第10話:似たもの同士
攻略は順調だが、決定打がない。もっと二人の距離を縮める手段はないだろうか。
書庫の棚を物色していたら、奥の方に埃を被ったチェスの箱を見つけた。
(チェスね。これは使えるかも)
前世では、カードゲームほどではないが、ボードゲームも得意だった。——だが、ここは相手に花を持たせて負けてあげるのが正解。ぎりぎりの接戦を演出して、最後に惜しく負ける。完璧なプランだ。
「——エリオット様、これ」
箱を持って書庫の椅子に向かった。エリオットが本から顔を上げる。
「チェス?」
「よろしければ、一局いかがですか?」
エリオットは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目が変わった。——よし、上手く興味を引けた。
「ルールは知ってる?」
「ええ、駒の動かし方くらいは」
テーブルの上に盤を広げた。駒を並べる。
(序盤は定石通りに。中盤で少しだけ隙を見せて、終盤で惜敗する。——簡単なゲームよ)
序盤は穏やかだった。互いに定石通りの展開。だが中盤に差し掛かった時——エリオットの目つきが変わった。
穏やかな仮面が、消えていた。
代わりにあったのは、鋭く冴えた、盤面を射抜く目。駒を動かす指先が正確で、迷いがない。瞳に、今まで見たことのない光が灯っている。
(……この目)
初めて見るエリオットの真剣な眼差しに、少しだけドキドキしてしまった。
まあ、その視線の先にあるのは私じゃなくて、チェスの駒なんだけど。
(——待って。ぎりぎりで負けてあげる、って計画だったけど——)
エリオットのナイトが、私のビショップを取った。的確だ。——読みが深い。
(やだ。結構やるじゃない)
意識が盤面に引き込まれていく。わざと隙を作る余裕が、消えていく。
エリオットのルークが、私のポーンラインを突き破った。
(——っ、それを通すの?)
反射的に手が動いた。ナイトを跳ばして、ルークの退路を塞ぐ。——最善手だ。計画なんか忘れて、無意識で打っていた。
「……やるね」
エリオットが呟いた。どうやら楽しんでいるようだ。
私も、もう手加減する余裕なんてなかった。
そこから先は、真剣勝負だった。
一手ごとに空気が張り詰める。私が攻めればエリオットが切り返し、エリオットが詰め寄れば私が捌く。心臓が熱い。盤上の駒越しに、この男と語り合っている。——楽しい。こんなに楽しいのは、いつ以来だろう。
エリオットの指が止まった。長考に入る。眉間の皺。唇を引き結ぶ横顔。
「——チェックメイト」
私のクイーンが、エリオットのキングの退路を塞いだ。
(……あっ)
勝ってしまった。バレない程度に手加減して、わざと負けるはずだったのに。つい本気を出してしまった。
(計画が台無し! やっちゃった!)
沈黙。エリオットが盤面を見つめる。それから——ゆっくりと顔を上げた。
笑っていた。
今まで見たことのない笑顔だった。苦笑いでもからかうような微笑みでもない。負けたことが悔しくて、でも楽しくて仕方がないという——子供のような、純粋な笑み。
「……もう一局」
「え?」
「もう一局だ。——次は絶対に負けない」
いつもは落ち着いた声が、めずらしく言葉を急いていた。凪いでいたはずの藍色の瞳に、まっすぐな熱が灯っている。
(——ああ、やばい。この顔は、反則よ。……って、こっちが引きずり込まれてどうするのよ)
「……もちろんですわ。何局でもお相手いたしますわ」
二局目はエリオットが勝った。三局目は私の勝ち。
駒を片付けながら、エリオットが言った。
「本を読む早さにも驚いたけど、チェスまで強いとは。君は、本当に興味深いね」
「前にも聞きましたわ、それ」
「……アリシアと呼んでもいいかな。もっと君のことが知りたいな」
手が止まった。目を合わせられなかった。
(——私、攻略してるんだっけ。それとも、攻略されてるんだっけ)
もう、分からなくなっていた。
◇◇◇
その夜、次の一手を考えていた。
確実に距離は縮まってきている。ただし、恋愛感情を持たれているかまではまだ確信が持てない。
(色仕掛けなんて柄じゃないし。……って、何を考えているんだか。少し頭を冷やすか)
翌日。朝食の席で切り出した。
「エリオット様、今日一日だけ外出してもよろしいですか? 前に泊まっていた宿に荷物を預けたままでして、そろそろ引き取らないと処分されてしまいますの」
「荷物?」
「着替えや本を少々。急にこちらに住ませて頂くことになったので、最低限しか持ってきておりませんの」
