第9話:魔女の居場所
三日後。
ヴァルロワ公爵家の屋敷は、王都の北端にあった。
正門をくぐった瞬間から、空気が違った。広大な庭園に派手な花壇はない。だが白薔薇の植え込みが静かに甘い香りを漂わせ、石畳は継ぎ目すら見えないほど精密に敷かれている。
(飾らないけど、妥協もない。主人の趣味が出てるわね)
案内された応接間も同じだった。装飾は少ないが、目に入るもの全てが上質で洗練されている。壁一面の書棚には分厚い書物が整然と並んでいる。
待たされることなく、扉が開いてエリオット・ド・ヴァルロワが入ってきた。
椅子に腰を下ろして、用意された紅茶に手を伸ばした。一口飲んでから、こちらを見た。
「——さて、ヴェルン嬢」
「……どのようなことを、お知りになりたいのですの?」
「三人の元婚約者が失墜した件。——詳しく聞かせてもらえるかな」
(いきなり本題。やっぱり手強いわね、この人)
笑顔を保ちながら答えた。
「存じませんわ。婚約破棄の後は、それぞれの家の問題でございますので」
「ルフェルト子爵は偽証の強要、エルツ伯爵は親族の陰謀、ベルフォン侯爵は長年の浮気癖が露呈した」
公爵が淡々と続けた。
「タイミングが良すぎる。まるで婚約破棄の直後に、手を回した誰かがいるみたいに」
「……それは、偶然の重なりでは」
「三回も?」
エリオットの目が、少しだけ鋭くなった。
「——それに、なぜ婚約破棄された側が、毎回そんなに落ち着いているのか」
「……え?」
「断罪の場でも、婚約破棄の後も、君は常に冷静だった。それほど傷ついている様子でもない」
(……傷ついてない、こともないんですけど)
ここが正念場だった。論理で返しても、この男には通じない。全部裏取りした上で、静かに詰めてくるタイプだ。
——なら、論理以外で返すしかない。
私は、紅茶のカップをゆっくりとソーサーに戻した。
目を伏せる。睫毛が微かに震える——ように見せる。こんなこともあろうかと密かに練習していた、完璧な令嬢の泣き顔。
「……公爵様」
声を、少しだけ揺らした。
「わたくしは、ただ愛されたいだけですのに」
「……」
「なぜか毎回、こうなるんですわ。ルフェルト様も、レナード様も、ラファエル様も……わたくしを選んでくださったのに、最後にはみんな離れてしまいますの」
声が震えた。目の端にうっすらと涙が溜まる。
「きっと——そういう宿命なんですわ」
手の甲で、はらりと涙を拭った。
我ながら完璧な演技だった。男は泣く女に弱い。特に美しい令嬢の涙には。
沈黙が落ちた。
エリオットがこちらを見ている。——表情は、何一つ変わっていなかった。
「……ふーん」
(……あ、だめだ。こいつには微塵も効かない)
ただ、静かに観察するような凪いだ目で、淡々とハンカチを差し出してきた。
「なるほど。思い出させて悪かったね。さあ、涙を拭いて」
「……」
この男は嘘泣きに気づいている。気づいているのに、あえて指摘してこない。
エリオットが紅茶を一口飲んだ。余裕すら感じる自然な動作。
「君はとても興味深いな。三人が揃って婚約を申し込むだけのことはある」
(……あ、もう完全にバレてる)
嘘泣きを続ける意味がなくなった。エリオットから受け取ったハンカチで目元の涙を拭い取り、令嬢の微笑みに戻した。
「……お褒めに与りまして」
「褒めてない」
「褒めてましたわ」
「……どうかな」
沈黙が変わった。さっきまでの探り合いの空気が、少しだけ緩んでいた。
「……もう一つ聞いていいかな」
「なんですの」
「次は誰を狙っているのかな」
心臓が跳ねた。——顔には出さなかった。
「……何のことですの?」
「子爵、伯爵、侯爵。順調に上がってきている。次は公爵か、あるいは——」
エリオットの目が、こちらを射抜いた。
「王族か」
(……この男、全部見えてる)
「あいにく、そのような計画はございませんわ」
「そう」
エリオットは静かに目を伏せた。
「ならいいけど。……あのヴィクトル王子には、注意したほうがいい。表立って口にする者はいないが、あの方の機嫌を損ねて社交界から消えた者は数知れない」
慎重に言葉を選びながら、声をひそめて続けた。
「どんな理不尽な要求であろうと、王族という絶対的な権力で押し通してしまう。——それゆえにあの方は、誰からも畏れられているんだ」
(——王子、ね。私のループの最終到達点。祝賀会で見かけたときは、ただ退屈しているように見えたけど)
わざわざ忠告してくるエリオットの真意が読めず、私はただ黙って見つめ返した。
沈黙が落ちた。エリオットが紅茶を飲み終え、カップをソーサーに戻す。会話はここで終わり、という空気。
(——待って。このまま帰されたら、次がない)
この機会を逃せば、公爵との繋がりが絶たれてしまう。ここで簡単に引き下がるのは下策だ。
「公爵様」
「なに?」
「折り入って、お願いがございますの」
エリオットが少しだけ眉を上げた。
「しばらく、こちらに置いていただけませんか」
「……理由は?」
「三度の婚約破棄で、実家に帰りづらくて。今は宿暮らしですの」
嘘ではない。だが、本当の理由は別にある。この男の懐に入り込むためだ。
目を伏せて、少しだけ声を落とした。
「それに、わたくしを疑っていらっしゃるのなら、お手元に置いて、公爵様ご自身の目で確かめてくださいまし」
エリオットの目が、一瞬だけ見開かれた。それから、口の端が上がった。
「……自分からそんな提案をするとは、随分と殊勝だね」
