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2 迷い

「宮田慶吾……」


 その夜、朋美はアパートで宮田の引退会見の模様をテレビで観ていた。


 楓が宮田からもらったというノートには、かつて紀久子が投げていた魔球ハイライズ・ボールの投げ方が記されていた。紀久子はハイライズ・ボールを投げてはいたが、制球が難しく、生涯、決め球として使うことはなかった。


 朋美が小学生の時、この魔球のことを母から聞いた時、この魔球は亡くなった父・泰幸が編み出した魔球であることを教えてくれた。


 皆岸泰幸は大卒の元プロ野球選手で一年目には十五勝を上げた投手だった。しかし、翌年、右肩に激しい痛みを訴え、病院の検査で骨肉腫と判明。引退を余儀なくされた。


 その後、社会人野球チームのコーチとなり、そこで紀久子と知り合い、すぐに結婚。紀久子が朋美を産んだ後、病気の治療をしながらも、紀久子の代わりに家事や育児を行い、紀久子の野球の練習相手を務めるなどして、紀久子の社会人野球チームへの復帰をアシストした。


 しかし、紀久子がレッド・ランサーズに入団した二年目に死去。朋美は父から野球を教わる機会は一度もなかった。


 朋美は、今は保険の外交員をしている母にハイライズ・ボールと宮田の関係について、聞きたかったが、母の引退以来、野球の話題はいつのまにか禁句になっていた。




 午後九時、紀久子がアパートに帰ってきた。


「おかえりなさい」


 テレビのスイッチを消して、朋美が玄関に出迎えた。


「ごめんなさい。お得意さまとの接待があって。夕飯は食べた?」

 紀久子はヒールを脱ぎながら、朋美に言った。


「うん。お母さんの分も作ってあったんだけど、食べる?」


「そうね、朋美がせっかく作ってくれたんなら」


 朋美は台所に行くと、鍋のシチューを温めなおした。


 紀久子はバッグを置いて、テーブルの椅子に座った。紀久子は疲れた顔をしていた。


 紀久子は保険の外交員として朝から晩まで働いていた。休日でも約束があれば、客のところへ出向いた。


 朋美は紀久子の前にシチューとご飯を出し、紀久子の向かいの椅子に座った。


「今日もご苦労様」

 朋美は笑顔で言った。


「ありがとう」

 紀久子はスプーンでシチューを食べた。「うん、おいしい。もう母さんのシチューよりおいしいわね」


「そんなことないよ」


 朋美は母と話すひとときの時間が一番好きだった。


「来年はもう高校生ね」


「うん……」


「受験勉強はしてる?」


「うん……」


「お母さん、一生懸命働くから、あなたは行きたい高校へ行きなさい。妥協なんかしちゃ駄目よ」

 紀久子は笑顔で言った。


 プロ野球選手と言っても、女子プロ野球は男子プロ野球と違い、興行的収益もテレビの放映権収益やスポンサー収益などが見込めないため、タイトル・ホルダーでも年俸は安い。その代わり、選手には球団に自身の保有権が売買できる権利がある。保有権のある球団はその権利を使って、選手の移籍を阻止することも、他球団へのレンタル移籍をさせることも可能である。


 ただし、球団間でトレードを行う場合、保有権はトレード側の球団に譲渡しなければならない。


 選手が自分が望む球団に移籍する場合、保有権を自身で持っている場合には自由に出来るが、現所属球団に保有権がある場合、保有権を現所属球団から自身、もしくは移籍先球団が買い取るか、現所属球団が許可しなければ、移籍できない。


 現所属球団が期限付き保有権を残したまま、選手が任意引退した場合、保有権の時効は停止し、復帰した場合には、再び現所属球団に期限まで保有権が発生する。


 なお、現所属球団が選手を解雇した場合、保有権は全て選手に戻される。


 紀久子の場合、夫の治療費捻出のために入団時に保有権十年分を売却したため、引退後の保険がなかったのであった。


「ねえ、お母さん」

 朋美は少し考えてから話を切りだした。


「なぁに?」


「私ね……誘われてるの?」


「誘われてる?まさか、朋美、彼氏でも出来た?」


「まさか」


「いいのよ、別に。若いんだから、デートぐらいばんばんやんなさい」


「そ、そうじゃなくて」


「なんなら、うちに連れてきたっていいからね。朋美、頑張るのよ」


「うん……」


 紀久子に押し切られ、朋美は宮田の話を切り出す機会を失った。



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