

「それを……?」

「気にするな」

 何でもないことのように、朔夜は言った。

 蛍は、何も言えなかった。

 あの老人の前でこの人がどれほど張り詰めるか、蛍は将棋盤の横で一度見ている。その場を、この人は立ってきた。封筒を一つ、自分が取り違えたせいで。

 ――どうして。

 たかが資料の渡し間違いのために、そこまでしてくれるのだろう。問いの答えは出ないまま、胸の奥に沈んだ。

 その時だった。

 頬に、冷たいものが落ちた。

「あ……」

 見上げた空から、雨粒が一つ、また一つと落ちてくる。アスファルトに黒い点が増えていき、雨足はみるみる強くなった。

「走るぞ」

「はい」

 朔夜が駆け出す。蛍も続いたが、濡れた路面でヒールが滑った。一歩、二歩と距離が開いていく。足がもつれた。

「……っ!」

 前のめりになった体が、倒れる前に止まった。

 朔夜が、蛍の腕を掴んでいた。

「こっちだ」

 そのまま引かれるように走った。水たまりを踏み、裾に泥が跳ねる。通りの脇に、古い鳥居が見えた。石段を数段駆け上がって、二人は小さな神社の拝殿の軒下へ飛び込んだ。

「はぁ……っ、はぁ……」

「……大丈夫か」

 髪の先から、滴が落ちる。ブラウスは肩から袖まで濡れて、肌に貼りついていた。11月の雨は、思っていたよりずっと冷たい。

 朔夜も同じだった。スーツの肩も、シャツの袖も濡れている。

 境内に、二人以外の人影はなかった。

 雨が屋根を叩く音だけが、絶え間なく続いている。さっきまで聞こえていた車の音も、人の声も、今は遠い。屋根の下に入っただけなのに、外の世界から切り離されたようだった。

「……」

「……」

 蛍は、まだ掴まれたままの自分の腕を見た。

 その視線を追って、朔夜も目を落とす。

 ぱっと、手が離れた。

 掴まれていた場所だけが、雨の冷たさの中で熱を持っていた。

 朔夜は黙って上着を脱ぎ、雨水を軽く払ってから、それを蛍の肩にかけた。

「あ……」

 濡れた上着の内側は、まだ体温が残っていた。

「兄さんも、濡れてます」

「お前よりはましだ」

 前髪から伝った滴が、眼鏡のレンズを流れていく。朔夜は眼鏡を外し、濡れた袖口でレンズを拭ってみた。だが、水滴は消えない。諦めたように眼鏡を畳み、胸ポケットに差し込んだ。

 蛍はその横顔を、じっと見ていた。

 眼鏡を外した朔夜を、こんなに近くで見るのは初めてかもしれない。いつもの鋭い眼差しも、隙の無さも、どこかへ抜け落ちていた。濡れた前髪が額に張りついていたが、朔夜はそれを払おうともしなかった。

