第6話:一ヶ月の約束
婚約の翌日、ラファエルが屋敷を訪ねてきた。
庭園を並んで歩いている時、不意にラファエルが立ち止まる。振り向くと、澄んだ瞳がすぐそこにある。
「アリシア」
甘い声。指先が私の頬に触れ、髪をそっと耳にかけた。
「——キス、していい?」
顔が近づいてくる。吐息が肌に触れる距離。反射的に、手のひらで彼の胸を押し返していた。
「……っ、待ってくださいませ」
「ん?」
「まだ、心の準備が。……一ヶ月だけ、待っていただけますか」
言ってから、自分の声が僅かに上ずっていたことに気づいた。
ラファエルは一瞬目を丸くして、それからふっと笑った。
「一ヶ月か。うん、待つよ。君が望むなら」
その笑顔が、眩しかった。
(一ヶ月もすればタイマーが切れて、この男も冷める。キスの話なんかなかったことになるわ)
それでいい。はずなのに、胸の奥のほんの片隅で、消し損ねた火種みたいな何かが、ちりっと疼いた。
◇◇◇
お預けの日々が始まった。
ラファエルは約束を守った。キスはしない。——だが、それ以外のあらゆる手段で距離を詰めてくる。
翌朝、紅茶を飲んでいると花束が届いた。深紅の薔薇が二十九本。添えられたカードには一言『あと二十九日。』
(まさか、一か月間カウントダウンする気?)
三日目。馬車で夜会に向かう途中、当然のように隣に座ったラファエルが、不意に私の手を取った。指を絡めて、膝の上に乗せる。
「……ラファエル様」
「キスはしてない」
「手を——」
「キスじゃないでしょう?」
にっこり笑って、指先を唇に近づけた。触れる寸前で止めて、こちらを見る。
「——ほら、してない」
(……この男、ルール内で最大限に攻めてくるタイプか)
呆れた。呆れたのに——手を振り払えなかった。指先から伝わる体温が、温かくて。
夜会では相変わらず太陽みたいに振る舞い、私を「大切な人」と紹介して回り、テラスでは肩が触れる距離に立った。
「寒くない?」
「ええ、大丈夫ですわ」
言い終わる前に、腰に手を回されて引き寄せられていた。肩が密着する。
「……近いですわ」
「うん。知ってる」
悪びれもしない笑顔。——この男、本当に遠慮がない。
(……確変のせいよ。騙されちゃダメ)
七日目。二人で王都の市場を歩いた。
ラファエルは侯爵とは思えないほど自然に人混みに溶け込んでいて、露店の店主と値切り交渉まで始める始末だった。
「ねえアリシア、このストール似合うんじゃない? ほら、君の髪の色に映えるよ」
買うか聞く前にもう財布を出している。
「確かに、悪くないですわね」
「——じゃあ、僕はこっちの赤いのにしよう。これでお揃いだね!」
(お揃いって……侯爵様がこの値段のストールを?)
「似合う?」
安物のストールを首に巻いて、子供みたいに笑った。
「……ばかみたい」
口では言ったのに、つい笑ってしまった。
十日目。屋敷の庭で、二人でお茶をしていた時のこと。
ラファエルがカップを置いて、ふと真顔になった。
「アリシア」
「はい?」
「キスまであと何日?」
「……二十日ですわ」
「二十日か」
少し寂しそうに笑って、指先で私の前髪を整えた。今度は顎クイではなく、繊細なガラス細工に触れるようにそっと。
「長いな——でも、待つよ。君のいる場所が、僕の世界の中心だから」
大袈裟だ。大袈裟なのに——不思議と、嘘には聞こえなかった。
その横顔を見て、ふと思った。
(——この人が、一ヶ月後にもまだこの顔をしていたら)
もし。もしもの話だけど。タイマーが切れても、この男がまだ同じ目で私を見ていたら——
(……何を考えてるの。そんなこと、あるわけないでしょう)
頭を振った。理性が警告を鳴らしている。期待するな。パターンは決まっている。確変が切れれば全部終わる。
——全部、終わる。
でも、もう少しだけ。あと少しだけ、この温度に浸かっていたいと思った。
十四日目。夜会で、ラファエルがダンスに誘ってきた。
「一緒に踊ろう。——キスじゃないから」
先手を打たれた。反論の言葉を探す間もなく、手を取られてフロアに引き出される。
曲が始まる。ラファエルのリードは完璧だった。体の重心の移し方が絶妙で、こちらが意識しなくても流れるようにステップを踏むことができる。社交界の場で培った技術だろう。——ただ、距離が近い。ダンスとして許される限界まで詰めてきている。
「……近いですわ」
「ダンスの範囲内だよ」
「その理屈、使いすぎですわ」
ラファエルが声を立てて笑った。フロアを回りながら、さらに少しだけ顔を近づけてくる。頬が触れるか触れないかの距離。耳元で、低い声が響いた。
「——あと十六日」
ばかばかしいと思いながらも、つい顔が赤くなる。
(まだちゃんと数えてたのね……)
曲が終わる。ラファエルが手を離した。名残惜しそうに、指先が最後に少しだけ引っかかった。——でも、気のせいだと思い込むようにした。
十七日目。
その日は急に予定が空いて、ベルフォン邸を訪ねた。ラファエルに手紙を出す間もなく——というより、驚かせてやろうという気持ちが少しだけあった。お揃いで買ったストールを巻いて行ったら、あの男のことだから大袈裟に喜ぶだろう。
使用人に案内されるまでもなく、邸内の構造は覚えている。何度もお茶に招かれた応接室を通り過ぎ、庭に面した回廊を歩いていると——
半開きの扉の向こうから、笑い声が聞こえた。
ラファエルの低い声と、もうひとつ——甘い、女の声。
足が止まる。
扉の隙間から見えたのは——ソファに深く腰掛けたラファエルが、見知らぬ令嬢の頬を両手で包んでいた。
「——好きだよ」
低く甘い声で囁いて、そのまま唇を重ねた。
長い、長いキスだった。令嬢がラファエルの胸に手を添えて、幸せそうに目を閉じている。
私の顔に触れた時と同じ手が、別の女の頬を包んでいる。私に「待つよ」と言った同じ唇が、別の女に「好きだ」と囁いている。
(——ああ、そう)
安物のストールを握りしめる指が、白くなった。
まだ確変の効果は切れていない。タイマーはまだ動いている。
一ヶ月待つと言った。約束だと言った。
全部、嘘だった。




