第11話:選択
嵐の夜が明け、どんよりとした雲の隙間から朝日が差し込み始めた頃。
私たちは無言のまま宿を出て、迎えに来た公爵家の馬車に乗り込んだ。
馬車の中は静かだった。エリオットは腕を組み、窓の外を流れる石畳をただ見つめている。私も言葉が見つからず、膝の上で手を組んだまま俯いていた。
昨夜の余韻が、まだ胸の奥でくすぶっている。恥ずかしくてエリオットの顔をまともに見られなかった。
公爵邸に到着し、いつもの応接間に通された。
一息つく間もなく、エリオットが私に向き直った。その目は、昨夜の嵐の中で見せたのと同じ——強い熱を帯びた、退路を断つような色をしていた。
「……アリシア」
名前を呼ばれるのには、まだ慣れない。
「なんですの?」
「一つ、提案がある」
エリオットが少し間を置いた。
「私と、婚約してほしい」
「……今、なんと?」
「婚約してほしい」
二度言った。表情は変わらない。声には一切の迷いがなかった。
あまりに驚きすぎて、つい口が滑った。
「よろしいんですの? わたくしをあんなに疑ってらしたのに?」
言ってから、しまった、と思った。婚約は私の望み通りの展開なのに——計算より先に本音が出た。
「……魔女が悪さをしないように監視するには、手元に置いておくのが最も都合がいい」
エリオットの目が、ほんの一瞬だけ逸れた。
「まあ、そういう理由かな」
(——その目の逸らし方は何? もしかしてただの照れ隠しなの?)
この数週間を一緒に過ごして、この男の癖はすっかり分かっていた。本心を隠す時、目を逸らす。耳が赤くなる。今の彼は、明らかに自らの本心を誤魔化そうとしていた。
私は小さく息を吐き、唇の端を吊り上げた。
「ふーん?」
「……なんだい」
「いえ? ただ、公爵様ともあろうお方が、ずいぶんと遠回りな言い訳をなさるのだなと思いまして」
彼がよく私に対して使う意地悪な相槌を、意趣返しのように使ってみせる。エリオットは少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせたが、やがて観念したように短く息を吐いた。そして、誤魔化すのをやめ、まっすぐに私を見つめ返してきた。
「……昨日、君が帰ってこなかった時」
絞り出すような、低い声だった。
「君がこのまま、どこかへ消えてしまうのではないかと……恐ろしかった。君を、手放したくない。それが本音だ」
(——っ!)
あまりにもストレートな言葉に、今度はこちらの顔が熱くなる。
けれど、胸の奥でじんわりと甘いものが広がるのを感じながら、私は精一杯の余裕を取り繕って微笑んだ。
「……ええ。喜んでお受けいたしますわ」
「本当か」
「はい。ですが、公爵夫人になるのですから……相応の証は頂けますわよね?」
私がわざとらしく上機嫌に左手を出して見せると、エリオットは憑き物が落ちたように柔らかく笑った。
「もちろんだ」
彼はすぐさま執事を呼んで、宝石商を手配させた。
それから数時間後。昼前には、見知らぬ白髪の老人が応接間に通されてきた。手には黒いベルベットの長箱を抱えている。
「王都随一の宝石商だ。婚約指輪の石を選んでほしい」
「……どれでも、よろしいんですの?」
「君の指輪だからね。当然だ」
老人が恭しく箱を開けた。ルビー、サファイア、エメラルド、ダイヤモンド——どれも一級品だと素人目にも分かる光の深さだった。
そう思いながら、指が止まったのは深い青の石だった。小ぶりだが、光を受けると底の方で静かに輝く。派手ではない。けれど、見るほどに引き込まれる色。まるで、目の前の男の瞳のような——。
「……これを」
「サファイアでございますね。いやはや、お目が高い」
宝石商が微笑み、手際よく台座に石を嵌めていく。数分で、白金の指輪にサファイアが収まった。
左手の薬指に通した。青い光が、指の上で静かに揺れる。
エリオットが、指輪を嵌めた私の左手に触れた。いつも冷静な彼には珍しく、ほんの少しだけ息を呑むような気配があった。何か深い場所から湧き上がるものを、必死に沈めようとしているような目だ。
「……似合っている」
小さな声だった。いつもの静かな余裕がない。
