1 イップス
朝野美登里がレイカーズの監督代行を務めていた日、宮田は、鹿児島県営球場の内野自由席でナイト・アローズとライト・パンサーズのオープン戦を観戦していた。
「よぉ、慶吾。待たせたな」
宮田の隣に一人の男が座った。木塚要平。ナイト・アローズの球団スカウトで、元東京ファルコンズの外野手。宮田とはかつてのチーム・メイトであった。
「わざわざ、俺をこんなところまで呼びだしたんだ。いい話なんだろうな」
宮田が言った。
「いい話だと思うぜ」
木塚は袋に入れた鯛焼きを一つつかんで、食べながら、言った。
「慶吾、廣橋茜を知ってるか?」
「おまえのチームのレギュラー内野手だろ」
「ああ。入団六年目で現在二十三才。一年目に打率.三三六を記録し、新人王。以後、一昨年までは三年連続三割、十本塁打以上を記録している看板ショートだった」
「彼女がどうかしたのか?」
「新聞記事を読まんのか?」
「あいにく、今はうちのチームのことで、精一杯でね。去年までは女子プロ野球の試合なんてまるで観てなかったし」
「廣橋は今、イップスにかかって、引退の危機にさらされている」
「イップス?」
「精神的な障害でプレーに支障を来す病気とでも言うべきかな。野球で言えば、投手なら打者の頭に死球を投げたせいで、内角が投げられなくなったり、打者なら、投手から頭に死球を受けたせいで、内角の球が打てなくなってしまう。他にも、最初は問題なかった守備での送球が度重なるエラーで、自信をなくして、うまく投げられなくなってしまうこともある。いずれも野球選手にとっては致命的だが、廣橋の場合、打撃不振だ」
「死球を受けたのか?」
「ああ。一昨年、九月に頭に死球を受けて、病院に運ばれた。頭蓋骨に少しヒビが入る怪我だったが、幸い脳に影響はなく、一ヶ月後には退院し、翌年には実践復帰できるまでに回復した。二月のキャンプも順調にこなし、オープン戦に入った。だが、実践に入った廣橋は全く内角を打てなくなっていた。相手チームは内角が打てないとわかれば、徹底的に攻めてくる。結局、一軍では一割にも満たない打率しか残せず、二軍でも同じ成績しか残せなかった」
「そいつは気の毒だな」
「実績のある選手だが、うちではもう扱えない」
「ん?」
「慶吾のチームで引き取らないか?」
「何だって?」
「オーナーから引き取り手を探すように命を受けてる。おまえのチームなら、必要だろ。打てなくても、守備はまだまだ一軍級だ」
「無茶苦茶なこと言うな」
「今日はおまえに見てもらうために彼女を試合に出場させてる。事実上、ラストチャンスでもあるがな」
ナイト・アローズの先発メンバーには八番セカンドで廣橋茜の名前があった。
ナイト・アローズのベンチでは、茜がベンチに緊張した様子で座っていた。
「廣橋、今日がおまえにとって最後のチャンスだ。結果を残してこい」
水元監督が茜の肩を軽く叩いて、言った。
「はい」
茜は力強く答えた。
三回のナイト・アローズの攻撃。
マウンドにはライト・パンサーズのエース・ピッチャー、鈴井琴音が上がっていた。昨年は十三勝二敗で最多勝を獲得した右投げの本格派である。
打席には六番打者の小野。
鈴井が一球目を投げた。
「ストライク!」
第一球は内角の直球。
続く第二球はシュート・ボール。小野は泳がされて、かろうじてバットに当てたものの、サードゴロで簡単にアウトになった。
よし。
茜はベンチから立ち上がり、バットケースから自分のバットを抜くと、ネクスト・バッターズ・サークルに入った。バットを両手で握り、感触を確かめる。
ずっと練習してきたんだ。大丈夫。
茜は自分で自分に言い聞かせた。
七番打者も三球目を打って、セカンドフライになり、ツー・アウトになった。
〈八番セカンド、廣橋〉
アナウンスが流れた。
客席から歓声が上がる。
茜は右打席に入った。そして、投手を見て、バットを構える。
マウンドの鈴井はロージンバックを捨て、捕手のサインを確認し、投球動作に入った。
第一球が投じられた。
思いっきり振る!
茜は踏み込んで外角のストレートに対しバットを強く振った。
ボールをバットに当たり、豪快なライナーがレフトへ飛んだ。
鈴井が後ろを見る。
打球はぐんぐん切れて、わずかにポールの外側を通ってスタンドに入り、ファールになった。客席からため息が漏れる。
ふうっ、相変わらず長打力は健在ってわけね。
鈴井はロージンバックを拾い、手が真っ白になるまでつけた。
ロージンバックを捨て、鈴井は捕手にサインを送った。
シュートで行くわ。ちょっと踏み込んでくるから。
捕手は了解のサインを送った。
いける。今の感じなら。
一方、茜は今の打球で自分の打撃に手応えを感じた。
鈴井は大きく振りかぶり、第二球目を投げた。
しまった!
鈴井は投げた瞬間、ボールがすっぽ抜けたことに気づいた。
シュート・ボールが大きく曲がり茜、目がけて飛んでいく。
ボールが……
大きく踏み込んで打とうとしていた茜は向かってくるボールに対処できず、立ちすくんでしまった。ボールは茜のヘルメットの上部に当たり、茜のヘルメットをはじき飛ばした。
「デッド・ボール!」
審判がコールした。
「すまない」
鈴井はマウンドを数歩降りて、謝った。
茜は顔面を引きつらせ、唇を震わせて立ちつくしていた。
「だ、大丈夫か?」
捕手が心配そうに声をかけた。
茜の手からバットが落ちた。
「いや……」
茜はぽつりと呟いた。
「え?」
「いやあぁぁぁぁ!!」
突然、茜は頭を抱え、跪き、泣き叫んだ。
その恐怖に満ちた叫び声に球場は静まりかえった。