嘘ではない。実際、宿の部屋にはまだ私物が残っている。
エリオットが紅茶のカップを傾けながら、こちらを見た。
「日帰り?」
「ええ、夕方には戻りますわ」
「……気をつけて」
短い返事だった。声も表情もいつも通り。——だが、紅茶を飲む横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
(気のせいかしら)
◇◇◇
宿は、王都の社交場にほど近い通りにあった。
公爵邸と比べるまでもなく小さな宿だ。女将に頼んで預けていた荷物を受け取り、ついでに空き部屋を借りて荷物の整理を始めた。
服の仕分け、本の選別、不要なものは処分——気がつけば、窓の外が暗い。いつの間にか雨が降り始めていた。最初はぱらぱらと。やがて、本格的な土砂降りに変わった。
(まずいわね。馬車を呼べる天気じゃないわ)
夕方には公爵邸に帰ると言ったが、この雨では無理だ。この世界に電話はないし、使いを出すにも嵐が酷すぎる。
(……このまま泊まるしかないわね。まあ一晩くらい、大丈夫でしょう。明日の朝早く帰ればいい)
女将にお願いして、荷物整理に使っていた部屋にそのまま宿泊させてもらうことにした。
あまり深刻に考えてはいなかった。——この時は。
◇◇◇
夜半過ぎ。
雨音に混じって、階下が騒がしくなった。重い扉を叩く音。女将の声。それから——聞き覚えのある、低い声。
(……まさか)
部屋を出て階段の上から覗き込むと、宿の入り口に全身ずぶ濡れの長身の男が立っていた。
深い藍色の髪が額に張り付いている。
(——っ、嘘でしょう?)
階段を駆け下りた。外套が重そうに水を吸っている。
「エリオット様!? 一体なぜ——」
「——どれだけ心配したと思っているんだ」
低く、絞り出すような声だった。常に絶やさなかったあの柔らかな、感情の読めない仮面が、完全に剥がれ落ちている。
雨に濡れた藍色の瞳が、隠しきれない焦燥感を剥き出しにして、まっすぐこちらを射抜いていた。
あまりの衝撃に、しばらく言葉が出なかった。呼吸を整え、慎重に言葉を選ぶ。
「……ごめんなさい。でも、急に雨が酷くなったから、帰りが明日になると連絡もできなくて」
エリオットの表情が——一瞬、固まった。それから、ゆっくりと目を逸らした。
「……それもそうか」
濡れた髪から雫が落ちる。静寂の中、雨の音だけがやけに大きく響く。
「——私は、何を焦っていたんだろうな。どうにも気掛かりで……」
声が、小さかった。まるで独り言のように。
(本当にただ私を心配して来たの? この嵐の中を、公爵様が一人で?)
女将が気を利かせてタオルを持ってきてくれた。
「あらまあ、こんな嵐の中をよくいらしたこと。……でもお客さん、申し訳ないけど空いてるお部屋がもうないんですよ」
(——え?)
「今夜は商人の一行が泊まっていてね。お嬢さんの部屋が最後の一つだったのよ」
女将が申し訳なさそうにそう言った。
「エリオット様、わたくしの部屋を使ってくださいまし。わたくしはここの椅子で——」
「……駄目だ」
即答だった。
「君を宿の広間に残して、私だけが部屋を使うなんてあり得ない。絶対にだ」
「エリオット様を広間で寝かせる方があり得ませんわ。それとも、ずぶ濡れのまま嵐の中を一緒に帰りますか?」
沈黙。
「……君は本当に、引かないね」
「お互い様ですわ」
結局、折衷案に落ち着いた。エリオットは床に毛布を敷いて、私はベッドで。同じ部屋。
女将が予備の毛布を持ってきながら、小声で「ごゆっくり」と呟いた。
◇◇◇
エリオットは窓際に背を預けて横になり、「おやすみ」と短く言った。
灯りを消した。雨音だけが残った。
——眠れない。
当たり前だ。こんなシチュエーションで、眠れるわけがない。
暗闇の中に、エリオットの呼吸が聞こえる。規則的なようで、微妙に乱れている。
(……エリオットも、起きてる?)
チェスの時の笑顔が浮かぶ。「どれだけ心配したと思っているんだ」の声が蘇る。嵐の中を一人で駆けてきた、ずぶ濡れの横顔。
胸の奥に、じわりと熱が広がっていく。静かで、地味で、でも芯まで熱い炭火のような感情。
床板が軋む小さな音がした。寝返りを打ったのだろうか。
(……こっちを、見てる?)
分からない。暗くて何も見えない。でも、視線を感じる。——気のせいかもしれない。だって、もし本当にこっちを見ていたら——
心臓がうるさすぎて、聞こえていないか不安になる。布団を頭まで被った。
雨音が、いつまでも止まなかった。




