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2 登板

 一軍に昇格した皆岸紀久子は、中継ぎ投手としてベンチ入りすることになった。増岡の指摘するように紀久子の急速は全盛期からは考えられないほど落ちていたが、絶妙なコントロールと駆け引きで、中継ぎとしての役割をしっかり果たし、マスコミも『皆岸、技巧派に転身』と記事を書いた。


 そして、八月二〇日。


 午後五時五〇分、東京ダイヤモンド・スタジアムは観客の異様な熱気に包まれていた。


 女子プロ野球ブルー・ライナーズ対レッド・ランサーズの最終戦。午後六時試合開始を前に観客席は立ち見が出るほどびっしりとファンで埋め尽くされていた。


 最終戦での優勝決定ということもあり、チケットは前売りと同時に完売するほどであった。


 ブルー・ライナーズとレッド・ランサーズはここまで八十三試合を戦って、共に四十八勝三十五敗。ここまでの対戦成績は六勝五敗でブルー・ライナーズが勝ち越している。


「おまたせ」


 三塁側内野指定席に座っていた朋美のもとに同じ小学校に通う友人の三鷹(みたか)沙耶(さや)がやってきた。


「遅かったね、何してたの?」


 朋美は隣の席に置いた自分の鞄をどけながら、言った。


「ポップコーン、買ってきたの。朋美も食べる?」


 沙耶は朋美の隣の席に座った。


「ありがと」


「試合、始まった?」


「これからよ」


「朋美のお母さん、すぐ出る?」


「中継ぎだから、五回以降じゃないかな」


「なぁんだ、つまんない」


「何よ、もう」

 朋美と違い、野球には興味のない沙耶の言動に朋美は苛々した。




 試合は、ブルー・ライナーズの先発投手・谷井とレッド・ランサーズの先発投手・縞田の投げ合いで始まった。


 どちらの投手も好調で、試合は〇対〇のまま、九回の表の攻撃を迎えた。


 ブルー・ライナーズは疲れの見えた縞田を攻め、三連続ヒットで待望の一点を取り、ついに九回裏を残すのみとなった。




「結局、朋美のお母さん、出なかったね」

 沙耶が退屈そうにジュースを飲みながら、言った。


「もう、盛り上がらないなぁ。連れてくんじゃなかった。この回を抑えれば、ブルー・ライナーズの優勝なのよ」




〈九回の裏、レッド・ランサーズの攻撃、一番、セカンド、小野〉

 場内のアナウンスが流れると、一塁側から歓声が上がった。


 小野がバットを持って左打席に入る。


 谷井は捕手のサインにうなずき、アンダーハンドから第一球を投げこんだ。


 小野はいきなりセーフティバントを試みた。打球が三塁線に転がる。三塁手は猛ダッシュして、その打球をすくい上げ、一塁に投げるが、小野は全速力で走り、セーフとなった。




「あーっ」

 朋美ががっくりした声を上げた。


「え、何、今の人、セーフだったの?」

 沙耶が状況を理解できない様子で言った。


「ノー・アウトからランナー出ちゃった」


「次の人もバントするんじゃない?」

 沙耶は珍しくまともなことを言った。


「え?」


「さっき、朋美が言ってた〈もぐりバント〉とか言うやつ」


「〈もぐり〉じゃなくて〈送り〉よ」




 沙耶の言うとおり続く二番の柏田が手堅く送りバントを決め、一塁ランナーは二塁に進んだ。


 続いて三番打者の鷲見が右打席に入った。




「やばいなぁ、何とか抑えて」

 朋美は祈るような気持ちで言った。


「ねぇ」

 双眼鏡で客席を見ていた沙耶が朋美に声をかけた。


「何?」


「あそこのカップル、キスしてるよ」


「もう、そんなのどうでもいいよ」


 その時、三塁側から歓声が上がった。


 鷲見は打球を打ち上げ、レフトフライに倒れたのである。


「よしっ、後一人だ!」

 朋美は手に力が入った。




 その時、三塁側に負けじと一塁側から大歓声が上がった。


〈四番、ファースト、霧原〉


 場内アナウンスと共に霧原麗華が右打席に入った。


 霧原(きりはら)麗華(れいか)は今シーズン、ここまで打率三割八分三厘、本塁打四一本、打点百六で、本塁打と打点の二部門を独走していた。


「あいつだ」

 朋美の顔が険しくなった。


「なになに?」

 沙耶が双眼鏡から目を離し、グラウンドを見た。


「あいつがお母さんを怪我させた奴だよ」


「バット、投げたって奴。何か体、大きいね」

 霧原は身長一九〇センチで体格も女性とは思えないほど、ガッチリとしていた。




 その時、レッド・ランサーズのベンチから監督が出て、主審に何かを告げた。しばらくして、場内にアナウンスが流れる。


〈レッド・ランサーズ、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー谷井に替わりまして皆岸〉



「嘘っ!」

 朋美が思わず声に出した。


「どうしたの?」

 沙耶は不思議そうな顔をして、聞く。


「お母さんが出てきた。次に投げるのお母さんだよ」


「……まじ、やったじゃん」


「うん……」




 皆岸が球場職員が運転するリリーフ・カーに乗って、マウンドに向かい、マウンドの谷井投手からボールを受け取った。谷井はファンの歓声に応えながら、マウンドを降り、三塁側ベンチに戻る。