「やましいことは何もありませんもの。潔白を証明するためですわ」
「ああ、部屋は用意させるよ」
(よし、上手く潜り込めたわ)
◇◇◇
こうして、ヴァルロワ公爵邸での生活が始まった。
さて、一つ問題がある。この男、どうもスキルが効いてないようだ。
確変は起動した。周囲の貴族には効いている。なのに、エリオットだけが平然としている。
(今までは確変で勝手に惚れてくれたから楽だったけど……スキルが効かないなら、自力で落とすしかないわね)
カードゲーマーの血が騒いだ。対戦相手は手強い方が、むしろ燃える。
(まずは情報収集。相手の趣味を探って、共通点を作る。——基本に忠実にいきましょう)
翌朝。朝食の席で、さりげなく切り出した。
「公爵様は、お仕事以外の時間は何をなさっていますの?」
「……読書かな」
(やっぱり。応接間の書棚を見た時からそうだろうと思っていたけど)
「まあ、私も本が好きですの。お屋敷に書庫があると伺いましたけれど、見せていただいてもよろしいかしら」
「……構わないよ。執事に案内させよう」
書庫は、屋敷の東棟にあった。扉を開けた瞬間、息を呑んだ。
天井まで届く書棚が四方を囲んでいる。歴史書、哲学書、地理書、植物図鑑——ジャンルも時代もばらばらだが、どれも大切に扱われている。窓から差し込む光の中に、紙とインクと古い革の匂いが漂っている。
(……すごい。本当に本が好きなのね、この人)
「自由に読んでいい。ただし、古い本も多いから、扱いには気を付けて」
「もちろんですわ」
微笑んで見せた。——が、内心は計算している。
共通の趣味は確保した。次は、この空間を使って距離を詰める。
翌日から、書庫に通い始めた。
最初はエリオットの行動を観察することから始めた。どの時間帯に書庫に来るか。どの棚の前で足を止めるか。どんな本を手に取るか。——全部、攻略するためのデータだ。
三日目。エリオットの真似をして歴史書の棚を眺めていたところ、一冊の本が目に留まった。
『ヴァルロワ公爵家 三百年史』
最上段の奥に押し込まれている。つま先立ちで指先が背表紙にかすった瞬間、横からすっと腕が伸びてきた。
「これ?」
振り返るとそこにはエリオットが立っていた。気配もなく。長い腕が軽く最上段に届いている。——わずかに触れ合った指先に少しも動揺していないのが憎らしい。
エリオットは引き出した本の表紙を見て、少しだけ顔をしかめた。
「……その本は、あまり面白くないかもよ」
部屋に持ち帰って読み始めて、エリオットが「面白くない」と言った理由が分かった。
ヴァルロワ公爵家の歴史書は、栄光と凋落の記録だった。
三百年にわたって王家を支えた名門。だが先代——エリオットの父の代で、急速に傾いた。放漫な財政と政治的失策が重なり、莫大な借金を抱え、領地は荒廃。
先代公爵自身も酒に溺れ、エリオットを残して早逝した。
そして——現当主エリオット・ド・ヴァルロワが家督を継いだのは、わずか十四歳の時。
十四歳。
私の前世ではまだ中学校に通っていた歳だ。その歳で、この男は傾いた公爵家を背負っていた。
借金の整理。領地経営の立て直し。離反した家臣団の再編。王家との信頼回復——編纂者は私情を挟まないタイプのようで、記述は淡々としていた。
でも、わずか十代の少年が、これだけのことを成し遂げるのに、どれほどの苦労があったのだろうか。
(この人——あの穏やかな顔の裏で、こんな修羅場をくぐってきたの?)
読みながら、何度か手が止まった。計算ではなく純粋に、胸を打たれてしまった。
翌日。
書庫でエリオットと向かい合った時、私は本を返しながら言った。
「この本、読みましたわ」
「もう読み終わったの?」
エリオットが、少し驚いた顔をした。
「でも、退屈だったでしょう?」
「退屈どころか——すごいと思いましたわ」
声に、演技を混ぜなかった。ここは本心で行くべきだと、直感が言っていた。
「十四歳で、あれだけのことをやり遂げたなんて」
エリオットの手が、わずかに止まった。
「……別に。公爵としてやるべきことをやっただけだよ」
いつもの声。でも——目が、泳いでいた。この男が、初めて視線の置き場を失っている。
(褒められ慣れてないのかしら。……いえ、違う。表面的な賞賛なら社交界でいくらでも浴びているはず)
少しだけ身を乗り出して、エリオットの耳元でそっと囁く。
「歴代公爵様の中でも、最後の章が一番輝いていましたわ——エリオット様の章が」
エリオットが——耳まで、赤くなった。
視線を逸らす。本棚の方を向く。でも、耳の色は隠せない。
「……世辞は不要だ」
「お世辞ではありませんわ」
「……」
沈黙。エリオットが本棚の背表紙を意味もなく指でなぞっている。明らかに動揺している。
(……効いた。しかも、想像以上に)
ヴァルロワ公爵家はあまりにも名門であるがゆえに、没落の瀬戸際にあったことは、外部の人間にはほとんど知られていないのだろう。
自ら功績を主張するようなタイプでもない。周りからは苦労を知らないボンボンだと思われて、相当歯がゆい思いをしていたはずだ。——疑いを向けている令嬢に褒められて、照れてしまうほどに。
「……エリオット様とお呼びしても?」
畳みかけた。この隙を逃す手はない。一拍の間があった。
「……好きにすれば」
目を逸らした。——耳が、まだ赤い。
(よし、ファーストネーム呼びをクリア)
攻略は順調だった。——少なくとも、この時はそう思っていた。