 ――こんな顔、するんだ。

 前髪から、また一つ滴が落ちた。

 その時、蛍の視線に気づいたのか、朔夜がこちらを向いた。焦点を合わせるように目を細める。

「……なんだ」

「い、いえ!」

 朔夜はそれ以上聞かず、雨に煙る鳥居の方へ目を戻した。石段の下、雨の幕の向こうに、自動販売機の明かりがぼんやりと滲んでいる。

「何がいい」

「え?」

「飲み物。温かいもの」

「あ……大丈夫です」

 首を振ったが、朔夜は聞いていなかった。そのまま、雨の中へ出ていく。

 一人、軒下に残された。

 肩にかけられた上着の襟を、両手で寄せる。自動販売機の前に立つ朔夜の姿が見えた。白いシャツが雨に透けて、肩の線がそのまま浮いていた。

 今日、社長室を任された。任されて、失敗した。先方に頭を下げて、許してもらった。そこまでは、自分のしたことの後始末だ。

 けれど、この人がここにいる理由が分からない。

 会議を抜けて、ここまで来て。自分も濡れているのに、また雨の中へ出て、温かい飲み物まで買いに行っている。誰にも、頼まれていないのに。

 ――どうして、この人は。

 胸の奥に、言葉にならないものが残った。

 石段を駆け上がって、朔夜が戻ってきた。

「ほら」

「……ありがとうございます」

 差し出されたのは、温かいココアだった。両手で包むと、かじかんだ指先にじんわりと熱が伝わってくる。

 一口飲んでから、隣を見た。

 朔夜は、遠くに目を向けていた――鳥居の先、灰色の通りの向こうを。その肩が、微かに震えている。

「兄さん」

 朔夜がこちらを向いた。

「……どうぞ」

 缶を、差し出した。

「……お前が飲め」

「一人じゃ、飲みきれないので」

 朔夜は差し出された缶を見つめて、それからそっと受け取った。口をつけて、わずかに眉を寄せる。

「……甘いな」

「……はい」

 缶は、すぐに戻ってきた。

 二人は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、雨の音だけを聞いていた。


 ◇


 雨が小降りになると、朔夜は胸ポケットから眼鏡を取り出してかけ直した。駅まで並んで歩き、乗り換えの駅で別れた。朔夜は会場へ、蛍は黒崎ビルへ。

 ――夕方の車内は、まだ空いていた。

 窓に映る自分の肩に、朔夜の上着がかかっている。別れ際に返そうとしたが、朔夜は受け取らなかった。

 蛍は、その襟元を握った。


 ◇


 その夜、蛍はダイニングの端でノートを広げていた。

 別れ際、朔夜は封筒の色を分けろとだけ言った。社外は赤、社内秘は青、確認待ちは黄色。渡す前には必ず中身を見ること。明日の朝、デスクの端に貼るつもりで書き出していく。

 ペン先が止まる。向かいの椅子の背に目が行く。藤堂がかけてくれた朔夜の上着は、まだ湿っていた。

 朔夜が帰ってきたのは、22時を過ぎた頃だった。

 会議の後、そのまま社長室に寄って、1日分溜まった仕事を片付けてきたらしい。廊下で顔を合わせると、朔夜は足を止めた。

「まだ起きていたのか」

「今日は、ありがとうございました。それから……本当に、ごめんなさい」

「もう済んだ話だ」

 それだけ言って、朔夜は自室に入って行った。

 蛍はしばらく、閉じたドアの前に立っていた。


 ◇


 翌朝、朔夜はいつも通りダイニングに降りてきた。

 新聞に目を通し、藤堂の淹れたコーヒーを飲む。

「兄さん。昨日は寒かったので、今日の晩ご飯はシチューにしますね」

 朔夜が新聞から顔を上げた。少しの間、蛍を見て、それから新聞を畳んだ。

「……分かった。早めに帰る」


 ◇


 社長室での朔夜は、いつもと変わらないように見えた。

 ただ、コーヒーを頼まれる回数が、いつもより多かった。

 午後になって、蛍は何度か手を止めた。

 電話を取る朔夜の声が、少しずつ低く掠れていく。書類をめくる指が、ときどき同じページの上で止まる。眼鏡を外して目頭を押さえる仕草を、今日だけで三度見た。

「大丈夫ですか」

「……ああ」

 朔夜は眼鏡をかけ直し、次の書類に手を伸ばした。それ以上は、何も言わなかった。

 定時のチャイムが鳴った。

「あの……そろそろ……」

「……先に帰っていい。これだけ片付けたら、すぐ出る」

 朔夜は書類から目を上げなかった。

 蛍はデスクの前まで歩いていき、空になったはずのカップに手を伸ばした。持ち上げると、重い。中のコーヒーは、半分も減っていなかった。

 今日、何度も下げたカップを思い出す。どれも、ほとんど手がつけられていなかった。

 飲むためではなく、温めるために握っていたのだ。

 顔を上げた。近くで見ると、朔夜の額に、うっすらと汗が滲んでいた。顔色が、白い。

「兄さん、顔色が――」

「大丈夫だ」

 朔夜が椅子を引いて立ち上がった。

 その体が、傾いだ。

 蛍はとっさに手を伸ばし、朔夜の体を支えた。重い。けれど、それ以上に、伝わってくる熱に息を呑んだ。

「兄さん……!? ちょっと、大丈夫……?」

 返事がない。荒い呼吸だけが、耳元にかかっている。額に触れた指先が、異常な熱を拾った。

 ――熱い。すごい熱……。

「……大丈、夫だ。少し……立ちくらみ……」

「全然大丈夫じゃないよ!」

 支えきれずに、二人で床に膝をついた。デスクの端から、書類が数枚滑り落ちる。

「馬場さん、鹿島さん!」

 廊下に向かって叫ぶと、扉が勢いよく開いた。飛び込んできた黒服二人が、床に崩れた主人を見て顔色を変える。二人がかりで朔夜を支え、蛍がエレベーターのボタンを押し、どうにか車まで運んだ。

 黒崎邸に向かう車の中で、朔夜は蛍の肩にもたれたまま、一度も目を開けなかった。


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