(……今の、本気の声だ)
顔が熱くなるのを感じた。令嬢の作り笑いすら、今はうまくできる自信がなかった。
◇◇◇
嵐のような午前中が過ぎ、午後。
エリオットが私室へ戻り、一人で客室に残された私は、左手の薬指で静かに光るサファイアを見つめていた。
(……綺麗)
何度見ても引き込まれるような、深い青。彼が私に贈ってくれた、公爵夫人の証。
だが、その事実が今の私には重かった。
《ざまぁ・ループ》を完遂するには、エリオットとの婚約も破棄させて、王子と婚約する必要がある。
指輪の冷ややかな感触が、ちくりと胸を刺した。
(この婚約指輪も……いつか返すことになるのかしら)
そう考えた瞬間、ひどく息苦しくなった。
指輪を外す自分の姿を想像するだけで、心臓が握り潰されるように痛む。
彼が私に向けた本気の声、嵐の中で見せた必死な顔。それらすべてを手放すことなど、本当に私にできるのだろうか。
(違う。私は……私は、エリオットと——)
その時だった。正門の方から、けたたましい馬車の音がした。
来客の予定はないはずだ。廊下に出ると、エリオットがいた。珍しく眉間に皺を寄せている。
「……旦那様、王城からのお客様のようです」
執事の声に、エリオットの目が細くなった。
玄関ホールに向かうと、そこにいたのは——滑らかなブロンドに、退屈そうな金色の瞳。祝賀会の王族席で頬杖をついていた、あの男。
王子ヴィクトル・ド・ハイデンが、重武装の護衛を数名引き連れて立っていた。
「ヴァルロワ公爵。突然の訪問を許せ」
許しを請う口調ではなかった。王族の、当然の権利としての物言い。金色の瞳が私を捉えた。
「——ヴェルン嬢。いや、アリシア嬢と呼ばせてもらおう」
王子が一歩、近づいてきた。
「祝賀会の夜、一目見かけたときから、君のことが頭から離れなかった」
(……は? なんで王子がここに?)
予想していなかった。完全に、想定の外だった。
「単刀直入に言おう。私と婚約してほしい」
空気が凍った。
「ヴィクトル王子。あいにくですが、アリシアは既に私の婚約者です」
エリオットがそっと私の左手を取り、王子に婚約指輪がはっきりと見えるようにした。
だが、王子は指輪を一瞥すると、平然と言い放った。
「ほう、そうか。公爵との婚約は破棄すればいい。慰謝料が必要なら、王家が出す」
エリオットの気配が変わった。——今まで感じたことのない、鋭い威圧感。
抑え込んでいる何かが、声の底に滲んでいる。
「たとえ王族であろうと——」
一触即発の空気の中、エリオットの視線がゆっくりと、私に移った。
藍色の瞳が、微かに震えている。
「……アリシア」
その一言に、彼の全ての感情が詰まっていた。「行くな」と叫びたくて、必死に飲み込んでいる目。
二人の男が、私の答えを待っている。
王子を選べば、目標は達成する。王族との婚約。それが破棄されれば、王家の資産を吸収し、最高の資産とステータスを得る。
エリオットを選べば、ループは崩れる。公爵で止まる。王子という最後のピースを、自分から手放すことになる。
(待って。——落ち着け。考えろ)
なぜ、王子がここに来た?
祝賀会の夜、王子もあの場にいた。王子にも魅力バフが効いていてもおかしくはない。それは分かる。
だが、もう一つ。
《スクラップ&ビルド》——格上の相手との出会いを引き寄せるスキル。祝賀会の夜、エリオットが先に声をかけたから、私はエリオットがスキルの引き寄せた相手だと思った。
(でも——もしスキルが引き寄せていたのが、最初から王子の方だったとしたら?)
もしそうなら、エリオットの行動は全てスキルとは無関係だ。そもそも、ルフェルトの断罪の場で転生前の私を既に見ていたなら、確変が効かなかったのも辻褄が合う。
(エリオットの愛は本物、なの?……だめよ、過剰な深読みは、カードゲームでは典型的な負けパターンよ)
頭では分かっている。王子を選ぶのが正解だ。安全だ。確実だ。
でも——エリオットの目を見てしまった。
左手のサファイアが、午後の陽光の角度で、一瞬だけ深く濃い色を見せた。
答えが、喉元まで来ている。出してしまえば、もう戻れない。