 マウンドには、皆岸の他に投手コーチと捕手が集まっていた


「皆岸、わかっているな」

 マウンドの投手コーチが皆岸に確認するように言った。


「……」


「霧原は歩かせろ。次の里野で勝負だ」


「わかりました」




 規定の投球練習を終えた紀久子は、打席の霧原を見た。


 打席の霧原はヘルメットを深くかぶり、つばの影で目を覆い隠している。


 やっと、迎えた霧原との対決。もう二度とないかもしれない。彼女と勝負したい……


 紀久子の心は揺れ動いていた。


 霧原はバットを構えた。


 私は一人で野球をやってるわけじゃない。自分のわがままを優先させちゃ駄目なんだ。


 紀久子は頭を振った。


「プレイ」

 審判がコールする。




「お母さん、頑張って!!」

 客席の朋美は拳を握りしめ、心の中で声援を送った。




 捕手が立ち上がり、霧原とは反対の左打席に寄った。


 その瞬間、一塁側からは大ブーイングが起こる。霧原を敬遠して四球で歩かせることに対する抗議のブーイングだ。


「弱虫、そんなことまでして優勝したいか!」


「逃げ回るくらいなら、プロ辞めちまえ!」

 容赦ない罵声が一塁側から飛んだ。


 紀久子は黙々と一球目を投じた。霧原の打席からは大きく外角に外れた高めのボール。


「!!!」

 だが、次の瞬間、霧原はボールが届かないにもかかわらず、バットを鋭く、思いっきり振った。


「ストライク!」

 審判がコールする。


 霧原……


 紀久子は霧原の行動に愕然とした。


 続く二球目、またも外角に大きく外れた山なりのボール。


 だが、霧原はまたしてもバットを振った。


「ストライク、ツー」

 審判のコール。




「ねえねえ、あのバッター、バカじゃないの。あんなボール球なのに振っちゃって」

 沙耶は笑った。


「違うよ……」

 朋美はぽつりと呟いた。「あの人、お母さんと本気で勝負したいと思ってる」




 霧原、あなた、それでもプロなの。敬遠球をわざと振ったって、勝負なんてしないんだから。


 紀久子は霧原を見た。霧原はバットを構えたまま、じっと紀久子を見ている。


 本塁打か、三振……あなたとの勝負はいつもそのどちらかだったわね。一度だって、勝負から逃げたことはなかった。二年前、あなたがあの場面でバントからヒッティングに変えたのも、スクイズの命令を土壇場で無視して、私との勝負のためにヒッティングに切り替えたことを噂で聞いた。あなたはあの試合の後、サインを無視したことで次の試合の先発から外された。


 どこまでも私との勝負にこだわるあなた。嫌いじゃないわ。



 紀久子はセット・ポジションをやめた。


 まさか、あいつ。


 捕手の表情が変わる。


 紀久子はプレートに軸足を乗せると、大きなワインドアップからボールをグラブに隠したまま、両手を頭上にあげる。そこから右足を上げ、ボールを握った方の手を後ろへ大きく伸ばした。


 私の最後の一球よ。


「!」

 霧原がバットの握りを堅くした。


 これまでスリークォーターだった紀久子が、全盛期の頃のようなオーバースローで三球目を投じた。


「ぐっ!」

 紀久子の右肩の骨が砕ける音がした。


 真ん中高めのうなるような剛速球が迫ってくる。


 霧原はバットを振った。




「お母さん!!!」

 朋美は立ち上がった。




 バットは球を真芯で捉え、客席を越え、場外へ飛ばした。

 場内が一瞬、静まりかえった。霧原は黙って、バットを置き、一塁ベースへ向かい、走り始める。




 ワーッ!!!




 球場内から貯め込んだ物を一気に噴き出すかのように大歓声が上がった。



 紀久子は右肩を押さえ、マウンドで膝を付いていた。


 霧原は二塁、三塁とまわり、ベンチから飛び出し、優勝に喜ぶチームの全メンバーが待ちかまえるホームベースに飛び込んでいった。


 ブルー・ライナーズの野手は紀久子に声をかけることもなく無言のまま、ベンチに戻っていく。最後に捕手だけが紀久子の元に歩み寄った。


「あんたはプロ失格だ!」

 捕手は紀久子にそう吐き捨てた。




「お母さん……」

 朋美は泣きそうな顔で呟いた。


「……」

 沙耶は朋美にかける言葉がなかった。


「嫌いだ……野球なんて嫌いだよ」

 朋美は客席から逃げ出した。


「朋美」

 沙耶の目もいつのまにか涙で潤んでいた。



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