第7話:化けの皮
扉を、開けた。
「——ラファエル様」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
ラファエルが振り向く。二人の唇が離れる。隣の令嬢が息を呑んで立ち上がり、青ざめた顔でこちらを見た。
ラファエルは——一瞬だけ目が泳いで、それからいつもの笑顔を取り繕った。
「やあ、アリシア。今日は知らせがなかったから——」
「ええ、ちょっと驚かせようと思って」
視線を隣の令嬢に向けた。亜麻色の巻き髪に、怯えた大きな瞳。——きっと悪い子じゃないんだろう。この男にそそのかされただけで。
「……し、失礼します——」
令嬢が逃げるように部屋を出ていった。扉が閉まる。
二人きりになった。
「アリシア、これは誤解——」
「誤解?」
一歩、近づいた。
「あの方の頬を両手で包んで、好きだと囁いて、キスをしていたのが誤解ですの?」
「……」
「私には一ヶ月待つと言ったのに。約束だからと笑ったのに。三週間すら、保たなかったんですのね」
声が荒くなっていく。令嬢口調が崩れかけているのが自分でも分かる。
これまでの婚約破棄で、本気で怒ったことはなかった。全部ゲームの範囲内で、感情はコントロールできていた。
今は、違う。
「あの笑顔。あの声。あの手。——全部、誰にでも同じなんでしょう?」
安物のストールを握りしめたまま、ラファエルを睨んだ。お揃いで買ったストール。侯爵の財布にとっては端金で、私だけが大事に巻いてきて、私だけがばかだった。
ラファエルは黙っていた。しばらく何か考え込むように俯いて——それから、ゆっくりと顔を上げた。
笑顔が、消えていた。
「……ああ、そうだよ」
声のトーンが変わった。甘さが全部抜け落ちて、平坦な、乾いた声だけが残っている。
「誰にでも同じだよ。——僕はそういう男だ」
太陽が沈んだ。残ったのは、何の感情も乗っていない空洞の目だった。
「君のことは好きだった。本当に。——でも、もう飽きちゃった」
あっさりと、そう言った。
「……っ」
「悪いとは思ってる。でも、しょうがないだろ。気持ちが続かないんだよ、僕は。前からずっとそうだった」
肩をすくめる。まるで明日の天気の話でもしているような軽さだった。
「一ヶ月待つって言ったの、あれは本気だったよ。言った時は。——でも二週間もしたら、もう他の子のことが気になり始めた」
(——ああ、この男。自分が最低だって分かってて、それでも直す気がないのね)
悪意すらない。ただ——こういう生き物なのだ。太陽みたいに誰でも照らして、誰のことも照らし続けられない。
「婚約は——もう解消してくれ。こんな男と一緒にいても、……君が可哀想だ」
投げやりな言い方だったが、最後の一言だけ、少し本気で申し訳なさそうだった。
——それが、余計に腹が立った。
「可哀想?」
喉が詰まったように、上手く動かない。息を吸い込んで、無理やり声を絞り出す。
「——可哀想ですって?」
一歩踏み出した。ラファエルが僅かに後退る。
「あのストール、お揃いで買いましたわよね。覚えてます? 安物のストール。貴方が子供みたいに笑って首に巻いて、似合うって聞いたあの日——あの顔も、全部飽きたから忘れたんですの?」
「アリシア——」
「黙って」
令嬢口調が完全に崩れた。もう取り繕う気にもならなかった。
「一ヶ月の約束も、テラスの灯りも、そっと触れたあの手も、全部——全部まとめて、飽きた、の一言で片づけるんですのね」
息が荒い。足が震える。視界が滲んでいる。
「……ごめん」
ラファエルが、静かに言った。あの太陽の笑顔の欠片もない、ただの腑抜けた男の顔で。
「——最低ですわ、貴方」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ラファエルは何も言い返さなかった。俯いて、小さく頷いた。
「……ああ。知ってる」
——《契約破棄の代償》、発動。
今までとは桁違いの力が奔流のように流れ込んでくる。ラファエルの莫大な資産が、ステータスが、苦しいほど一気に私の中に雪崩れ込んだ。
ラファエルの膝が折れた。壁に手をついて、かろうじて倒れずにいる。
私は一度も振り向かなかった。
ストールを首から外して、ソファの上に置いて、その場を後にした。
◇◇◇
ラファエル・ド・ベルフォンの失墜は、過去の二人以上に醜態を晒すものだった。
《スクラップ&ビルド》が暴いたのは、ラファエルの長年に渡る浮気癖の全容だった。婚約者がいる間にも複数の令嬢と関係を持ち、甘い言葉を囁いてはすぐに乗り換えていた。しかもアリシアが初めてではない。過去にも同じことを繰り返していたのだ。
あの太陽のような笑顔は、誰にでも向けられる生まれつきの才能だった。
被害者の令嬢たちが次々と声を上げ、社交界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。「やっぱり噂は本当だったのね」「まさかあそこまでとは」——噂自体は前からあったらしい。ただ、侯爵家を敵に回すことを恐れて、誰もあえて真偽を確かめようとはしなかった。それだけの話だ。
ある令嬢は夜会の席で声を震わせた。「私も同じことを言われました。『君のいる場所が、僕の世界の中心だ』って」
(——そう。あのセリフも使い回しだったのね)
侯爵位の剥奪こそ免れたものの、ベルフォン家の信用は地に落ちた。ラファエルを庇う声は、どこにもなかった。
◇◇◇
その夜。
ベッドに横たわって、ぼんやりと天井を見ていた。
ループは完璧に回っている。子爵、伯爵、侯爵。三人分の資産を吸収して、私は今や王都でも有数の資産を持つ女だ。
(……ねえ。あの一ヶ月って、何だったんだろう)
キスを待ってほしいと言った、あの一ヶ月。タイマーが切れるまでの時間稼ぎだったはずだ。すぐに別れる相手にキスされるのは嫌だから——たったそれだけのこと。
でも。もし、と思った。
もし、一ヶ月後にもまだ「キスしていい?」とあの人が同じ顔で笑っていたら、そのとき私は——
頬に、温かいものが伝った。
手で触れる。——涙だった。
「……なんで」
意味が分からなかった。私は、勝ったのに。全部、想定通りなのに。
涙を手で拭って、無理やり目を閉じた。明日になれば、いつも通りに戻る。冷静で、計算高くて、平然とループを回す自分に。
——きっと。




